小説 op.4-01《永遠、死、自由 Ⅲ》③…まだ誰も見たことのない風景を、見ようよ。

海辺でときに集めたすれ違いざまの視線を泰隆は千秋に嫉妬してみせ、千秋は声を立てて笑う。「水着、派手すぎ?…エッチかったかな?」千秋の笑い声は甲高く、鼻に抜けるように鳴る。甲高い、変声期前のような声で話した。湘南までは電車で行った。



「あなたは、どう思いますか?」

「なにを?」佐藤は振り向いて聞き返した。「…ですか?なにを。…」

…え?

「自分の正気」佐藤は、もはやわたしの顔など見てはいなかった。「自分がまだ、いわゆる正気を保っている自信がありますか?」彼の家の中で、彼の妻の腐乱した体臭は、どこにいても嗅がれた。

「あなたは?」

「信じている。…にもかかわらず信じる、と、言いますよね。にもかかわらず、と。ときどき。…いろんなときに。」

「信じるしかない、と?」

「あなたは?」

「あなたは、」と、佐藤はわたしの言葉を切って、「どう思いますか?わたしは正気ですか?どうですか?」なにも答えないわたしを振り向き見たが、「狂ってはいない。…まだ。狂いかけなのかもしれないけど。」

「なぜ?」

「ときどき、思うから。狂ってしまいたいと。」佐藤が声を立てて笑った。「狂った人間は言わないでしょう?狂ってしまいたいなんて。…言うかな?狂った人間も言いそうですね、こんなに苦しいなら、狂ってしまいたいって」

「苦しいですか。今、あなたは?」佐藤は親指のつめを撫ぜていた。左の指先の腹で。「苦しいって?…なにが。苦しいって、どういう感情のことを言うんですか?感情はある。けど、苦しみかといわれると、そんな言葉で言いくくられたくはない。」

「でも、苦しいんでしょう?」わたしは笑った。「苦しいね。」佐藤の答えを聞いた。佐藤は、「苦しくて仕方ない。」表情を作れなかった。











鼻を押さえながら、失心しかかったハナエ=龍を腕に抱きとめたとき、彼女の身体が既に崩壊しかかっているのに気づいた。鼻血と間歇的な喀血がおさまらなかった。熱があった。放射を遠因として、あるいは直接的な因子として、もはや何がどうなっているのか判断できない複数の崩壊と破綻が、彼女の身体を蝕んでいた。何がいいとか悪いとかではなくて、失敗した実験の結果を見せられている気がした。わたしたちは(…彼ら、は。)失敗しているのだった。いま、まさに、否定しようもなく。



人麻呂が血を吐いた。朝廷の人間がわたしに与えた仕事は彼を介護することだった。不死の神に食われた人間が、神の巣窟と化した、歌の神に憑かれた人間の世話をする。うつむいていた彼らが正面を向いたとき、彼の、よだれの代わりに膿んだ血を垂れる顔を見て、わたしは声を立てて笑わずにはいられなかった。こんなになっても、人間はまだ生存していられる。岩窟の中は暗かった。焚き火の炎が、彼を照らし、右手に入り口の小さな光の点があった。夥しい従者たちが向こうで何かの儀式をやっていた。狩衣の白が、向こうの陽だまりに行き来した。人麻呂の顔はずっと笑い続けていた。そんな風に筋肉が凝固しているだけかも知れなかった。なんで、生きているのか?わたしの問いかけに、いつか人麻呂は答えた。…お腹がすくから。人麻呂にまともな知性が残っているとは思えなかった。彼の歌は、彼による言葉の単なる積み木遊びのようなものでしかないのではないのか、疑わしくて仕方なかった。なんで、死なないのか?わたしの問いかけに、人麻呂は答えた、…いま、眠いから。



穢死丸の素骸骨が太刀を咥えたまま、彼の身体が前のめりに倒れて海水を舐めていた。海岸の外れの岩場、ガソリンを入手しに行った泰隆を待った。背中の向こうに、千秋が向こうをい向いてしゃがみこんでいるのは知っていた。彼女は一と通り吐いた後だった。切り落とされたわたしの左腕はわたしの体ですでに再生され、岩場に転がった左腕は幼児程度の体をすでに再生し終えていた。痛みが、忘れられそこなった記憶の痕跡のように、右腕に執拗に残っていた。千秋にかけてやるべき言葉を私はさがした。わたしの身体がどいう身体なのか、泰隆もわたしもまだ千秋には言っていなかった。わたしの再生を始めてみたときの泰隆よりはマシだった。彼は文字通り泡を吹いて失心した。「痛い?」千秋が言った。わたしの背後に隠れるようにして、頭脳を再生しようとする砕けた頭部の細胞が、咥えこまされ太刀に阻害されて、ただ膿みだけを吐き上げるのを見た。…ぐろ。千秋が言った。「…何が?」


