小説《散り逝く花々のために》⑥…どうして、あなたを愛したのだろう?
その日、土砂降りの雨が降った。
テレビをつければ、高尾山の方で土砂崩れがあって、何人もの人間が家か車ごと埋もれてしまったことを知ることができたたはずだが、理沙は知らなかった。目を背けようとした。自分を見つめる、怒り狂った眼差しから。東京の交通機関は麻痺した。その怒号を聞こえない振りをしてやり過ごそうとし、殴打するこぶしが与える痛みをなかったことにする。水浸しの町。
こんな風になるなんて。すべてのものが、水浸しになって、それでもたたきつけ、破壊しつくそうとするような豪雨は収まろうとしない。
サイレンの音。水を撥ねる。
都市の排水機能は麻痺し、けど、どこかで慣れている。地震。雨。津波。台風。いつか、誰かは無慈悲にも死んでしまうものだ。
あたりまえのこと。歯軋りするだけで、目を剥いて、…穢い。何も言わずにこれが、立ったまま俺のこどもか?痙攣する、よだれさえたらして。理沙を…人間の穢れを見る。一心に、和晃は、表現したような壊れた人類の失敗作。絶望感にさえ苛まれながら。
助けてくれ、と、和晃は想った。
麻利亜は風俗のアルバイトからまだ帰ってこない。若くはない体を、若い男に投げ与えることでしか生きていけない、あの、穢い女。
舌打した自分の舌が、口の中で立てた音を聞く。
放り出された豪雨の中で、音響がやまない。耳の中で、聞き取れないほどの怒号の記憶と、雨の音響が交差して、鳴り響き、重なって、塊る。
水浸しの路面は、理沙のかかとまで沈めた。
誰もいない町を歩き、泣いてなどいなかった。息遣っている。理沙は想った。わたしは息遣っている。交差点を曲がった角のところで、非常事態の黄色信号が明滅を繰り返し、ぶつかりそうになったのは、濡れねずみのあの花屋の男だった。…あれ?声。
「…あれ?」轟音の向こうから聞こえるその声を「どうしたの?」聞いたとき、理沙は倒れるように、男の胸にしがみついたまま失心していた。
だいじょうぶ。
もう、だいじょうぶ。
しんぱいしないで。
だいじょうぶ。
繰り返される音声を、しかし、口に出しはしないので、結局は、男にさえも聞かれない。
気は付いていた。もう。失心しているのと同じような、希薄な白濁した意識の中で。男が自分の部屋につれて帰ったことを知っている。実際、それ以外に、彼としては為すすべもなかったことも、理解していた。
狭い、ごちゃごちゃした部屋。すこしくらい、掃除すればいいのに、と思いながら、男が渡そうとするタオルを取る力さえ、腕にはなかった。
一瞬、男は思いあぐねて、欲望も含めたさまざまな感情が重なって、しかし、かたちをなさない。
男が自分の濡れた、重い衣服を脱がして行くままにまかせる。男は上半身裸だったし、匂い。雨に濡れたからだの匂いに、部屋の中の空気が湿って混濁する。男が、息を飲んだのに気付いた。
男は見詰めたまま、眼を逸らせなかった。理沙の褐色の肌の、男たちが夢見たように豊な胸の膨らみに這った、無残なケロイドを。…わたしのせい。美しさを、わたしが、ね。破壊しなければ気がすまないような、じぶんで、鮮やかな、アイロンで焼いたんだよ。ケロイド。…熱いってか、小さな痛かった。理沙の手のひらをママみたいに、ちょうどなりたくなかったから。被せたような。見ていいよ。…なぜ?見て。なんで?これが、…ねぇ。わたしだから。
理沙は、何も言わない。
男は、立ったまま、素肌を曝している理沙を見詰めた。一瞬、男は目を逸らし、そうじゃない、想うKhông phải… 違うんだ、想った。…違う。
見詰め、身動きもしない、空に棄てられたままの眼差しを見いだし、遅れて、なぜかハッとして、もういちど息を飲み、見詰め、目をそらせなくなったように、理沙を見詰めてばかりなのは、にも拘らず、彼女の裸体が美しいと想おうとしていたからだろうか?
