小説 op.4-02《愛する人⑤》…きみの革命、僕の涙。





死のうとしたことがあった。高校生のころ。


本当に自分が死ねるのかどうか、試してみたかった。もし、死ねなかったとしたら? 夏の日差し。美しい夏。わたしたちは知っていた。日本の、自然。美しい日本の自然。小さな、瀟洒な、華奢な、色あせたような、やわらかい日差しに包まれた、かすれ行く美しさ。記憶された淡い幻のような。そしてそれらが、ふいに発生する無慈悲なまでの暴力性、その一時停滞、その発現までの猶予期間に過ぎないことを。台風がすべてをなぎ倒し、地面はゆれ、破壊の限りを尽くしたあとに、発狂した雨が山をさえ崩壊させ、火山が燃え上がる。海は襲い掛かってすべて飲みつくし、大地に潮を植えつけてすべての可能性を殺して去る。殺戮と破壊という本質。その本質が牙をむくまでの、猶予にすぎない時間。本質に、破壊の一時停滞に過ぎないものとしてしか経過しない、うつくしく淡い時間。美しい日本。それでも美しいと言えたのか?言えたのだった。あらゆるすべてのものに対する、留保なき軽蔑としてのみ、ただ、美しいと。夏。神社に行った。人がいないから。それだけだった。代々木八幡の、小高い丘。石段を上がって、蝉の声。それらは連なった。無数に反響し、ひざし。木漏れ日のまだらな反射。それらの止まることなき振動、かすかな。参道を外れて、樹木の影に入る。影の中にさまよい、自分の影を消そうとするかのように。樹木が匂う。何ものにも例え獲ない、それら固有の芳香。彷徨、樹木の間を、しばらく、ほんの、…ほんの少しの間だけ。向こうに、人の気配がときにあり、それらはわたしの気配には気付かない。その一方的な断絶を確認した。制服のボタンをはずして、腹を出す。ベルトを緩め、息をつくが、迷う。時間。それをする、その時の合図はいつなのか? 停滞。意識の。そして、いずれにしても、まよい、ふと、戸惑い、さまよった意識の、いま、このときに、そう、意識されたその直前に、突き立てられた刃物は、腹をえぐる。温度。痛みの温度、焼き尽くし、焼き付く。痛み。それ以上、もはや刺すことができない。動かすことさえ。涙は溢れ出しているが、それが最早汗と一切変わらないという事実。皮膚が濡れていた。汗が。取り落とされた刃物が土の上に落ちて、刃の血の色を汚す。土が。息をする。きらめく。気遣う。血が溢れているのは知っている。痛みが、そして、一瞬前の痛みの記憶さえもが連なって、いたい。死ねない。傷が快癒していくのに気付いているわたしは、息をつき、夏の大気。その容赦ない温度。進化。…滅びていくはずの人たち。すでに、過去の存在になりかけた人々。彼らは生きている。いまも。痛みがわたしを何度か失心させて、痛みがわたしの失心を突き破って、わたしは覚醒する。何度か。衣類は既に血にまみれていた。わたしは既に完全に治癒していた。痛みの痕跡は未だあった。あなたたちはみんな死ぬ。進化に取り残された残骸たち。殺してくれ、と、思った。俺を、だれか、殺してくれ。いま、わたしたちが皆、滅びてしまう前に。滅ぼされてしまう前に。わたしたちは、滅ぼして仕舞ったのだった。殺してくれ。いま、すべてが、過去の記憶になってしまう前に。息をととのえて、早足で、逃げ去るように立ち去るわたしを誰も見なかった。通り過ぎ、すれ違った人々以外には。隠すようにして。血痕を。隠し切れないそれが人々の視線を集め、視線が咎める。あるいは訝って、あるいは、その女は悲鳴を冴え上げそうになった。その血痕に。見つめかえされた視線に、あげられそうになった悲鳴は押し殺され、わたしは背後に彼女の独り語散た音声を聞く。早口の。若い女。長い髪は脱色されていた。黒い根元に向けての、金がかった褐色のやがては黒へと至る色彩の無数の推移。酸味た味覚に砂糖を振ったような匂いの香水が薫る。

