小説《散り逝く花々のために》⑤…どうして、あなたを愛したのだろう?
誰のせい?
想った。…知ってる。わたしのせい。壊れる。
わたしが泣いたりしたから。知ってる。壊れた。なにもかも、
知ってる。壊れる。誰が?
…壊れた。わたしが、壊した。
「目を閉じて」
…ね?
「そして、そっと。」
知ってる?
「…近付けて、」
美しさを。
「感じて。」
この世界の、どうしようもないほどの、…
「…感じる?」
無残なほどの、美しさを。
「わかる…?」わかる、と、不意に目を開いて、理沙は言った。男に言われるままに、そうすると、白百合と、黄色い百合の、花弁の匂いの違いが、はっきりとわかった。
「違うでしょう?」花屋の男。その名前は、「うん。…」知らない。「…違うね。」花屋の中の、飽和した花々の芳香。
「日本語で、何と言いますか?」
「なに?」
「この匂い」…ベトナムから来た、留学生だった。「…匂い?」名前を知らないわけではない。「…そうです。この、」お互いに、初めて会った日に、「この匂いの、」名乗りあったものの、「名前…」聞きなれない発音のそれを、「あ、……」理沙は覚えることが「んー…、…、…」出来なかった。…ね、…。…
「うみにじっぽい」…なに?理沙のその言葉を聞いた瞬間に男は声を立てて笑って、「なに?何、ですか?」
「うみ、にじ、っぽい」
「なに…」海に、かかった、虹。…わかる?ゆっくりと、確認すように発音する理沙を、「海、虹、っぽい」見詰め、その微笑の向こうには、「うみにじっぽい」光。
男は想った。こんなにも、翳りのない眼差しがあって、いいのだろうか、とさえ。
まぶしくすら感じられる、眼差しの向こうの、光に満ちた風景。どんな?想った。光、風景なの?わたしを、あなたが包んで、見ている失明させる風景は。光。どんなに一瞬で綺麗なのだろう。全てをその包んで眼差しが白濁させ捉える消し飛ばして、風景は。光。
叫び声さえ、あげられない。白熱した光に、頭の中、体の中さえもが、白濁していた。光に、包まれる。和晃の指先が髪の毛に触れた一瞬に。その指先がやがて髪の毛をつかんで、顔面がたたきつけられた壁のクロスの触感と味を再確認するときには既に、光。
…包まれる。光。
あったかい。
…熱いくらい。息も、出来ないくらい。
光。
もはや、許しを請うことさえ出来ずに、床にうつぶせに倒れ、四肢を大袈裟に痙攣させて、胃液を吐き始めるいつもどおりの理沙の穢らしい姿に、和晃は目を逸らさざるを得ない。
閉ざされた部屋の中、人体の温度に汗ばむ。
美沙が、哀れむまなざしを、理沙におくった。
なぜ、理沙が、誰にも愛されないのか、美沙にはわからない。なにか、生得的な、致命的な欠陥があるに違いなかった。
哀れむしかなった。
為すすべもない。失敗作として、生まれてきてしまったのだから。「まじ、むかつく」和晃の声を聞いて、麻利亜は振り向き見、…クスリ。「なんでこいつ、わざと引き付けおこすんだろ?」つぎのクスリは、いつ手に入るのか?「壁に頭ぶつけただけじゃん」わたしが体を売ってまで、手に入れているのに「普通じゃねぇよな」なぜ、あなたは何もしないのか?「いじけてんじゃんぇの?」すぐに、何も言わずに辞めてしまう。「…なんか、奴隷根性っていうかさ。」せめて、けんかでもして辞めれないの?「…まじ、たたきなおさないと、クズだよ、」次の日、いじけたように、突然行かなくなるくらいなら。「…こいつ。」死んで。…ねぇ、と「死んでくんね?」独り語散た。
光が消えうせているのに気付く。
いつも、ふたたび気が付いたときには。
体中にこびりついた、汗の嫌な触感が在る。
吐寫物と、汗と、何か…自分の体内から漏れ出たさまざまな、穢いものが、いま、自分の体を穢しているのを知っている。
みんな、出掛けていた。
部屋には誰もいなかった。夕方。
せまい、DKのフローリングの温度と触感。
うつぶせの、頬に、胸に、下腹部と、太もも、そして、足の指と甲。…そして、二の腕にも。
どうしてだかわからない。体中が痛いのが。
わたしは、穢い。
いま、とても、穢い。
体が痛い。
起き上がれない。
死んだ振りをした。
79歳の麻里亜が見上げたのは、空が前触れもなく発した凍りつくような光だった。
あのころ、車椅子の上で、手のひらを開いて、閉じ、そして開き、それを繰り返し続けることでいくつもの一日は終わって行った。
