石ころをダイヤモンドに変えて見せよう、とルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven)は言う。









石ころをダイヤモンドに変えて見せよう、と

ルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven)は言う。









Ludwig van Beethoven

1770.12.16? -1827.03.26.









...ルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン。


名前なら誰でも知っている作曲家だが、その名前がよくわからない。


《ベートーヴェン》が、本当は《ベートーフェン》だ、だとか、《ビートホーフェン》だ、だとか、そういう発音上の話もあるが、それ以前に、個人的に気になって仕方ないことがある。









名前の《van》から言うと、オランダ系だ、ということになる。だから、オランダ人のファン・ハール(Aloysius Paulus Maria "Louis" van Gaal)が、あくまでファン・ハールとかファンハールであって、間違ってもファールでもガールでもないように、この人も、最低でもファン・ベートーフェンかファンベートーフェンなんじゃないか?


にもかかわらず、外国でも何でも《Beethoven》と表記されるのが一般的で、いちいち《van Beethoven》と「正しく」表記されることは殆どない。


どういうことなのだろう?


先祖のことはどうだか知らないが、ドイツのボン生まれでウィーンが活動の本拠地だったのだから、ドイツ風あるいはウィーン風の発音でいいと言われればそれまでだが。

そのところ、どうなのだろう?

世界一有名な、誰も正しい読み方を知らない作曲家、なのではないか?


面倒くさいので、とりあえずルイ、と呼んでおこう。ちなみに、手塚治虫の漫画《ルートヴィヒ・B》では、彼はずっと《ルイ》だ。…たしか。

違ったっけ?

すくなくとも、バーンスタインは、彼のことを《親友ルイ》と、呼んでいたらしい。


交響曲と、ピアノソナタと、弦楽四重奏曲が、いま、名曲群として有名だ。


交響曲は最初、あまり好きではなかった。最近のインマゼールなどのピリオド演奏で、やっと、好きになることが出来た。

あの、ベートーヴェン・トーン、…音が響きあうのでも、溶け合うのでも際立つのでもなく、空間そのものとしてぐじゃっっと混濁して鳴り響くあれ。

ようするに、昔のハードロックだの、今のクラブのスピーカー前の爆音だの、ああいう混濁し、かつひび割れ、かつどでかくぶちのめしてくる暴力的な音響、それを聴いて、初めて本当のベートーヴェンの交響曲がわかった気がした。

つまり、ベートーヴェンは当時のレッド・ツェッペリンだったのだ。





Led Zeppelin

The Immigrant song (1973)






Ludwig van Beethoven

Symphony No. 5

Anima Eterna

Jos van Immerseel






弦楽四重奏曲は、全曲好きだ。

そしてピアノソナタ。


《ルイ》が、どういう作曲家だったのかを単純に、短く、簡単に知りたければ、9曲の交響曲を全部聴いたり、16曲と1曲ある長い弦楽四重奏曲を全部聴いたりする必要は、必ずしもない。

最初の、ピアノのソナタの第一番から第三番まで聴けば、大体、その本質がわかってしまう。


これらは作品2としてまとめられている。

要するに、二番目に出版された楽譜本に収録された三曲だ、ということになる。

ちなみに、一冊目はピアノ・トリオの三曲セットである。


出版当時、《ルイ》は、腕利きのピアニストとして、その即興能力に於いて人気を博していた。

だから、なのか何なのか、音楽が即興的に感じられるように作曲されている。インスピレーションがわくままに弾きました、という雰囲気で。

もっとも、作曲は練りに練って書いたらしい。

だいたい、1793年から1795年のあいだに書かれたようだ。

今回取り上げるのは、いわゆるピアノ・ソナタ第二番。作品2の二曲目、だ。





ピアノ・ソナタ第二番イ長調、作品2‐2

Ludwig van Beethoven

Piano sonata No.2 op.2-2

I. Allegro vivace

II. Largo appassionato

III. Scherzo. Allegretto

IV. Rondo. Grazioso

Annie Fische






一般的には、この作品2の中では、一番のヘ短調が一番有名だし、人気があるのではないか。


ところで、《ルイ》は、実際には献呈ビジネスを始めた人なので、結構ビジネスセンスがあった人だと想う。

ここでいう献呈ビジネスというのは、自分の作品を出版するときに楽譜に《○○公爵にささげる》とかなんとか、お偉いさんに献呈するのが当時のしきたりだったのだが、単純に、その献呈を貴族たちに売ったのだ。