滅び。

すべては既に滅びていた。滅びの強度。わたしさえも。月も地上も差異しない。いつ気付いたのだろう? すべてが既に滅んでいることに。理沙が言った。俺のカノジョ、呼んでもいい? …いるの? …いる。…どんな子? …かわいいよ。かわいいけど…何? ちょっとばか。笑い声の残響。意図的に、無意識のうちに哄笑したそれ。初めて会ったはるかは、呼びだされて部屋に来たとき、彼女は戸惑いを隠せず、ドアを開けて入ってきた瞬間に、曝された一瞬の無表情な人間の顔の原型そのものに、不安と、喜びのようなものが一瞬並存して、ややあって、既にそれが消えうせたことを察知させないほどの一瞬で、懐疑の、苛むような表情がその顔の形態を支配していた。「男。つくっちゃった」なんで? …ん?、と、鼻で立った声が行方をなくした。理沙の、そのアルトの音声は。…ん?「なんで?」泣き出すに違いない。はるかは、と、いまだ名前も知らなかったその女に予想した表情は裏切られて、はるかは声を立てて笑った。なんでよ?

すきだからだよ。…まじ? なんで?

すきってさ…なんで? じゃ、さ。「なんで?」はるかの身体が、そのとき、「なんで、お前、俺のこと」いま、「すきなの?」距離をだけ作っていた。理沙に対して、その、懐疑において一時停止した距離感。「…ね?」言い終わらないうちに鼻にだけ立てられた理沙の笑い声を聞く。はるかは、そしてわたしも。潤ってハーフなの? 理沙が聞くのでわたしは彼女を振り向いたが、「ハーフって?」そのときはるかは泣き疲れて寝ていた。いつもの殴打と、ののしりの後で。木村君が言ってたよ、なんか、やばいんだって? 家庭環境。…って、……さ、と、次第に間延びして行くのその声に、床の上で、薄いカーペットの上に身を丸めたはるかは、血をにじませたまま黒ずんで固めてしまった唇以外には、たんなる甘ったれた女が気まぐれが起こしたようにしか見えない。理沙の声。それを「言いたくない?」聞くが、殴打と懺悔。ありもしない浮気の疑惑が理沙に触れ、わたしは彼女の暴力を見るたびに、理沙があきらかに女であることを思い知らされた。なんで? …ハーフなの? …うん。笑い声が立つ、口もとで、それは、明らかに男性的な暴力とは差異した。キャットファイト、暴力的な直線を描かずに、おどるような曲線を描くしかない。柔らかな媚態の曲線、あまりにも女性的な身体の動きの女性。理沙自身、それに気付いていたかも知れなかった。…どこと、どこ? そのとき、そして、はるかを殴打するとき、ときにわたしを無意味に伺い見乍ら、なにかに怯えたような表情を、はるかに? そのときも、理沙は、いつもした。自分の言葉さえ言い終わらないうちに、にも拘らず「…フィリピン。」言った言葉に、急に声を立てて笑った理沙に、起きるじゃん、はるかが、…ばか「いいよ。おこしちゃっても」うそみたいだね、理沙の媚びるように身を投げてくるに任せながら、どっちが? …ん? どっちが? なにが? おかあさん? おとうさん? …あー、ね。お母さんだよ。なんか、…けっきょくはいい人だったよ。そんな事、聞いてないから…て、死んだの? なんで? 死んだ? 生きてるよ。ばか。死んだみたいな言い方すんな。知ってる? 何を?「おれの父親ってさ、フィリピン人なの。」死んだ人なのかってさ、まじ「むかーしさ。おかん、脳みそ腐ったジャンキーになる前にさ…なった後かな? まじだよ、」思うじゃん。きらいなの? …すき?「まじ、これ。頭、ほんと、腐ってたからね。まじ、で」おれは、やだった。おじいちゃんも、だれも。なんか「…も、さ、やられちゃったのね。現地の人に。男。」正義ぶったやつ嫌いなの、おれ、いっつも「…当たり前だけど。女が女強姦しても誰も」むかつくんだよ。で、「妊娠できないけど。やられちゃったのよさ。で、」いっつもなぐられてたよ。おじいちゃんに。おれじゃなくって「できたのね。おれ。おれが、」お母さんが。いっつもね、なんか「ね。いっしょに、親父とさ。戸籍上のね。親父と。いっしょに、やってたって。ボランティア。」たいしたことじゃないんだよ。なんか、ちいさな。「若い頃。まだ」けど、おばあさんも、脳みそ腐ってたからね。しかたないんじゃん?「じゃっかん脳みそ残ってたころ。何やってたんだろうね? シャブでも」両方とも腐ってたから。脳みそ。おじいちゃんも「注射してたんじゃないの? シャブでもさ。わかんないけど。なんか、」お母さんも。まじで「シャブでもさ。5、6人とか。…ね。海で。海の、」臭かった。その近くの、海岸の。海の。その臭気。睦美の眼差しの、褐色の肌の男性たち数人の息遣いと、体臭、その海水の執拗な匂い。