モートン・フェルドマン(Morton Feldman)…もっとも孤独で、もっとも美しい音楽








モートン・フェルドマン(Morton Feldman)…もっとも孤独で、もっとも美しい音楽








Morton Feldman

1926.01.12-1987.09.03.








ピアノがかすかに、鳴る。


ふと、弦が反応していたことに、遅れて気付いた。


その時、急に、とっくのむかしに、すでに音楽など始まっていたことに気付く。


...すでに、音は鳴っていたのだった。

ひたすら静かな、どうしようもなく静かな、繊細な、そしてものすごい鋭利さを湛えて、さまざまな色彩と、意味とを、無際限に感じさせながらも、直接、手を触れることを許さない、そんな、孤独な音楽が。









心のひだとひだのとの間に生息した、穏やかな、温度のない光のような、そんな音楽。

…フェルドマン。モートン・フェルドマン。









彼について、なにか書きたいと想いつつ、そして、誰かの気を引く美しい文章を書いて、もっと、いまより少しでも有名にしてみたいと願いつつ、どうしても、何もかけなくなってしまう対象というのが、存在する。


僕にとって、それは留保なくモートン・フェルドマンと、ヤニス・クセナキス、そして、ブライアン・ファーニホウだ。…と、書いてしまった後で、なんだ、三人も居るのか、なんだか多いな、それじゃ格好つかないだろう?という気もするが、基本的に音楽と言うのは、語りにくい。

そして、誰かに教えたくなる。

どんなに言葉を費やしても、伝えきれないんだけど。


結局は、なぜ、どうしてその音楽に惹かれるのか、うまく言えたためしがない。


優れた音楽は、たぶん、比喩ではなくて、頭脳の一番敏感な部分を、現実的に一種の失語症に追い込んでしまうものなのではないか?









モートン・フェルドマン、その音楽は絶望的なまでに美しい。後期になればなるほどに。









例えば、1985年の《ピアノと弦楽四重奏》を聴くとき、いつも僕は言葉を失ってしまう。


もちろん、その音楽の美しさ自体に言葉を失うのだが、それ以前に、こんな音楽、自分で演奏するのだけは勘弁して欲しいな、とも想ったりする。

ただでさえ、ピアニシモの部分は気を使う。どんな楽器であるにせよ。

楽器奏者にとって、いつでも、一番嫌なのは、ピアニシモのロングトーンのはずだ。


どんな楽器であっても。


早いパッセージなんて、別にごまかせてしまうのである。


原則、鍵盤を叩けば音は誰でも出て、ロングトーンも何も、ずっと押しっぱなし・踏みっぱなしにしておきさえすれば、音は勝手にのびてくれるピアノにしたってそうだろう。

息をするのにさえ気を使う。

身じろぎすることさえためらわれる。


モートン・フェルドマンのように、そんなピアニッシモ・ロングトーンばかりで、しかも1時間以上音楽が続くとき、トー………ン、トー…ンと、次の音に移るのときの精神的なストレスの積み重ねは凄まじい消耗をピアニストに強いているはずだ。


この音楽が求めているレヴェルは驚くほど高い。お互いの鳴らしている声部が、重なり合うようで重なり合わない微妙なずれを伴う空気感の中、それらのかすかな触れ合いとすれ違いの空間を、お互いに耳を澄ませて聴きあいながら、響き合わせるのは、ものすごい労力を使うに違いない。









なんというストイックな姿勢だろう、と想う。

演奏家への配慮など一切存在しないのだ。

たとえば、ベートーヴェンや、ブライアン・ファーニホウとは違う意味合いに於いて。


簡単な概要を書いてしまおう。


モートン・フェルドマンはアメリカ生まれの作曲家。

ユダヤ系らしい。

まず、ワリングフォード・リーガー(Wallingford Riegger, 1885-1961)とシュテファン・ウォルペ(Stefan Wolpe, 1902-1972)に師事する。



ワリングフォード・リーガー

Wallingford Riegger





シュテファン・ウォルペ

Stefan Wolpe






後年、フェルドマンは、《シュテファン・ウォルペのために》という曲を書いている。


もっとも、後年の、自分の《声》を獲得して以降のフェルドマンのそれとは、みごとになにも重なるところのない師匠たちではある。

後期フェルドマンの音楽は、同時代的な意匠を全部、捨て去ったところで孤独に鳴っているのだ。


当時の《前衛的》意匠ありきの師匠たちとは、音楽の成り立ち自体が違っている、と言っていい。









1950年、ニューヨーク・フィルのコンサートで、アントン・ウェーヴェルン(Anton Webern, 1883.12.03-1945.09.15)の交響曲(op.21)を聴く。


ちなみに、1950年、ニューヨーク・フィル、ウェーヴェルンとくれば、指揮者はディミトリ・ミトロプーロス(Dimitris Mitropoulos, 1896.03.01-1960.11.02 バーンスタインの前任者。マーラーを積極的に取り上げた。)だったでしょ?と、勝手な推測をして仕舞うのだが、実際はどうだったのだろう?


