ジョルジュ・エネスコ(George Enescu)…《何か》の崩壊を見つめる魂
ジョルジュ・エネスコ(George Enescu)…《何か》の崩壊を見つめる魂
George Enescu
1881.08.19-1955.05.04.
ジョルジュ・エネスコ。
20世紀最高のヴァイオリニストにして、ルーマニアを代表する作曲家。
ヴァイオリニストとしては、バッハの《無伴奏ヴァイオリンソナタ》や、エルネスト・ショーソン(Amédée-Ernest Chausson, 1855.01.20-1899.06.10)の《詩曲》の名演が有名。
作曲家としては、管弦楽のための《ルーマニア詩曲》や、いくつかのヴァイオリン・ソナタ、二曲のチェロ・ソナタ、そして夭折した美貌の天才ピアニスト、ディヌ・リパッティ(Dinu Lipatti, 1917.03.19-1950.12.02)が愛奏した二曲のピアノ・ソナタで有名。
…と言えば、かたちどおりの紹介になるのだが、この人の場合、そうともいかない。
なぜなら、作曲家としては、ルーマニアのローカル作曲家として、たいして本気で聴くに値しない作曲家である、というのが、すくなくとも日本における一般的な評価だという事が一つ。
僕は、エネスコの音楽を愛すると言う人にあったためしがない。
そして、ヴァイオリニストとしては、ャッシャ・ハイフェッツがすべての風景を変えてしまう以前の、ピッチもまともにあっていない旧時代の化石、というのが一般的な評価だ。
あるいは、ジャック・ティボー(Jacques Thibaud, 1880.09.27-1953.09.01)やフリッツ・クライスラー(Fritz Kreisler, 1857.02.02-1962.01.29)にしても、事情は同じかも知れない。
もっとも、ヴァイオリニストとしては、一概にそうとも言えない。
熱狂的な信者が存在するからだ。
この人のバッハの《無伴奏》は、レアなレコードで(…ようするに、 Continental Recordsという、この盤以外には、家庭向けの教育用クラシックレコードを出していた事がわかっているだけの、超マイナーレーベルから、わずかな枚数が発売されただけの、まともに売られもしなかったレコードなのだ)、普通、100万円くらいで買えるかどうかの世界だ。
実際、バッハの《無伴奏》は、この人のレコード以外、聴くに値しない、という人さえもいる。
…僕も、そうなのだが。
そう言う意味では、未だに毀誉褒貶の絶えないヴァイオリニストであることもまた、事実なのだ。
この人の名前の表記には、正直言って、迷ってしまう。
ルーマニア出身だが、パリに活動の本拠地を移している。
ルーマニア語風に書けば、ジョルジェ・エネスクになる。
フランス風に書けば、ジョルジュ・エネスコだ。
かつ、第二次世界大戦以降の、ルーマニアの共産圏化以降は、ほぼ亡命状態で、いちども故国には帰っていない。
日本ではむかし、エネスコと表記されることのほうが普通だったが、いまはエネスクのほうが多い気がする。
ところで、例えば、詩人ゲオルグ・トラークルの例を代表として、20世紀のヨーロッパにもっとも深刻な影響を与えた事件は、たぶん、第一次世界大戦だったはずなのだが、モーリス・ラヴェル同様、このエネスコも戦前と戦後では、作風が全く違う。
戦前のこの人の音楽が、ルーマニアの民族的な旋律を多用する、ほの暗い歌心にあふれた情緒の音楽だとするなら、戦後のこの人の音楽は、どこかで思いつめた理不尽なまでの暗さを獲得してしまう。
戦後の代表作の一つ、チェロ・ソナタ第二番が見せる風景は、なにかが壊れているとか、荒れているとか、絶望を描写するとか、そういう問題ではなくて、なにも触れあわない空っぽの空間の中に、寄り添うわけではない音の群れが自分勝手に連鎖して行く。
…真っ暗い色調の中で。
ラヴェルにも、ヴァイオリンとピアノがお互いに無関係に鳴り続けるヴァイオリン・ソナタがあるが、ラヴェルの場合、まだ技法論的に聞いてしまえるクールな質感がある。しかし、エネスコの場合、本当に、すべてが崩壊した世界の中で、孤独な音が、お互いの孤独をあえて主張しないままに鳴っている。
よく聞けばわかるのだが、実際には、ピアノとチェロはほぼ別の曲を弾いているといっていいくらい、乖離している。にもかかわらず、あくまでお互いの音を聞きながら乖離しているので、ときにお互いに絡み合いさえしながら、結局は無関係なままなのだ。
まるで、同じ部屋でお互いを意識しながら目線さえ合わせず、調性とテンポだけが同じ違う曲を演奏しているようだ。
mov.01
第一楽章、もはや悲しんでいるのか、それとも諦めているのか、感情さえもが不鮮明な、にもかかわらず美しい音響だけが鳴る。
情緒を感じさせるようで、それは明らかに見せ掛けに過ぎない情緒だから、結局は何も語りかけてくれない。
むしろ、どこまでも空っぽの音楽なのだ。音楽が空っぽで、しかも美しいとき、それがこんなにも、無際限に恐ろしい風景を見せ付けることを、しっかりと教えてくれる。
この空っぽさが、一般的なクラシック・ファンに軽蔑される由縁だと想う。いわく、中身のない音楽だと。が、しかし、この作曲家が、《世界》に見たのは、まさに、そういう風景なのだ。
この音楽の、いたたまれないほどの《痛さ》は、ショスタコーヴィチがいかにヒューマンな温かみを持った音楽家だったか、思い知らせてくれるほどだ。
mov.02
第二楽章は、真っ黒な宇宙に飛び交う重力の、見えない力の物語なのだろうか?
それとも、叫びたいことなど何もない複数の心が、声にさえならない叫びを、無言のままにあげているのだろうか?
阿鼻叫喚、というのはこういう音楽だ、と想う。
mov.03
第三楽章には、だれも人がいない。
完全な、無人の空間の中に、ただ、音楽だけが鳴っているのだ。
mov.04
最終楽章のコーダに至るまで、チェロとピアノはついに一致しない。
コーダに於いて、二つの声部が、唐突に、完全に一致した瞬間に、すべてが崩壊して行く風景の中で、言葉にならない《何か》を叫んで、音楽は沈黙のうちに飲み込まれてしまうのだ。
20世紀が生んだ、もっとも深刻な作曲家を3人あげろと言われれば、僕は、モーリス・ラヴェルと、アルフレート・シュニトケ、そしてこのジョルジュ・エネスコを挙げる。
3つの写真がある。
順番に見ていただきたい。
どう想われただろう?
一人は美貌のヴァイオリニスト。
もう一人は知的な男性。
最後の一人は、何かを病んでいるに違いない老人。
実は、どれもジョルジュ・エネスコ、この同じ人物を捉らえたものだ。
僕は、なにか、どうしようもない場所にまでさまよって行ってしまった人物として、いつも、この人類史上もっとも才能があったヴァイオリニストを、想起してしまうのだ。
ある、執拗な痛みと、畏怖と共に。
最後に、この人のヴァイオリニストとしての能力が嫌になるほどわかる録音を。
音のすべてが、音楽だけを鳴らす、名演。
弦のわずかなかすれ、ピッチの上ずり、繊細なゆらぎ、ヴィヴラートのためらいさえもが、純粋に音楽美そのものとして、音楽そのものだけを語りかけつつ、ただ、美しい。
なぜ、このヴァイオリニストは、やがてあんなところにまで行ってしまったのだろう?
彼は何を見たのだろう?
…何を?
2018.06.04 Seno-Le Ma
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