夏の温度、十一月という名の夏。それらの向こうに、空の終わった下のほうに、かすかに海が見留められることができた。仰向けの地面からも。ときには。羽交い絞めにされた腕を伸ばすことはできないが、海岸沿いの道路のくぼんだ下の砂浜。騒音は連なって、波の音は聞こえていたのか? いつから? 聞こえ続けていたことにさえ気付かれなかった。その波の音の音響などは。誰にも、それは、気付かれないままに、いつから鳴っていたのだろうか? 睦美が思うのを、男たちは考慮に入れずに彼女を強姦して、同じ匂いがする、と思った。この男たちの体臭には覚えがある。覚せい剤を打っているに違いなかった。何人かまえの男が同じ体臭をしていた。自分も? 睦美の母親も。母親の匂いは嗅がなかった。母親の体臭自体を、嫌悪していたから。母親からも、いま、自分からも匂ってくるかも知れない体臭が、睦美が恐怖と、泣いても何の意味を成さないほどの、どうしようもない生理的な屈辱感に苛まれながら、確実な親しみに拒絶感を感じる。自分がふと感じてしまう、自分を強姦する彼らとの体臭的な近さに。親しい近さ。絶望的なまでの軽蔑感に襲われる。彼らが目の前で、いかなる屈辱的な死を迎えたとしても、わたしはいま、陵辱されている、それを、…後悔などしないに違いない。睦美は繰り返し思った。壊れた映写機が同じ映像だけを繰り返すかのように回想するかのように思い出されたかのように懐かしむかのように愛しむかのように嘲笑うかのように、いま、いたい。何もかもが痛い。不意に行方不明に成った睦美と、7時間後病院で再会した弘樹は、そして思った、フィリピン人の警官の、数人の、慮り、伺うような眼差しを、ただ、わずらわしく、不審に。ただ、不審に。善人の皮をかぶった豚ども。痛ましい、と思った。弘樹は、病室のベッドの上の睦美を、痛ましいと、それ以外の言葉など浮かばないまま、こんなものなのか? 弘樹は知っていた、自分が、泣きそうになるのを我慢し乍ら、こんなものなのだった、人体の頑強さの、その強度は。暴力に対する許容量は。みじめなほどに傷ついた身体。なぜ泣かないのか? 睦美を傷つけたくは無く、睦美への共感は涙を強制しようとしが、彼らの無慈悲な暴力に屈することはできない。なぜ? つかれた。泣きもしない、うるんだ充血した睦美の目を、妊娠した、と、数ヵ月後に言われて、どうする? 誰の子供かわかんないよ。「あの頃の、子供なの?」弘樹が怯えた眼差しを、目の中にだけ揺らめかせるのを、…どうする? …って。…ね? どうする?「いいよ」二日後、睦美は聞く、弘樹の回答を、生めよ、と、すでに、睦美自身には、出産は否定の余地無く決断されていたにも拘らずに。生まれた。美しい褐色の女体は。女の体として、夢のように美しい女の、体だけ。俺、さ、と、そのわたしの声を聞きながら、理沙はわたしを見ていた。「おかんの髪の毛引っつかんでさ、引きずり回したことあるんだけど」まじ? やばいね。ばか? 声を立てて笑う。はるかは眠り続け、「なんか、穢いじゃん。アジア人って」おまえもさ、あるいはすでに目覚めていたが、まだ、瞳を開きはしない。アジア人なんだけど「…まじ? てかさ、臭いし穢いしさ。うざいし」寝たふりをするわけではないが、眠ってはいない。「引きずり回してやったよ。なんか、すげぇ泣かれたけど。」わたしたちは笑う。なんで? 何かを隠蔽しようと笑い声ではない。「フィリピンの歌、歌ったから」必ずしも。意味も無く不意に襲ってきて、それは、理沙はささやくように笑った。なんか、おんなじだね。理沙は言う。わたしに…、なにが? その答えには答えずに、全然、違うけどね。言って、笑う声をわたしは聞く。思い出す。夏、海で。光の、その、直接触れた痕跡を残した砂浜の砂の、海の水の、それらの温度。海の家に住み着いた猫が、凝視する視線を絶やさないままに、視線の先に音響の地図の上に描かれた無数の動線の絡まりあわないもろもろの文節を警戒する。維持される制止。次の瞬間の動きは未だに用意されない。やがて、制止は音もなく崩れ去り乍ら。その、しなやかな動きに。はるかに手、出すのやめなよ。理沙が言った。その言葉は、一樹の、ナルシスティックな、その瞬間瞬間に、彫像を作ろうとするような体の動きに投げかけられるが、無視されて、「あのこ、言ってるよ、うざいって」一樹はなにも手を出さなかった。そのしぐさのすべては、あの、理沙をしか愛さなかった女を、一樹が愛し、彼の眼差しが、発情した気配さえたたえていたのは、誰もが知っていた。わたしたちは、それは、理沙と数人の店の女たちが企画したパーティだった。海辺の。白浜。昼下がりの、そして波の音は聞こえ続けていた。