やわらかく息遣う、繊細な皮膚を握りつぶして掻き毟ったようなケロイドを、もう一度眼差しに確認して「…どうして?」聞く。…聞く。理沙は、しかし、わたしは。何も聞いた。答えないままに、わたしは、…いけない。…音。男は壊れた音。Không được… 雨の、だめ。…聞く。しちゃ、雨の、だめだ。音を。男は怒鳴りつけるような。自分の連呼された、指先が無数の、彼女のそれら、ひきつった…やまない怒号のような、ケロイドに…それら、触れた。聞く。知った。壊れた男は音。指が壊れた空から、触れたことを。たたきつけられた、触感。轟音。ざらついて、次に壊れるのは、ひきつった、なに?そのなに?…ねぇ、壊れるのは?どうして?つぎは、なにが?なに?なにが、起こったの?一体、
…きみに。
からだを拭いてやれば、ベッドの中にもぐりこんで、毛布に丸まったまま、彼女が震えているのを知っている。どれだけの間、雨に打たれていたのかわからなかった。
いけない。と想い、その男、ベトナムから来た24歳の男はなんども繰り返し、いけない、そのKhông được…ベトナム語と日本語をかわるがわる反響させ続けたが、男は知っていた。彼女をいま、誰かが抱きしめてやるべきなのは、誰にも否定できない。
美しいとはいえ、幼い少女だった。そのような感情の対象であってはならないことくらいは知っている。それに、外国人なのだから、例えば、永遠を誓うことなど、どんな風にか、誰かにか、何らかの嘘をつかない限り、できはしない。
そして、明らかに彼女は傷ついていた。背中、尻、いけない、と、太もも、想い、二の腕、乱れ、肩、とめどもなく、腹部、どうやって?すね、どうすれば、やけど、きみを切り傷、愛することが黒ずんだできるだろう?うちみ、傷ついた赤らんだ君を傷痕、傷つけない紫色の、ままに引っかかれたような、いとしい掻き毟ったような、君を。…無理だ。
無理だ、と、その言葉をKhông được…最後に頭の中にだけ、つぶやくより先に、君を男は彼女を愛することは、抱いていた。仕方ないこと。脱ぎ棄てられた君は、床の上に美しすぎたから。散らされるにまかせて、君を願った。愛することは、何とか穢すこと。傷つけないですむように。君に心を?犯罪をからだを?加えること。わからない。君をあるいは普通でなくすること。すべてを。君を聞く。最後まで耳の向こうで追い詰めること。轟音。君を雨の壊してしまうこと。あの、降りつけていた雨の触感の記憶。そして、まだ、僕が覚えていた。求めたことは肌は。唯一つ。記憶。君の痛みの、幸せ。苦痛の、君の記憶。癒し。悲鳴を不意に君が、たててしまいそうになって、いつか微笑んでくれること。しがみついた。何かに覚醒したように、肌が男の肌の触感を、あるいは汗ばんで、湿った暖かさ、その温度、息遣い、感じた、想う、わたしは、聞く。いま、音。感じる。雨の轟音のいま、こっち側に、あらゆるもの、重なり合った音、息遣いのあらゆる、音が、色彩。二つあって、触感。そのうちの触れる。ひとつがわたしに自分のものに触れた、他ならないことに、あなたに気付いたわたしは、いま、理沙は、触れた。自分が立てるその音を聞く。
とざされたままの*****が、何度か試されるうちに、次第に開いていって、*****ついに受け入れたとき、すくなくとも、*****、彼女が彼を受け入れられ獲る状態だったことに、何かの罪を許された気がした。彼女******を感じながら、確信した。もう、許されはしない、と。
日差しに、まばたく。
記憶にさえ残させないで、すべてを消し去ってしまったかのような、そんな晴れ渡った日差しが、雲の一片さえない空を、青く染めているに違いなかった。
カーテン越しの、朝の陽光が、その現実を、余すことなく予感させた。
男はまだ、寝ていた。昨日、男が自分になにをしたのか知っていたし、自分が何をしたのかも知っていた。
想った。男が、あっと言うまに、体の中に放ったときに、こんなに感じるのか、と、自分の体内に出されてしまったときの感覚は、こんなにも、はっきりと。…Yes.
言った。心の中にだけ、それ以外の言葉は想い付かなかった。…はぐくむ。
同じように、ママと、と、想い、瞬き、息遣い、…あたたかい。日差しが、やわらかく、カーテン生地を通り抜けて、「こんにちは」肌に「おはよう」触れた。「世界。」
世界よ、おはよう。
髪の毛の先で鼻をくすぐって、男を起こし、寝ぼけた眼差しの一瞬のあと、再び寝ようとして背を向けて、鼻に立てた理沙の笑い声を、男は振り向き見て、聞いた。
言った。「…理沙ちゃん」
「なに?」
「いや、…いいえ。」
「なに?」
「あ、…」
「…ね。」
「ん?」
「なに?」
「…理沙ちゃん、」
「…ん?」
「…ね。」
「…うん。」
「ん、…」
なぜ、理沙は、すべてをただ、破壊してしまわなければならないのだろう?彼を見詰めたまま、大雨の何度も記憶さえ。息遣ってその彼の事実さえ。呼吸になぜ、あわせてみようとすべてをしさえしたがなくしてしまわなければならないのだろう?不意に吹き出して笑った。大雨のできないよ。苦痛さえ。そんなこと。そのだって、凄惨ささえ。別の人だから。同じ人なら、愛さない。
あなたを愛するようには。
話していることと、話さないでいることが、殆ど差異を持ち獲ないほどに、無意味な会話と音声が交わされ、時間は濫費される。もっと。むしろ、時間など、と、理沙は、この退屈で停滞した何も生み出さない無駄で無益な時間の中で、燃え尽きてしまえばいい、と。
話しかけようとして、口籠り、ややあって、そのこのまま瞳はもう何かを手遅れに伺ってなってしまえばいいと想ったぼくは、震えた。君を見た。ついには見詰めて、手遅れにしてしまったことに、なにか気付いた。言おうとして泣き伏したくなるような口籠り、悲しみとともに。笑った。声を立てて。
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