小説 op.4-01《永遠、死、自由 Ⅲ》②…まだ誰も見たことのない風景を、見ようよ。

山川毛(やまかわも) 

因而奉流(よりてつかふる) 

神長柄(かむながら) 

多祇津河内迩(たぎつかふちに) 

船出為加母(ふなでするかも)人麻呂は賞賛にまみれた。彼を呼ぶとき、夥しい賞賛の形容詞を連呼して、その名をは決して呼ばないことが彼らのしきたりだった。いくつもの歌集が封印されるために編まれた。もはやほとんど機能していない鼻をわたしの皮膚にこすりつけるようにして、わたしの匂いを嗅いだ。昨日もわたしの妻が死んだ。人麻呂がそう言った。鹿を妻と呼び、朝廷から差し向けられた術師は一週間ごとに彼の前で、その《妻》の頭を割った。顔を、でたらめな嘘の顔がかかれた頭巾で隠して。四人の楽師が龍笛を吹いた。甲高い、耳のすぐ近くで鳴るその音が空間を突き刺した。二人の術師が円をかいて舞い、鹿を殺した。斧で、殴り壊すようにして。目をひん剥いた鹿の鼻と口がよだれで濡れていた。向こうに熾き火は燃えた。わたしは悲しい。微笑んだままの人麻呂の顔を見た。微笑み?あるいは、彼の顔の神経は、もはや微笑みの表情をしか作れないのかも知れなかった。






ハナエ=龍。彼女の美しい身体が空間をうがち、長い髪の毛が空気をいたぶって打つ。兄に教わったという大陸系の武道の踊るような四肢の動きが《死者たち》の身体をへし折って回った。真夏の日差しが廃墟の崩れ掛けのビル郡の谷間に斜めにさし込んだ。余震のたびに軋み、崩壊し、姿を変えた。ときに彼女は声を立てて笑いさえし、わたしは彼女のその四肢に見とれさえした。《死者たち》の一人の男の頭部が千切れ飛んで、壁に腐った血の固まりになって砕けた。白いスパッツだけはかれた褐色の身体が汗ばみ、瞬間の筋肉の凝固と弛緩のさまを皮膚はあざやかに伝えた。それはハナエ=龍の趣味だった。廃墟の中に追い込んだ《死者たち》を狩ること。脆弱な、腐りかけの彼ら。ハナエ=龍に触れることさえできずに、床と壁にたたきつけられる。骨を砕かれながら。…やんない?あんたも。上半身の、曝された褐色の肌を汗が舐める。笑いかけるハナエ=龍に首を振って、わたしは龍笛を吹いた。彼女のためにというわけでさえなく。



二十歳になるかならないかの、どこかまだ幼さを残した泰隆を後ろから抱きしめた日向千秋は声を立てて笑った。千秋は泰隆より二歳年上だった。大学のサークルで会った、といっていた。短い髪の毛を掻き毟るようにして泰隆の頬に擦り付けたが、「なに笑ってんの?」わたしを振り向き見た千秋がそのままの姿勢で言った。かわいらしい容姿をしていた。皮膚に青白さがある泰隆よりも、一般的には好ましい容姿に違いなかった。泰隆は美しかったが、はかなすぎる危うさを感じさせた。


容易に死ねない《奇形種》は、だれもがそうっだった。



ビルの屋上から飛び降りる人の姿を見た。彼は最初、まるで空中を歩こうとするかのように足を踏み出して、彼が、自分がいま、空を歩けているという事実に驚いた小さな悲鳴を立てそうに鳴った瞬間、当然彼は墜落した。一気に、手足をばたつかせたその、速度そのものと化した一気の失墜。頭が割れた血が飛び散るまでは、瞬きもできない一瞬に過ぎなかった。80年代、死者たちが復活して歩き回り始めたとき、人々が見た風景はそれぞれに別のものにすぎなかった。彼らは自分自身で、それに意味を与えなければならなかった。誰かは彼らを彼らの安息のために焼き、誰かは彼らとの共生手段を探った。誰かは彼らに世界の意味を見いだし、誰かは彼らに自分自身の罪を見た。結局のところ《死者たち》はときに拘束されて焼き捨てられ、《死者たち》はときに町を徘徊し、《死者たち》はときに部屋の中に隔離された。まだT.O.M.は月の下を飛んでいた。


初めて出会ったとき、泰隆はわたしから逃れようとした一瞬の後、沈黙して、思い直したように見つめ返した。渋谷の雑居ビルの中だった。どうしたんですか?彼は言った。わたしは既に失心しかけていた。まだ、二十歳の、華奢な身体の端整な顔立ちの男だった。血まみれのわたしを見て、「なにか、あったんですか?」声に震えがあった。穢死丸はすでに逃げ去ったあとだった。わたしは雑居ビルの階段の踊り場で、失心する寸前だった。わたしは泰隆になにか言い訳しようとした。そのときには既に失心していた。悲鳴さえ立てず、泰隆はのぞきこむようにしてわたしを見つめ続けていた。



人麻呂に挽いた鹿の生肉を食わせた。術師の言うとおりに払いの印を切って。花を食いたい。人麻呂が言った。

…花?