騒音の下に、常に。ときに意識さえされないままに、何も煽らない通奏低音として。音響的な何ものをも構成しない、それらの調和の可能性を破綻さしめなければ気がすまない、破綻したでたらめな通奏低音。はるかが声を立てて笑った。無視し続ける一樹をからかうように、理沙も「くさいからやだって」笑う。軽蔑したような、「きもちわるいらしいよ」理沙の笑い声。「海って、すき?お前」一樹が言った。理沙に。「なんで無視してんの?」お前、海って、好き? だれもが、笑い出しそうになるのをこらえながら、かなえが濡れた髪をかき上げながら煙草に火をつけ、「海って、なんか、悲しいよね。美しすぎて、」やめたら? そういうの。笑い声を、それは理沙が一人だけ立てた笑い声だった。聞く。「なんか、…好きになれない。海は。」一樹。…やばい、かなえが吹き出して笑い乍ら言った。女に触れるのが怖いのか、女には飽き果てたのか、誰に対しても、自分に対してさえ理不尽な無視を、一樹は女たちに対して示した。悠華のおっぱい、やわらかすぎんだけど。理沙が後から羽交い絞めしたその乳房をもみしだいて見せ、そして、ふいに笑って、嬌声を立てる悠華の、水色の水着。わたしは一樹を見つめるが、その表情はむしろ澄んでいて、冴え、もはや無表情でさえなく、久雄たちに一樹が食らったリンチは悲惨だった。どうして海は、と思った。わたしは。こんなにも穢らしいのだろう? 臭くて。日向の死を、それには久雄も立ち会ったにも拘らず、久雄は咎めた。その死の不審さをついた警察が、久雄の周りを嗅ぎまわっていた。事務所に捜査が入ったと言った。猫が殺しかけの鼠をいたぶるような、陰湿な優しさで、俺らに冗談すらきいた、と久雄は言った。あいつら、人間のくずだよ、本当に。義憤に駆られた表情を、笑って同意した差崎を久雄は振り向きざまに殴りつけながら、クズだよ、言う。いじけたような、低い声。営業が終わったあとのサパークラブで、その狭苦しいくらい室内には、わたしと、久雄と、差崎と、従業員の二人しかいなかった。明け方に呼び出しておいて、久雄は何も、誰とも話さないまま、不愉快な空気だけが停滞した、そのときに、差崎が、ありふれた戯言の、何かを言って笑った瞬間に、久雄は一樹の頭をアイスペールで割った。従業員は他の客をあわてて帰した。悲鳴など立たない。ささやき声がすばやく地に連なって、かがんで逃げ去っていく彼らを眼で追った。わたしは。一樹の惨状をは無視して。胸倉をつかまれ、なぎ倒されて、殴りつけられ、蹴り上げられて、何の抵抗もしないのが不思議だった。振り下ろされたソファーが、一樹の背を打って、彼が息を詰めた、鈍いうなり声がどの奥に、そして、ののしる声は差崎のそれだった。暴力をあおり、鼓舞するような。自分の足が一樹のわき腹に食い込むのを差崎は確認した。ままごともいい加減にしろよ、と、久雄は言った。一樹に。お前らのままごとが、大人にどれだけの迷惑をかけているのか知っているのか、と。身をくの字にまげて、鼻をすすりながら、鼻血を流していた。頭から流れた血が、彼の体中を派手にぬらした。切れた唇。つねに、身体の中でもっとも脆弱な皮膚は、既に血を流したあと、乾き始めてさえいた。はるかはなじるような眼差しで、あの海の家で、理沙の横腹をつついたのだった。もうやめて。それ以上言うと、傷ついちゃうよ、と、うめく一樹の声を聞く、わたしは、未だに酔っ払ったまま、明け方のサパークラブの、陰惨な照明。もういいから、やめてあげて、と、そのはるかのしぐさの同情的な意味を、わたしたちは誰も気付きながら無視した。なに? …ねぇ、なにシカトしてんの? カズくん、…ねぇ。理沙の、嗜虐的な哄笑まじりのその声を、もう一度つつきながら、はるかが理沙を見つめた。あとで、サパークラブの人間たちは言ったものだった、摩耶(まや)という源氏名のその男は、刈り上げられた金髪をきらめかせて、逆光の中に、まじ、うざい。同意を求めるような視線を投げて、久雄が立ち去ったあとの荒れた店内を緋人(ひでと)に片付けさせながら、まじ、ころしたいくらいうざいんですけど。笑う。わたしも笑い乍ら、…ねぇ、はるかで、オナニーとかすんの? 理沙が言って笑い始めるより前に、叶恵が吹き出してしまうのをわたしは聞いたが、それ、やばいから。叶恵は言うのだった。それ言ったら、かわいそうじゃん? だってさ。理沙の、やっぱ、オナーニーしちゃうよね。声は、理沙がはるかの乳房をつかんで見せたとき、はるかは媚にまみれた嬌声を上げた。すき? …ねぇ。理沙。わたしの、愛する理沙。言葉は重ねられる。いつも、ときに。ときに、さまざまなときに。すき?