しかも、その晩、ジョン・ケージ(John Milton Cage Jr., 1912.09.05-1992.08.12)と知り合ったらしい。

50年のケージといえば、一連のプリペアード・ピアノの曲を量産していた頃だ。当時のケージ音楽は、どこかで、後のスティーヴン・ライヒ等の、ミニマリズム音楽を予感させる、細やかな音のリズミカルな連鎖が音楽をかたちづくっていた。この時期も、傑作ぞろいである。


…どうしようもなく、贅沢な夜だ。


この時期、フェルドマンは図形譜(Graphic Notation)を考案する。

音符の代わりにグリッド線などを用いたものだ。

この試みは、音楽を変えた。頻繁に、いろんな人が図系譜を採用して、さまざまな、要するにコンセプチュアル・アート的な試みが流行する。


および、不確定性を取り込んだ音楽(music of indeterminacy, chance music)の採用。


つまり、後年、音楽の同時代的意匠そのものを捨て去る音響美に至るまでの期間、むしろ彼は当の《同時代的意匠》そのもののトップ・ランナーだった、と言うことになる。

誰よりも深い地獄を見たものだけが、誰よりも深い天国にたどり着く、という言葉がある。

まさに、誰よりも《前衛的》だったフェルドマンは、故にこそ、《前衛主義》など捨て去らざるを得ない音楽の魂そのものに触れえた、…のかもしれない。


この時期の名曲は、《Durations》。難しいことは抜きにして、とにかく美しい、と、何度聴いても思わせられてしまうのだが、どうだろう?


静寂の中に、こまやかなピアニッシモが、音色を重ねていくのに耳を澄ます、後年のフェルドマン・マナーが、もっともシンプルなかたちで、すでに実現されている気がする。

70年代になると、理論上の、こうした方向性からは一気に撤退される。









たぶん、それらって、《作曲》とはまた違った行為なんじゃないの?…と、想ったのではないか。

というか、演奏って常に図形的で不確定性を不可避的に取り込んでるから、普通にジャズでも演奏したほうが早いんじゃないか?、と。


単純に、五線譜も、その本質において《図系譜》の一種なわけで、たぶんに演奏家の恣意・解釈によらないかぎり演奏できない。

演奏行為には当たり前だが、不確定な《ノイズ》があふれている。…つまり、《不確定性》というのは、合奏音楽が鳴る、と言うこと自体の存立条件そのものなので、音楽に新しい可能性を切り開くどころか、音楽自体がたるんでしまう、弛緩してしまう、のだ。


70年代以降、《自由な》図系譜とは打って変わって、演奏困難な、精密な楽譜ばかりになる。


音数は少ない。


極端に。


たぶん、ブライアン・ファーニホゥの、十分以下分の音符しか、フェルドマンの4時間分の楽譜には書かれていないに違いない。


ただ、スコアの上と下で、拍子が違っていたり、小節がずれたりもする。

つまり、楽器Aがアレグロ、3/4だったら、楽器Bはモデラート、4/4で、楽器Cはアダージョ4/4だ、みたいな。

同時になっている音楽、それぞれの意味とスピードと存在空間が違っている、のである。

微妙にずれつつ、微妙にあっている、というか、すくなくとも響きあってはいる、という、それぞれの音が、異空間の中に存在しながら、孤独と共鳴の狭間のやわらかい空間をたゆたう、…そんな音楽が、書かれ始める。


口で言うのは簡単だが。


例えばピアノの楽譜で、右手と左手に、違うテンポと拍子感を求められたら?

はっきり言って、奏者には地獄そのものが待っていることになる。









80年代、長時間をかけた、ピアニッシモの触れ合わない語り合いが、無際限に続いて行くようなフェルドマン・マナーが完成される。

それはもう、時間が滅びた世界の果てで、長い長い長編小説が無言のうちに繰り広げられているような音楽だ。


フェルドマンの音楽は長い、と言われるが、僕には短く感じられる。


もっとも、物理的に本当に長いので、暇で時間があるときしか聞けないが、あっという間に時間がたつ。

短すぎる、とさえ想う。情報量があまりにも多く、ぎゅっと圧縮されているからだ。


ちなみに、このブログが、基本的には自作小説発表のためのブログであるにもかかわらず、タイトルで、《小説、批評、音楽、アート》とうたっているのは、実は、マーク・ロスコと、モートン・フェルドマンで、ページを作って、長い評論を載せようというのが、最初のプランだったからだ。


そのプランは、どうやったって、実現されそうもない。

結局のところ、書き出してみた短いエッセイでさえ、こんなとりとめもないものにしかならないのだから。


あまりにも、繊細な音色が、やわらかくきらめきあう音楽空間。

僕は、何を求めて、というわけでもなく、ただ、その音に耳を澄ませるのだ。


ただ、とりとめなく。


それは、たぶん、瞑想、ではない。

存在の純粋な強度に触れる、そんな体験なのだ。



2018.06.15

Seno-Le Ma



Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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