「痛いの?」千秋の、わたしを見上げた眼差しには、心配そうな、不安げな表情だけがあった。自分ではなくて、他人のために不安を感じたときの、あの、心配されている人間を寧ろ咎めたてるようなあの目つきで。「まだ、ちょっと、痛いよ。」

「…まじだ。」

「…うそ。」笑う。「めっちゃ。…すげぇ痛いんだけど。」声をたてて笑うわたしの声を聞く。彼女の視線は最早、穢死丸の仮死体に注がれていた。尻を持ち上げて、前のめりに倒れ、今、目の前で、海に向かってひざまづいてわびているような姿勢をさらした。血がとめどなく海水を汚していた。「痛いの?」

「だから、痛いよ。」

「…じゃなくて。」

「なに?」千秋はわたしの背中に触れる。「この人。いま、死んでる人。」ああ、という相槌をうった声を、わたしはわたしの喉の奥だけに聞いた。「痛くないよ。」

「…いたいでしょ。絶対」

「意識ないから。…いま。意識、完全に、ぶっ壊れちゃってるから。」

「…そっか…」鼻水を、千秋は「よかった。」すすった。海の風が直接わたしたちに触れていた。それは熱く、にも拘らず吹いて去った後に、皮膚にかすかな寒さを感じさせもし乍ら、「…くさ。」千秋が言う「臭くない?…ね。」同意を促し、「なんか、…ね。」鼻をすすりながら「…海って。」






…あ、とその女が言った音声が耳についた。すれ違いざまに立った声の、その女は小柄だった。匂いがした。あまやいだ酸味の強い香水。それと髪の毛の臭いが入り混じった。頭の禿げた大柄男に手をつかまれていた。歌舞伎町のはずれの路上だった。夜だった。人は疎らだった。春は既に終わっていた。まだ夏ではなかった。女はでくの坊のように立ち尽くして、しかも歩みやめなかった。一瞬の痴呆状態が彼女を襲っていた。なんども振り向き見る男は、付き回しはじめたわたしの存在に気付いているに違いなかった。戯れるように、町の中を歩き、迂回し、小さな公園に出て、男の手は彼女の手のひらを優しく握ったままだった。女はずっと何かを言おうとしていた。誰かに。何も言わなかった。公園のトイレの中に入った。わたしはそとで待っていた。その必然は何もなかった。立ち去る必然もなかった。空に月だけがあった。星はなかった。衣擦れと、人の気配だけが、人気のない公園の公衆トイレの中に感じられていた。停滞した時間を食い破ってみせる気があったわけではなかった。もてあまして、トイレに入ったわたしは、壁に手をついて尻を向けさせられた女と、その背後で自慰をしている男を見つけた。女の表情は、凍り付いて形骸化した恐怖の表情だけを動きもなくさらした。目が合った瞬間、女が悲鳴をあげた。女の四肢はいま、激しく震えていた。痙攣に近いほどの振るえ。わたしにすがりついた彼女の両足は、制御を失ったようにばらばらの動きをしていた。助けてください、と、その彼女の声を聞く前に、男はあわてて剥き出しの性器をしまおうとし乍ら、泣きそうな眼差しをわたしにくれた。出来心です。男は言っていた。見逃してください。本当に、出来心です、と、言う男の胸倉をつかんだわたしの腕が彼を殴り倒そうとしたときに、背後で女が甲高い悲鳴を立てた。長い悲鳴だった。振り向いたそこに、生き生きとした恐怖にゆがんだ彼女の顔があった。どこからか漏れた汚水に穢れた床の上に投げつけられた男が、性器をさらしたままうつぶせに床を這う。スーツが汚れた水に濡れた。男は失禁していた。何もできなかった。女の声が発熱を伴って耳元にかけられた。勃たなかったから。しようとしたけど、たたなかったから。何もできなかったら。「…ゆる、し、ゆる、して、ないで、ころ、さない、で、」何もできなかったから。たちもしなかったから。次第に嗜虐的な軽蔑感を増し続ける女の声を振り向いて、わたしは女を殴った。くの字にからだをまげて女は倒れずに踏みとどまった。なぜか、彼女の両手が反対側にねじ上げられて、震えていた。彼女自身の体内の力みが、彼女の身体をへし折ってしまいそうだった。「会社員です。佐藤勝と言います。」男がひざま付きながらわたしに言っていた。「怪しくないです。普通の男です。」床を、彼の眼差しは凝視していた。都市はすでに崩壊していた。



「子どもできちゃったよ」泰隆は言った。…まじ?「まじ」どうするの?結婚するの?「する…する、けど。千秋の親に未だ言ってない。ま、…するけどね。結婚。それは、…さ。…俺の親にも、まだ、だけど。…んー。…正直、ブルーになるね。やること、多すぎて。…んー。就職も、決めなきゃいけないし。…バイトしながら、だと、ちょっと。…さすがに、…さ。」喫茶店で、「無責任じゃん?」コーヒーの白い泡の上のキャラメルパウダーをかき混ぜ、その白さを破壊しつくしながら、「…じゃん?…ね」わたしは微笑み、彼の手を叩いた。やさしく包むようにして。