なに?

…すき?











ん? …、ね。理沙の体に触れるたびに、違和感を感じ続け、目の前にあって、じかに触れている、あまりにも美しいそれは、ときに現実感をなくす、その現実性でわたしの皮膚の感覚器すべてを苛みさえし乍ら。わたしは知ってる、いつも、わたしは、彼女を男として愛するのなら、皮膚感覚と視覚は、結局のとこ錯覚の中で、すべてを捉えそこない、すべてを失ってさえいた。すでに。女性として愛したなら? それは理沙に望まれただろうか? 彼女への裏切りに他ならないその感情は? 触れるものに触れる。触れ獲るものに触れる。そうしようとして、わたしはいつか、ただ、裏切りをだけ重ねていた気がした。やわらかな彼女の皮膚。曲線の触感。温度。わたしが彼女の体温の、その温かみを知覚して、いま、彼女を抱きしめていたことに、改めて気付いたときに、彼女が遅れていうのを聞く、やばい、…ね、と「あったかい。」冷え切っている気がした自分の皮膚が、彼女に温められていくのを感じていた瞬間に、その言葉は、めまいをかんじさせた。確実な、錯覚に満たされていたことに不意に気付かされた。わたしは自分の体温など感じはしなかった。ただ、理沙の体温だけが感じられていた。いつも。あったかい、と、わたしが言えばよかった。そうすれば、こんな、みじめなめまいなど、感じないで済んだはずなのに。ありがとうございます、と、日向の妻は言った。端整な上に、さらに端整にさせたような、綺麗な女だった。すこしも性的な興奮を呼び起こさない、見事なまでに静物的な端整さ。なんか、日向くんも、最後に、一樹さんみたいな仲間に出会えて、けっきょくは、幸せだったと思うんで、…と、彼女が言ったのは、日向の告別式の、わたしたちの参列。理沙が言った。ブラックスーツ、似合うね。笑って、こごえで、ね。ホストみたい。てか、ホストか。てか、元、か。…てか、葬儀屋さんになれば? ばか。…じゃなくて。まじで。一番似合うんじゃね? 葬儀屋。本気で理沙が言っていることには気づいていた。あの人って、中学から引きこもりで、と、言う多恵子は、もはや涙など流さない。彼女は妊娠していて、どうするんですか?「ずうと、幼馴染だったんですけど。なんか、」…生みますよ。普通に。なんか、「幸せだったのって、小学生のときくらいだった気がする。いっつも、」生んであげないと、だって、…「なんか。…で、高校も、一応合格した高校に、一緒に」せっかく、さずかったし、わかりますかね? たぶん「行きましたけど。続かないですよね。やっぱり。すぐ辞めて。ずっと無職だったし、」女なら、わかるんですけど。妊娠すると、わかる。「なんか、図書館員なんかやって、地味に、」この子もちゃんと、自分で生きてるんで。まだ、「地味に。いいんですよ。地味でも。でも、なんか、救われない」…ね。ね? まだ、「救われない地味さってあるでしょ? 不本意に、」まだ、…ね、「埋もれてく感じ。…でも、最後は、」自分で生きてるわけじゃないけど、ちゃんと、「幸せだったと思うんですね。皆さんのおかげで。わたしは、」生きてるんですよね。自分で。わかんないけど、それでも、「反対してたけど。宗教団体みたいって。彼が死んだの、皆さんのせいかも」…って。なんか。感じるの。ほんと、錯覚? …かも、「しれないけど。わかりませんけど。けど。幸せ、」…ね? わかんないですけどね。けど、「…だったかなって。最期は。」感じるの。白い花々で埋められた、その死体を見せられることは無かった。損傷が激しかった。美しい、と、一瞬わたしたちがあのとき認識した、残酷で無残で、穢らしい成れの果て。あのとき、久雄は言った。お前らの本気、見届けたから。民族的な、美学? そうじゃない、と、わたしは思った。普遍的なのでもない。あれらの、民族的に固有だとされる美学は、むしろ、どうしようもない個人的ないじましさを持っていた。滅びた世界。この、既に滅びたわたしたち。かつて、何者をも救わず、何者によっても救われなかった、無際限に嘲笑的な滅亡者たちの戯れ。…ねぇ。

