小説《■陵王》⑥ 魂は革命し、墜落し、そして覚醒する。
蘭陵王
私はタクシーを呼んでもらい、タンソニャット空港に着くと、潤は既に私を待っていた。あからさまに肌を灼いた何台かのバイクタクシーが、私に声をかけては通り過ぎて行ったものだった。盛んに話しかけられるベトナム語が、しかし、私にそれを解することは出来ない。あるバイクが舌打ちして通り過ぎたとき、後ろから潤に呼びとめられ、振り向くと、道を渡り乍ら、潤が笑って手を振った。「違う場所にすればよかったね。探して、何度もぐるっと回った。けど、ここ以外だと、お前のほうが場所、わからないいだろ?」確かに、私に行けるのは、タクシーに乗ったとしても、言語の問題で、Airport以外にはなかったかもしれなかった。私は笑って、少し離れたところに駐めてあった潤のバイクの後ろにまたがる。サイゴンを抜け、ただ、あつかましいほどに広い主管道路を走っていく。サイゴンの中心部を離れると、無意味に広い公道以外には、せいいぜい四、五階建ての低いビルか、平屋の家屋が疎らに立っている以外には、ひたすらに空が広がり、それは圧しかかってくるような気さえする。光りながら、光が温度をただ肌に伝え、うぶな太陽光そのものが肌を灼く触感のような肌触りさえあった。光に対して為すすべもない、熱帯であるには違いなかった。人々はみんな、日本の秋冬のようなジャンパーを着て厚着で、それは、日差しから肌を守るための処置であることはすぐに知れた。ここにおいて、光は強烈で、破壊的な力そのものなのだ。光はただ、外国人らしく薄着の私の肌を灼く。町が途絶え、森林地帯と田園地帯とが交互に広がり、どこまでも、向こうに地平線がぎざぎざに広がるが、想ったよりそれは近く、地球の丸さと人体の視覚の限界をただ、感じさせてやまない。地表が卑小なのではない。視覚そのものが、人体に合わせるように、卑小なのだ。人体は人体が見えるもの以外、見えはしなかった。林の途切れた先に唐突に現れたメコン川の橋を渡りながら、その泥色の巨大な川は、たとえば瀬戸内海を泥で色づけしたような規模で、その中に小島さえ浮かべていた。その流れを美しいと表現する日本人はいないだろう。日本人にとって、それは、正に土砂災害を連想させる色彩で、母なるメコンと言うには、あまりにも生命の匂いから隔たりすぎていた。留保なき破壊者の色彩。茶色の色彩は、今、地表の緑色と空の青と白とをぶった切って、ただ壊滅的にそこに存在していた。威厳すら湛えて。やがて、その先に、周囲がいよいよ緑ばかりになった頃に、潤はバイクを逸らせて小道に入り、疾走する風の中では、潤の声はうまく聞き取れなかったが、この先に俺の家があると、彼が言ったように聞こえた。
日に灼けて色の褪せた、コンクリート造の平屋の家屋の疎らな点在に、時に放し飼われた牛と鶏の群れが私たちを振り向き見乍ら、奥に入ったところの家屋の前にバイクが止まると、潤はここで降りようと言って、私を中に導くのだった。若いベトナム人の男性が彼に、まるで久しぶりに会ったかのように握手をさえ求めて声をかけ、部屋らしき仕切り壁の薄暗い向こうから顔だけのぞかせた、まだ成年には達していないことが明らかな少女たちが二人、潤に何かを訴えかけてやまない、潤んだ眼差しを向けた。瑞々しいほどに、彼女たちは単純に若かった。私など目にもくれないままに、彼女たちは何かうわさしあっていたが、この家屋を通り抜けた先に牧草地があって、その先にも小さなあばら家の小さな集落が見えた。「あそこに妻がいる」と潤は言い、あれか?あれが、と私は口を濁しながら、人身売買の…、と言いかけたあと、もっとも、こんなところに日本語を解する人間などいるとは思えないから、何も気にすべき必要などないのだった。ベトナム人の、女の子たち?潤はうなづき、「あと、ラオス人もいる。一人だけだけどね。昨日まで、カンボジア人もいた。俺に、アンコールっていう、地元の有名なビールをくれたよ。どこで手に入れて来たんだか」笑って、後ろを振り向き「ここに帰って来るときに買ってきたんだろうね。彼らにわざわざバイクを止めさせて。売春もやってるから。外で」不意に木陰から痩せた少女が顔をのぞかせたが、世界中の憎しみのすべてをかき集めたような、突き刺さる視線で私たちを見つめ、その眼差しの痛々しさ、というよりも、痛さそのものが、耐えられずに私は視線を逸らすのだった。