今度、当社は新作を発表しますが、まだ誰に献呈するか決めておりません。

…どうですか?御社の名前を入れてもいいのですが。

…いえいえ、御社だったら、特別にお安くしておきますよ。


ようするに、今で言うと、《Face book》や《アメブロ》と一緒。これだけアクセスがあります。広告、どうですか?…という、広告料ビジネス。

《ルイ》の場合、出版社から出版料を取り(ただし、印税制ではない)、演奏会をし、さらに貴族から広告料まで取るのだから、それなりに無難で合理的なビジネスをやっていた、ということになる。


だから、何のかんの言って、喰いっぱぐれてはいない。

オペラの上演失敗のために、しかも外国で破産してしまったらしいヴィヴァルディや、言わずと知れたモーツァルトと違って、結構頭がよかったのだ。


だから、交響曲第九番に、…つまりたかだか交響曲の演奏会に大規模オーケストラとシンガー四人と四声フル・スペックのコーラス隊を雇ってしまう事が可能だった、とも言える。

演奏会自体で少々赤字をくらっても、まだなんとかなった、のだ。


《ルイ》の伝説的な奇矯な振る舞いの数々、貴族には尻を向けて挨拶もしないとか、ぼさぼさの髪の毛とか、演奏の難しさに難癖をつけたヴァイオリン奏者に《俺の偉大な音楽が弾けもしない無意味なヴァイオリンなら、いますぐ燃やしてしまえ》とのたまったとか、そういったエピソードも、ひょっとしたら、どこかで《ルイ》自身による演出だったかも知れない。

《革新的》で暴力的なまでの音圧が鳴り響く、…ようするにへヴィ・メタル音響が彼の売りだったのだから、例えば《レッド・ツェッペリン》に、礼儀正しさなど誰も求めはしないように、むしろそうした不良っぽさこそが求められていたのではないか。


第一番は、そういうビジネスセンスが発揮された曲だと想う。音響的には、モーツァルトの短調ものに近く、あれをもう少しつじつまをきっちり合わせて曲にしたもの、と言ってしまえば言いすぎだろうか?モーツァルトは、すぐに音楽がよじれて妙な《内面》に出会ってしまうので、ちょっと、癖が強い。そのモーツァルト臭を取っ払ってポップかつハードに仕上げました、と言う感じ。


むかし、小学校の音楽の授業で、バロックや古典派は長調が主流だったが、ベートーヴェン以降短調が主流になった、とか教わった気がするが、音楽をよく聴くようになれば、そんなわけもないことがよくわかる。


むしろ、バロックや古典派の音楽の主流は短調であるとさえ言っていい。


ソナタ形式と言うのがある。第一主題、第二主題と二つのテーマを用いるのだが、たいてい、第二主題は翳りを帯びたものが多い。

曲は提示部・展開部・再現部と進行して行くが、真ん中の展開部はたいてい短調に転調する事が多い。最初と、そのリピートのあいだで、変化をつけようとすれば、普通そうなる。

そして、一番耳に刺激を与え、記憶に残るのは展開部なのだから、長調の曲のポイントは、まさに、短調ないし、翳りを一瞬帯びる展開部にあるといわなければならない。

つまり、長調の曲は、短調の部分を聴くために、長調なのだ。明るい曲調が好まれたというより、実際には、その逆で、短調のほうが人気があったのではないか。


そういう対比のドラマを求めずに、いきなり好みの部分だけぶつけてくるのが短調の曲だ。

そして、もちろん、どうしても単調になってしまうから、あまり積極的に書かれはしないし、書くことが出来るのは、かなりの上級者に限られる、ということになる。


フランスのマラン・マレのような作曲家は言うに及ばず、古典派に決定的な影響を与えたC.P.E.バッハも、明らかに《売り》は単調にこそある。

そもそも、ことの始まりのヴィヴァルディ自体が、獲り憑かれたかのように、暗い色彩の音色を多用する、破滅的な風景を好んだ作曲だった。







いずれにしても、《ルイ》の狙い通り、ピアノ・ソナタ第一番は、いまでも演奏会に良く取り上げられる。


第一番だから、という理由だけではないと想う。第二番だったとしても、作品2の三曲の中では、一番有名になっていたはずだ。


僕が、作品2の中で、偏愛してやまないのは、むしろ第二番のほうだ。

第一楽章 アレグロ・ヴィヴァーチェ(直訳すると、優美に疾走しろ、…だろうか。)