なに?

おかあさん、どんなひと?

いいひと。

なんか、ね。あいしあってたよ。おやじと。

まじだ。理沙の鼻にかかった笑い声を聞いた。うざかった。

なんか、あの、あいしあってるかんじ、うざくて。

きたなくてさ。

なんか。いいひと。おやじも、おれも、みんなあいしてんの。

にほんも、ふぃりぴんも、やくざも、にゅうかんも。

なんか、みんなあいしてんの。うざいの。

うざくて。きたないの。なんか、

きたないの。一樹を警察に売ったのは、多恵子だった。彼女が亡夫のメール、LINEから掘り起こした資料は警察に提出され、彼女は宗教的団体による虐殺死の可能性を示唆した。警察は既に久雄の事務所の捜査を徒労に終わらせたあとだった。もっとも、それらは久雄たちに対して横槍を入れるいいえさにはなったので、それはそれでよかったのだった。日向の死は、彼らを十分満足させていた。皇国及び琉球解放会の事務所に強制捜査が入った瞬間に、一樹は決断した。任意同行を求められ、それを拒否した挙句、しかし、警察が押収しうる資料はわずかしかなかった。彼らは、もともと言論活動を拒否していたのだから。活動実態といえば、スポーツクラブか、ボディビル団体の活動と変わりはしなかった。警察が一時帰署したあとで、一樹は団体員にメールを打った。本日、一斉蜂起。