そう。花。

小さな、白い花。…こうやって。

口を開き、虚空で、人麻呂は食ってみせた。



「もうすぐ、腐ってしまいます。」佐藤勝と言う名の男の声に耳を澄ました。彼に言うべき言葉はなかった。わたしにワインを注いでくれ、さしだし、趣味だったんです、と、かつて、言ったものだった。「ワインを集めるのが。」目の前のベッドの上に拘束された彼の妻の死体はのた打ち回って、声帯がまだ機能さえしたならば、悲惨な悲鳴さえ上げ続けているに違いなかった。人間が発するのとは別の感性によってたてられた悲鳴を。息が漏れる音だけが無言のままに聞こえた。復活した妻の死体を、佐藤はそうして保存する以外のすべを思いつかなかった。物理学の教授だった。50歳を超えた、禿げ上がった頭の美しく見事な球形に、照明が反射光を与え、それはすべらかな皮膚の上に這った。腐りかけの妻の身体は臭気を発し、それが彼のダイニングルーム中を満たしていた。特に気にならない、やわらかな臭気だった。鼻は既に慣れていた。「彼女に、何をしてあげられるのかなって、思います。正直、」

「…彼女。」言おうとした言葉を、一瞬、忘れてしまった唇の停滞のあとに、そして佐藤は言いかけた言葉を飲み込んだままわたしを見ていた。いたたまれずに、わたしは言った。「彼女って、生きていた頃の、ですか?今の、ですか?」

「今の、」佐藤が、少しの間考えた後に「…今も、」言葉を発し始めるのだが、「かつての、…」妻の首がへし折れそうに横を向いて、わたしだけを見た気がした。その何も捉えていないはずの死んだ黒目が。「彼女の、総体…」言って、ついに佐藤は笑った。ベッドごとぐるぐる巻きにされたロープの下で死んだ妻の身体が痙攣していた。








渋谷の雑踏ですれ違った女の香水の匂いを、泰隆が一瞬嗅いだのに気づいた。「どうした?」


振り向いてわたしに笑いかけた泰隆に、わたしは微笑むしかなかった。海を見に行こうと言ったのは泰隆だった。もう何年もさ、…彼は言った。「見てないから。…じゃない?」うながされるままに相槌をうって千秋は髪をかき上げたが、千秋が自殺したとき、わたしも泰隆も、目の前に見ている風景の意味がわからなかった。見上げられたマンションの高層階のベランダに出て、千秋は向こうを見ていたが、わたしたちに気づいた彼女はすぐに手を振った。彼女が手首を切っていることに気づいたのは泰隆だった。Ki-、と、みみもとで鳴った無声音が、彼の歯が立てた音のように、わたしにそれを気づかせた。千秋の両手首が血に染まっていた。茫然とした、夢を見るような表情で、彼女の視線がしっかりとわたしたちだけを捉えていた。何が起こっているのか、わからなかった。彼女の部屋に行く約束だった。入院中でできなかった彼女の誕生日パーティを一ヶ月遅れでやり直すために。「待ってたんじゃない?」泰隆が早口に言った。その声が思いもしなかった背後で聞こえた。泰隆は立ち止まっていた。七歩うしろで立ち尽くして見上げ、その視線の向こうの千秋は声を立てずに笑っていた。まるでそれが当然であるかのような足取りでベランダを超え、わたしは彼女のしっかりしたその足取りだけを見た。わたしたちに歩み寄ろうとした瞬間の、空中に踏みだされた足が一気に彼女を墜落させた。髪の毛が、落ちる一瞬、空間に広がった。数を数える隙もないその直後に、地上、低いところの樹木の陰が彼女の身体を隠した。音さえ聞こえなかった。泰隆はまだバルコニーを見上げたままで、「どこ?」言った。「どこ行った?」口の中だけで呟くように。樹木の枝が激しく揺れていた。その向こうで、千秋の体は頭を砕いて血を撒き散らし、敷地のアスファルトの黒い色彩の上を、さらに黒ずませて濡らした。