何が起こったのか、わからなかった。轟音がとどろく気がして、それに身構えようとするまでもなく、その次の一瞬に、音響が死んでいだことに気付いた。
静寂ではなかった。音というものそれ自体が、もはやそこに存在していなかった。
大きい、と思った。青の色彩そのものが一瞬で真っ二つになったかのような、その、空が崩壊するさまに。…大きい。
なんて、大きな破壊。まだ轟音は鳴り響かない。
介護施設の中には桜の木が植えられていた。まだ咲いてはいなかった。
2059年の3月。
晴れていた。
…あいつ、好きかもよ。理沙ちゃんのこと。
ささやいたのは瑞希だった。ちっちゃな、破壊者。あたまがよくなくて、それでも勘は鋭くて、そのくせ勘違いが多いけれど、結局は、わたしの心を破壊してしまう。
凍りついた、冷たい心を。
ママを殺してしまいそうになった、穢い心を。
小さな破壊者は、笑ってはいけない、穢いわたしの顔を笑わせてしまう、と、理沙は「…ないない」思った。「違うよ」わざと唇を「なくないから。…ね、」とがらせた瑞希は「まじだよ。これ。」かわいい。かわいくないけど、その日、かわいい、と、後ろから見た思う。麻利亜の首筋は、「なんで、そんなこと、」おくれ毛がしずかに「…思うの?」煙だって、「悠太の気持ちなんか」繊細に「わかんないじゃん?」霞見草を「わかるよ」と散らしたようだった。即座に答えた理沙には瑞希はそんな気がした。唇が触れそうなほどに美しいと、耳に寄せ、…だってさ。言っていいのかどうかさえわからない、「あいつ、自分で言ってたもん」どうしようもなく理沙のこと、繊細な、好きだって。…それ。声を立てて笑う。息を「…ねぇ、」吹きかけただけで、「それってさ、」全てが「かも、じゃなくない?」壊れてしまいそうだ、「単純に、」と思い、「好きなんじゃない?」触れる。瑞希が笑う。心の中で触れたが、「だから言ってるじゃん」指先は「理沙のこと」戸惑ったまま「好きだよって」停滞した。「かもって言ったよ。」狭いDKの「みぃちゃん、」テーブルに座って、「かもっていったじゃん。」頬杖をつき、「言わないから。」理沙はそのうたた寝した「好きって、」息遣いを聞く。「好きって、」逡巡。「言ったからね。わたし」気づいたときには、「ゆわないから。」指先は「ゆってないから」麻利亜の首筋に触れ、認めようとしない瑞希は大切に、埒が明かないから、いつくしむように「好きだって言ったよ」その皮膚を「わたし」撫ぜた両手のひらが不意に、首の皮膚の温度を思いついたままに、感じたときに、キスした。いけない、と、瑞希に口付け、最後に「みぃ…」意識したのは「うるさいぞ。…」自分の「…みぃ。」声だった。「ごめん、…」と、断りもなく、ややあって、触れるなんて。茫然としたままのそんなこと、表情さえ崩さずにしちゃいけない。瑞希は言った。手のひらが「だいじょうぶ?」首を完全に「口、臭くなかった?」包みきったとき、理沙が声を立てて笑う。まるで、「はい?」手のひらが、「みぃ、…まじで」それをするためだけに「みぃ、まじであたま変だよ」作られていたかのような抱きしめ、自然さで、もう一度、麻利亜の首をキスする。絞めた。
「…なんで?」自分が何をしているのか、…ねぇ、理沙は知っていた。「なんでよ。」瑞希が止められなかった。言った。…知ってる?指がふるえ、「なんでもだよ」腕が熱を自分が、かわいいこと。持っていた。つぶやいた、正気づいた心の中だけの麻利亜が自分の言葉を、甲高い悲鳴を上げ、理沙は振り向いた眼差しには、聞いた。
確実な絶望があった。自分の心の中だけに。
絶望。自分がもう助からないことを、確信しながら哀れみを乞う、無残な表情を麻利亜は、…違う、と理沙は思った。こんなことが、と、したいんじゃない。何も意識されないが、いま、空間が音響に満たされていることは知っている。麻利亜がすすり上げるような悲鳴を立て続けている。もしそれが聞こえたなら、わたしはその瞬間に、発狂してしまうに違いない。痛ましすぎて。麻利亜のひん剥かれた白目のこまやかな毛細血管が、絶望に潤った赤をきらめかせた。もしそれが見えたなら、わたしはその瞬間に、自殺してしまうに違いない。悲しすぎて。やがて二階から降りてきた和晃に引きずられるまま、そして突っ込まれた水洗便器に流された水流が理沙の顔を洗う。水を飲み、鼻の中いっぱいに水の臭気と触感が拡がり、鼻と喉がつながっている事実を再認識する。窒息しそうになる。このまま死にたいと思う。訴えたかった。なぜ、本当に殺してくれないのかと。…なに?