どんな名曲なのかと期待して聴くと、まちがいなく出だしでずっこける。

僕は、この曲を初めて聴いた、たしか高校生だったか中学生だったかのときに、最初の5秒で、これからの25分間くらい、どうやって退屈な時間をすごせばいいだろうと、思わずブルーになった。


そして、主題提示の最後は、「おなら」をぶりっ、として、次の走句に続ける。


もうどうしようもない。


いくらなんでもこれはない。


が、第二主題、…第一主題に引き出された、関連性のあるこの翳りのある主題が魔法のように弾き出された瞬間に、あれ?と、想うまもなく《ルイ》の術中にはまる。

そこからは、展開に次ぐ展開で、最初の「おなら」からは想像もつかなかった風景の中に連れて行かれるのだ。


つまり、《ルイ》は言っている。

俺に石ころを差し出してくれよ。

なんでもいいぜ。

俺が触りさえすれば、どんなものでもダイヤモンドに変わるんだ。

…そういう音楽。


結局のところ、《ルイ》の音楽の基本哲学とは、《石ころをダイヤモンド》に変えることだった、と言っていい。

だから、《運命》でも《エロイカ》でも何でも、《ルイ》の曲に、名旋律は、本質的に存在しない。たぶん、かならずしも書けない、のではない。哲学に反するのだ。


《エリーゼのために》すらもが、びっくりするくらい無機的なモティーフを芸術的に重ね、《ダイヤモンド》の輝きを与えたに過ぎない。


もっとも、これは《ルイ》だけの専売特許ではない。その師ハイドン自体が、徹底的な《石ころ=ダイヤモンド》主義者だった。この人の場合、社会の、本当に貧しい底辺から這い上がった不良少年だったのだから、《ルイ》よりむしろ徹底しているくらいだ。


《ルイ》には、まだ、不良ぶって見せ、不良を売り物にするほどの《不良》への距離感があったが(…たとえば、ザ・ローリング・ストーンズのメンバーの殆どは、中流階級の出身だった)、ハイドンは、不良でいなくてもよくなったなら、不良振るどころか、逆にいかにも貴族っぽく振舞ってやらなければ気がすまないほどに、本物の不良だった(そして、ザ・ビートルズのほうがむしろ、ワーキング・クラスのならず者集団だった)。


故に、ハイドンにとっては、石ころをダイヤモンドに変える錬金術こそは、自分自身の存在証明だったのかもしれない。


第二楽章、第三楽章も、どこまでも、展開の翼は羽撃たき、特に最終楽章に於いて、《ルイ》のもう一つの要素、《デュオニュソス》的なもの、の明らかな芽生え、あるいは、最初の出現が、確認できる、と想う。詳細は稿を分けよう。


ところで、第二楽章、暴力的なまでの暗い音色が連打されるが、それは、《内面》の暗さなのだろうか?

暗い《内面》との出会いなのだろうか?

僕は、そうとは想えない。

こうした部分、よくベートーヴェン批判として好んで取り上げられ、揶揄されもする部分だが、《暗い内面》との出会いは、あのモーツァルトの音楽のテーマではあっても、ベートーヴェンの主題とは言えない。

エロイカ交響曲にも現れる、突破するための破壊力を準備しているのだ、という気がする。


…もっとも、《ルイ》の音楽において、いつも、突破はついにされはしない、のだが。


いずれにせよ、そこに内面性はない。実際、なんの内省にも誘わないからだ。

実際、ベートーヴェンの音楽ほど、からっと乾いて発熱しながら疾走する音楽はない。

あくまでも、ハード&ドライヴ。

僕たちはときに暗く暴力的な音響を浴びながら、孤独や痛みをかみしめるどころか、むしろ、もっともっと、その音圧を蓄えようとさえしながら、耳を澄ますのだから。




2018.06.24 Seno-Le Ma





Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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