1、加賀健二、川村直人。首相官邸襲撃。

2、真砂雄太、村田要。官房長官宅襲撃。

3、白田貢、花田英俊、渡部翔。国会議事堂放火。

4、原田優輝、田村惣一。防衛庁長官宅襲撃。

5、木田悠、内田直哉、渡辺春人。警視庁長官宅襲撃。

一樹。待機及び、切腹於皇居前。


下記《檄文》、皇国及び琉球解放会フェイスブックに、21時21分、アップロード。23分、一樹個人アカウントにて再度アップロード。



憂国義士告


下記の条、我等は求むる也。

一、琉球ならびに全本土よりの米軍完全撤退。

一、現家畜憲法即時停止及び完全破棄。

一、鬼畜米国との全条約・条例完全破棄。

一、自虐史観の完全破棄。

一、琉球人及びアイヌ人等非皇国人種等劣等種の国籍完全削除及び処刑。

一、在留支那人及び在留朝鮮人等劣等種の国籍完全削除及び処刑。

一、上記人種との混血人種及び、他国籍民との混血児の隔離及び再教育或いは処刑。

以上

つたなくも皇孫のはしたなき臣民たる我ら、臣民として上記訴える。


加賀健二、川村直人、首相官邸襲撃未遂。失敗。

加賀、首相官邸にて身柄拘束。拘留中に自殺。川村、逃亡の上自決。

官邸前道路に《皇国覚醒》の白スプレー落書きあり。

真砂雄太、村田要。官房長官宅襲撃未遂。失敗。

真砂、官房長官宅にて身柄拘束。拘留中に自殺。

村田、逃亡。

白田貢、花田英俊、渡部翔。国会議事堂放火。

白田、国会議事堂内にて《天皇陛下万歳》連呼の上焼身自殺。

花田、逃亡の上自決。二日後、午前七時半、日野市多摩川河川敷に於いて発見。

渡部、逃亡。

原田優輝、田村惣一。防衛庁長官宅襲撃未遂。失敗。

放火。全焼。

原田、逃亡の上自決。一週間後、皇居前にて午前4時発見。頭部剃髪。

田村、渋谷区幡ヶ谷にて逃亡中を逮捕。逮捕時覚醒剤保持。

木田悠、内田直哉、渡辺春人。警視庁長官宅襲撃未遂。失敗。

三名とも現場で身柄拘束。










経過報告を待つ。新宿の喫茶店で。誰からの報告もない。インターネットの記事で、経過を知っていく。そんなものだろう、と一樹は思う、喫茶店の従業員に、不審を感じる。通報したに違いない。一樹は疑った。立ち上がって、店を出ようとする。従業員が駆け寄ってきたとき、彼は身構えた。すみません。従業員が言った。お会計が、…まだ。声を立てて笑う従業員に、ややあって、遅れて一樹も笑いかけた。金を払う。立ち去る。皇居へ? 辿り着けない気がする。困難な死か? 確実な死か? 一樹は後者を選択した。タクシーで近場の原宿に向かう。身に着けた衣類は、日向葬儀立会い時の喪服一式。感傷的だ、と一樹は思った。過剰に、感傷的だ。明治神宮に向かい、もはや記憶されていない言葉の群れを途切れ途切れに、それらは時に笑わせる。小さく、声を立てて、わたしを。ささやかれ、理沙を。耳元で、それらの、声は、それらが発された瞬間に、軽蔑的な瞬間。思われた。こんなものじゃない、言いたかったことは。わたしが、こんなことじゃない。言いたかったことは。理沙の豊かな胸に顔をうずめて、言うべきだったことは。わざと甘えてみせてやりながら、理沙は許す。それら、女性の身体に対してなされるべき、彼女を愛する男性のしぐさの一つ一つを。裏切りを、許容してやり乍ら。自分の身体に対する自然な、…ねぇ。あまりに自然な愛撫のしぐさの一つ一つを。ね。

しようよ。

…なに?

しない? …なにを? …んー。…ん? なに?

なに、わらってんの? なに? わらってない。ないから。わらって、…ないから。…さ。ね?

革命しようよ。

なに? …かくめい。しようよ。しってる?

ん? …いま。

…ね、いま。…ねぇ。ね、いちばん、このよのなかで、いちばんうつくしいの、やっぱ。かくめいなんだよ。…で。…

ん。…ん? …でね、じゅんきょうしゃ。…んー。ね。…んね?

…え? …ね。ん、…

は?

…ね? ささやかれる。耳元で、ときに、距離を隔てた、皮膚と皮膚とがその体温を感じあわない距離の間においてさえも。…ね。こども、つくろうよ。

理沙のささやき声を聞いた。うめくように、かすかに身をもがいて、やさしく羽交い絞めにした彼女の腕の中で、わたしの頭部の感じた彼女のぬくもり。温度。体温。眼を開けば、一樹が死んで、もう、一週間もたっていた。窓越しの陽光が見えるはずだった。昼下がりの。会社に行ったはるかは、夕方まで帰っては来ない。わたしたちは、夕方には出て行く。一樹は死んだ。もはや、だれも思い出しはしなかった。ときに彼を思い出す瞬間以外には。インターネットの物見高い記事だけが、かろうじてわたしたちにかつて一樹が存在したことの想起を強制した。ね、と、その声を聞く。理沙の、…なんで? 怯えながら、わたしが言うのを、声を立てて笑い乍ら、理沙は言った。見つめながら、わたしを。身をくねらせて、上半身だけ起こした彼女は、素肌を直接わたしに触れながら。その素肌に。朝方の交尾。そのまま、ずっと、まるで原始人か何かのように、さらされた素肌のままで、絡まりあったままで、いいじゃん。ほしい。こども。

…まじ? …やだよ。

まだ。…まだ、なに? …はやいって。

はやいよ。まだ、

はやい。「わかんないじゃん。」なにが? と、そして、理沙は言った。ほんの少しの沈黙の中で、わかんないじゃん。思い出したように。不意に、どうなるのか。…ね? 試してみよう? なんで? …ほしいから。…なんで? …ね。

試してみようよ。










白い花々に埋め尽くされる。それらは、それらがはかなくも一切の色彩を失ってしまっているかのように錯覚させた瞬間に、すぐに、わたしたちは目の前の白の鮮烈さに、気付くのだった。