と、言った。
言わなかった。聞かれはしなかった。
…だって、言わなかったから。秘密だから。心の中だけで、教えないから。言ったから。あててごらん。なにを想っているのか。
なにを、求めているのか。わたしが、…なに?と花屋の男が言った。その背後からかけられた言葉を、まるで不意にうしろから抱きしめられたように、からだを固め、しかし、それは一瞬に過ぎない。
すぐに、振り向いて、理沙は笑ってしまったから。
…なに?…これ、なに?
「…hoa」男が言った「hoa huệ」…ホア、…なに?ホア、フエ。…名前は?この花の、名前は?あなたの国言葉で。その、褐色の肌の人たちの住む国の言葉で。
わたしと同じ肌の色の。ママと同じ肌の色の。
百合の花。
男の褐色の肌に、花で満たされた入り口の、斜めに入った午後の陽光が触れていた。…そう。そうなの。
ホア、フエ。口の中だけで、理沙は繰り返して、…そう。ホア、フエ。ベトナムから来た、と男は言っていた。百合。戦争の国。百合の花。お互いに殺しあった人たちの国。白百合。銃弾とアオヤイの国。純白の花。陥落したサイゴンで、女たちが泣いた国。無垢の花。…そう。理沙は知っていた。この男は、自分を愛しているに違いなかった。
歳が離れすぎてるよ、と、いたずらな、微かな嘲笑さえ交えて、…そう。もう知ってるよ。想った。あなたの想い。
あなたは、わたしを愛さずに入られなかった。たとえ、わたしが外国人で、幼くて、たぶん自分の手が届かなくても、あなたは愛さずにはいられない。
美しいから。
「…百合」と、その日本語の名前を、つづけて何度か、「ゆ、…り」繰り返して、「ゆう…り。…」聞いた。
男の音声。彼が、時々、自分に隠れて、秘められた息遣いとともに、自分を見ているのは知っていたし、…いいよ。ときに、見て。吸い込んでいた。見たいなら。花々の匂いとともに、見て。彼は、いいよ。理沙の、例えば、見せてあげる。髪の毛の匂いさえ。
空間を満たした、くすぐるような、あまやかな匂い。
駅から離れた暇な店だから、学校の帰りに立ち寄った殆どの場合、男と理沙以外には誰もいない。
理沙が花を買うわけでもなく、眺め、時間を潰すに過ぎないことは男だって知っている。
嗅ぐ。百合の花の、綺麗な水の、それらの混ざり合った香気に、その美しく幼い少女の匂いさえ混じって、男は目を逸らす。
「きれい?」理沙が言った。
花が?そうではないことは、知っている。…ね?
眼差し。すべてを知っているに違いなかった。この少女は、自分の気持ちも、なにも、かも。「きれい?」教えて。
その瞳は、いま、何を見てるの?答える代わりに、微笑んで、黙り込んでしまった男に、理沙は小さな笑い声を投げた。
空間を、その笑い声が小さくふるわせたことに、男は気付いた。
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