「殺さないで」穢死丸が呟いた。何度か。もつれた舌が、何度目かに呟かれたあとで、そうやくその同じ言葉をようやくわたしに伝えた。わたしの太刀が何度も彼の身体を打ちのめし、四肢はでたらめに、かろうじてぶら下がっていた。再生しかけた手足がぶら下がった残骸をねじ切ろうとして、穢死丸は悲鳴を上げ続けなければならない。わたしの太刀がもう一度その左足を砕いた。骨がへし折れて、むき出しになったそこが血を吹いたとき、わたしは目を背けていた。自虐的で嗜虐的な昂揚が喉の奥にあった。それは発熱する。穢死丸が、生まれてきたことそれ自体をさえ後悔しているに違いない痛みの白熱した連鎖が、のた打ち回る穢死丸はわたしの目の前にあった。わたしはつばをはき捨てざるを獲なかった。「ころさないで」ふいに笑ってしまったわたしを、肩にぶら下がった首が目を向いて見上げ、「…俺は、お前とは違うから」穢死丸は言った。「違うから。殺さないで」

「何が?」


「《新東京共同体》のことだよ」背後で、上原ハナエ=龍が言った。「渋谷で、なんか、がんばってるみたい」言って笑ったハナ=龍の声が不快だった。そこに、目の前の壊れかけの穢死丸に対する軽蔑を感じたから。かすかな、しかし明らかな。《新東京共同体》のことは知っていた。旧=渋谷市街地周辺で、小さな自律国家を構築しようとしていた。すべてが廃墟になった都市で。そして、放射能に灼かれたDNAとともに急速な絶滅を今正に体験しつつあり乍ら。「研究してるみたい。あなたたちの細胞で。あなたたち、死なないじゃん。だから。」


「ころさないで」穢死丸が言った。その同じ音声は、聞き取れない舌のもつれの中で何度も呟かれたが、彼が既に失心しているのには気づいていた。繰り返される言葉は最早筋肉の痙攣と同じものに過ぎなかった。ぶらさがった頭部を、再生した新しい頭部がちぎって、穢死丸の頭部が床に転がった。ハナ=龍が背後でガソリンを用意していた。穢死丸を燃やすために。樹木が都市のアスファルトを食い破って、罅割れた無機物が構成した直線的な廃墟の細かな破綻の線の連なりの狭間に、樹木の曲線は単調な色彩を湛えて生い茂り始めていた。樹木がやがてすべて飲み込んでしまうに違いなかった。空間と地下の彼らが触れた空間のことごとくを制圧してしまう、のんびりした制圧者たち。コンクリートはぶち抜かれ、腐りかけの鉄筋は捻じ曲げられ、パイプはつら抜かれる。「どうするの?」ハナ=龍が言った。彼女は期待していた。目の前の不死の生命体が焼く尽くされて、彼自らの不死が否定される瞬間を。肉の焼ける匂い。煙の執拗なまでの臭気。ふと、疑問に思った。焼き尽くされた有機体が素粒子に戻るなら、素粒子のレベルでは死に獲なかったことになる。死?…本当に、死に獲た存在など、存在したのだろうか。かつて一度でも。T.O.M.さえ燃えながら墜落して、何年もたっていた。背後の沈黙を振り向くと、ハナ=龍が立ち尽くして目を見開いたまま、彼女の鼻から夥しい鮮血が垂れ流れていた。表情を失った眼差しが、わたしの向うを見つめたままで。「…ねぇ。海ってすき?」いつだったかハナ=龍が媚びるように背中に乳房を押し付けて、後ろからわたしを羽交い絞めにしたまま、「ぼく、きらい。」言った。穢いじゃん。…だって。臭いし。そのとき彼女の目の前の向うに干上がった東京湾の海が広がっていた。わたしの目の前には、干上がり、どこまでも広がった罅割れたかつての海底がさまざまな海中の残骸をさらしながら日に灼かれていた。その果ての、旧=東京地区の廃墟群。「じゃ、なんで、」言うわたしに「見に来たんだよ」なにじるように頬ずりして「…見たいから。」はるかに水平線の向こうで「海を。」空に接して、背後に、海は波打っていた。巨大な水溜り。地表の半分以上を埋め尽くした、重力にへばりついた水溜りの波立ち。ハナ=龍の長い髪の毛が背中と首筋にもたれかかって、束なった頭髪のあまやいだ臭気があった。









背後で甲高い、狂った音調の声が聞こえていた。朝廷の人間が何重もの護符をまき、顔を包んだ頭巾にいつもの嘘の顔を書いて、人麻呂にひざまづいていた。彼らは彼が歌う歌を筆記した。穴倉の前に護摩の熾火が燃え上がり。純白の狩衣の女たちが水を撒き続けていた。女たちのささやき声がたった。不死の人が、と耳元に…あそこに。言った。見た。ささやき声は連鎖していた。彼女の視線の先に穢死丸がいた。わたしは太刀を抜いた。女の香のにおいが鼻に残った。やがてもがきながら太刀を、開いた口から地面に突き刺された穢死丸の、両手の指を切り落としてしまいながら太刀を抜こうとする姿を、彼らは熾火で埋め尽くした。穢死丸の眼から涙が、鼻から鼻水が、口から血があふれた。彼の足が地面を掻き毟った。太刀ごと穢死丸は燃え上がっていった。






Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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