あざやかな、白の氾濫。気付く。すでに、ずっと、それらは失われた色彩ではなく、獲得された色彩に他ならないことに。もはや。わたしたちの、目配せしあい、おたがいに沈黙しあった意識の、意識された繊細さと、いま、目の前に見いだされたそれら、病的なまでの苛烈な正確さで獲得されたこれら、色彩。白。無際限の繊細さで構築され、かすかなグラデーションをえがいて。花々。…百合、菊、薔薇、かすみ草、それらはかさなりあった。黄色づく寸前で拒絶された黄彩の微細な痕跡から、それらを抹消し尽くす無慈悲な白の推移、ときとして、逆光の中で透明さの可能性さえ獲得され、誰も見向きもしない葉と茎の緑は、白の中に自らを埋没させていた。火葬場に、炎に包まれるためにおしこめられていく。渋谷区の葬祭場は、見事なまでに清楚で、飾り気も無いままに、ただ、清潔だった。壁際に、まるで理沙とは、あるいは彼女を葬送する十人程度の人間たちとは無関係であるような距離を置いて、わたしは立って、それらの葬送の儀式を見る。風間と木村が、親友のように寄り添い、最早わたしには眼もくれない。だれも彼もが、初めてであった人のように希薄で、親密な挨拶をかわしたすぐ後に、わたしと彼らとの距離は断絶したかのように感じる。わたしが望んだのか、彼らが臨んだのか、もはや、ふと、こぼれ落ちて、発生して仕舞った距離感が埋め難かった。なにも話すべきことはなかった。何も話し獲ない気がした。彼らの知っている理沙と、わたしの知っている理沙との、それはまったく違う体験だったが、確かに、同じ人間だった。わたしたちはお互いに、自分勝手に体験された理沙を消費して仕舞ったのだった。いまも、記憶の中に消費しつづけながら。無残な気がした。その、祖父らしい人間が、その棺に寄り添うようで、寄り添わない、繊細な距離のなかを、さまようように行き来した。無残なほどに痩せた、衰えた男。腐ったものが日差しの中で乾ききったような匂いがした。しずかな、声さえ潜められた空間の中に、無数の呼吸音と、衣擦れ、疎らなささやきの点在が、絡み合わない音響の空間を形づくっていた。はるかは泣いていた。誰のものであっても、涙のどうしようもない自慰じみた穢さはかわらない。しゃくりあげながら、時に、嗚咽を漏らし、その自慰じみた昂揚。射精されたあとのような、こころの浄化。お前、どうする? 口の中だけで言う。はるかに。彼女との、数メートル離れた距離の中で。彼女に聞き取られないですむように。口の中だけで、どうする? 泣く女たち。花恵が泣いていた。お前、生きていられる? 理沙なしで。あの、あまりにも凄惨な轢死体。ちぎれ、傷ついた身体の残骸。花々が隠し、いま、炎がすべてを隠しつくした。大丈夫だよ、と、ややあって、「…死なないだろ?」思った。わたしは、「お前は。」言って、はるかの肩を抱きながら、「生きつづけるんだろ?」どうせ。理沙の肢体が棺ごと、焼却炉の中に閉じ込められてしまったときに。死んだのだろうか? 彼らは? 彼女は、理沙は? それが信じられない。死ぬことができたのだろうか? 死ぬことさえ、できはしなかったに違いない。この世界が、滅びきっているのと同じ強度で。わたしさえも。はるかの身体、その、わたしの腕の中に抱きしめられた、彼女を理沙は愛したのだった。その、やわらかい身体と、体温を、例えばその豊満な乳房を、理沙は時に戯れにつかんで見せて、エッチ、やだ、と、そのときはるかは言ったのだった。声を立てて笑い乍ら、その、わたしの皮膚が服越しに感じた、彼女の身体の触感。愛したのだった。それを確認する。彼らは、死に獲はしなかった。生きていた。あくまでも。あきもせずに。あまりの貪欲さのままで、わたしたちは。











* *




海。夕方の、朱に染まりかけた海。波。どうして、海はこんなにも惨めで、ちっぽけで、穢らしく、臭いのだろう。地表の表面にたまった、巨大な、潮に澱んだ水溜り。…幸せ? あのとき、振り向き見た理沙が言った。背後に、一樹たちのバーベキューのささやかな歓声が聞こえた。俺は、…さ。彼女の声を聞く。…しあわせ、かな。

いま。











2018.01.07-10.

Seno-Lê Ma





Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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