わたしたちの子どもを、ありったけのガソリンをぶち撒いた炎の中に埋葬したとき、ハナ=龍は最早泣きもしなかった。子どもを自分の手で殺した瞬間にさえも。ビルの屋上から放り投げたとき、自分が放した手がさっきまで抱いていた子どもがいた空間をハナ=龍は何も言わずに見つめたあと、振り向き見た彼女はしずかに微笑んだ。「さよならって、」言った。「言ったの。今」子どもの障害は深刻だった。それは生きてはいたが、すべての身体の形態が、人体である必然を失っていた。何かの肉と骨格と神経系の作り出したでたらめな構築物にすぎなかった。生きていた。障害だったのか、と、…はたして、その形態は?わたしは疑っていた。そうではなくて、それが、人類を起源とする新しい生体の当然あるべき形態に他ならなかったとしたら?多くの新生児が、似たような重度の障害(と言われるもの)を抱えて生まれてきていることは知っていた。放射能の影響だとひとくくりにされた、さまざまな障害のさまざまな、それぞれの差異は、新しい生体の実験的な形姿に他ならないとしたら?わたしたちは何かの豊な未来を殺してしまっているのだった。「この子だって、ほら」ハナ=龍は生まれたばかりの《それ》を不器用に腕に抱きながら、わたしを慰めるように言った「ちゃんと、生きてるよ」からだの内側で何らかのやわらかい骨格をうごめかせながら、それは鳴き声を立てていた。低い、猫のようなこすれる音声だった。複雑な音調があった。…言葉?「がんばってるね。…ねぇ。ね、見える?」それが言語だとしたら?「…パパだよ」人間には不可能な複雑な音調を複雑コントロールした、高度極まりないひとつの言語だったとしたら?生き残った人間たちはそれでもふたたび生殖しはじめ、ほんのわずかの奇形になれなかった通常児と、大量の奇形児を生産した。ときに出産のために命を失いながら。奇形児たちは処分された。安楽死と言う名の処分。殺される子ども自身の《人間の尊厳》を守るための殺処分。大量の廃棄。それは、正しいの?わたしに生じた疑いが、わたしに、たんなる恐怖感だけを与えた。…未来。何か言ったげて。ハナ=龍は言った。媚びるようにわたしの胸元に、子どもごと顔をうずめて。「…パパ。なにか、言ったげて。」胸元に彼女の体温と、新生児のうごめく体躯の触感があった。何も考えられない一瞬の、意識の失心しかけたような白濁のあとで、わたしは言った。「愛してるよ。」わたしたちはある一つの未来を殺した。



泰隆が調達したガソリンをぶちまけられて、燃え上がった穢死丸を見ていた。…すげぇ。泰隆が言って、不意に笑いそうになり、自らたしなめるように笑い声は崩されたが、「…ごめん。」いいよ。泰隆に私は言った。波がうって、岩肌をなめた。「なんか、…さ」泰隆が言った。海って、惨めな気がしない?「何が?」千秋の背後で言った声を振り向きもせずに、「なんか、ちいさくって」緑色の波が打ち砕かれて白い飛沫になって、「水平線って、すぐそこにある感じ。母なる、…って。まじで?なんか、すっごい惨めなんだけど。」…くさい。千秋が言った。同意したのか、そうでないのか、自分でもわかっていない音声をわたしは聞き、穢死丸の身体が強烈な臭気を立てながら燃えた。炎の中でうめくようなノイズを肺からたて乍ら。



妻は死にました、という佐藤に同情の目をくれた。佐藤は初台の古い一戸建てに住んでいた。その言葉の意味するところはわたしにすぐに悟られた。「会いますか?」佐藤は小指を骨折していた。わたしのせいだった。「会って、…」いいかけたわたしに、わたしを同情したように、いいです、佐藤が言うのをわたしは振り向き見もしなかった。「会っても仕方ないですから。」いま、彼女はベッドにくくりつけています。「まだ?」はい。どうしても、言いあぐねた彼からの言葉をわたしは期待しなかった。「どうしていいのかわからないので」










夢、見た。うなされて見ざめたあとで、わたしにすがりつくようにしてしがみつき、泰隆が言った。「鳥になってた。宇宙と、大気圏のすれすれのところ、飛んでた。すっごい、こわいの。わかる?すっごい大きな宇宙と、すっごいおおきな空の、すれすれの狭間。すっごい、こわいの」泰隆の若い汗のにおいがした。昼間、出産後意識の戻らないままの千秋のベッドの傍らで。病室の中は暑いくらいだった。微弱なエアコンのしずかな音が聞こえていた。





Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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