背後から、潤の仲間に違いない男が彼女を殴りつけるようにして押し倒し、少女はしかし、何を言うわけでもない。小さな叫び声も悲鳴すら上げずに、ただしずかに鼻だけで息遣っていた。その呼吸には、どうしようもない獰猛ささえこもっている気がした。男は馬乗りになったまま何をするわけでもない。上目使いの目線が合った。彼が早口に潤に声をかけ、潤はうなづいたが、羽交い絞めにされて少女は連れ去られていく。「何だ?」脱走だよ。潤が言った。彼女は一日に何度も繰り返し、あれをやる。逃げる気もないくせに。逃げ込める先もないくせに。みんな気違いだって言うけど、俺は…、と、彼は一瞬口ごもったが、「犠牲者じゃないか」私は言った。俺も同じだ、潤が言った。「何の?」ややあって、たぶんね。許してやってくれ、と彼は、いや、許してくれ?何を?俺を。誰を。俺たちを。俺たちみんなを。「彼らは、自分たちが何をしているのか、それすらわからないんだ。」…本当に、と潤は言った。あばら家の中には誰もいなかった。あばら家、そういう形容しか私には思いつかなかったが、古いだけで、一般的な住居の部類なのかも知れなかった。テーブルさえなく、仕切り壁の向こうにはベッドがあって、衣装棚が作りつけられていた、その向こうに水洗トイレとシャワーがむき出しで設置されていて、一応の仕切りはあったから、それで個室の用を足している、ということなのかもしれなかった。
ここら辺には、部屋っていう概念がないんだな、と、独(ひと)り語散(ごち)るように私が言ったのを、潤は笑い乍ら、そうなのかもな、答え、そういえば、私は言った、あれから何回かお母さんに会ったど、お前の、と、元気そうじゃった。スーパーの前とかで何回かお見かけして、おいくつになられたん?(67?かな。― ほんとに?びっくりするな)挨拶しただけじゃけど、と、私は、そして潤はグラスに水差しから水を注ぎ込み、まだ、あの、神辺の借家に暮らしてるよ、私をふと指さし、思い出したように、彼は言った、「そこにきみの母はいる」…わかるだろ?と潤は言った。母に伝えてくれ、君の母に、ありがとうって。何と答えるべきなのか私は知らず、さしだされたグラスに口をつけただけだった。埃っぽく、乾いた喉を、一気に水が潤し、もう日本には帰らないつもりなんか?日本?今、そんな国、現存するのか?(どこに?)いや、帰れるかどうかわからない。状況はよくない。ひどい。追い詰められて、もう終わりかも知れない。潤はそう言って、彼は言った「すべて、御心のままにゆだねます。」…そうとしか言えない、潤は言った。それ以外、言うべき言葉もない。小さな窓と、開かれたシャッターから日の光はやさしく差し込んで、床の上にさまざまな光と影の模様を重ねた。氷が溶けて崩れ、それがかすかな尖った音をさえたてたのだった。私は何か言おうとして、言葉さえ見つからないままに、あるいは、何も、言いたいことすらなかったのだった。私は見つめるともなく潤を見つめた。美しい男だった。人間の顔の原型のそのものを曝したようなハンセン病の半面に、素手で日差しがあたって、警察に追われとるんか?昔からずっとだよ。何回も危ない目にあったけど、と潤は言い、知ってる、なぜ?聞いた、誰から?訝るでもなくただ不思議そうに私を見る潤の表情は私の記憶を刺激してやまないが、「お前自身からだよ」想起されかかる膨大な記憶の中から、何が「お前が話してたろうが」選択されるべきなのか惑われたまま、「そっか。確かに」結局のところ、何も明確な形象を結ぶこともない。外で草木のこすれあう、こまかや音が一斉に立って、chào anhチャオ・アン、その女声に振り向くと、…こんにちは。入り口には彼の妻が立っていた。静かに、微笑みかける彼女の腹部のふくらみは、明らかに臨月のそれだった。何事が起こっているのか、私は一瞬、茫然として、できたの?その言葉は誰にともなく、口をついて出てきただけのものに過ぎなかったが、「できた」うなずいた、この潤の言葉が、私の耳を打つように響いた。私は彼を振り向き見た。お前の?彼は何も言わず、お前に?彼の妻を見つめていた。私には信じられなかった。俺に子どもが作れるかどうかなんて、お前は知ってるだろ?潤は言った。彼女は、女だぜ。知ってるか?悲しげに私を見つめて、彼は言った「今、俺たちは既に天国にいる」現実として。潤はそう言った。潤は何も言わないまま、沈黙の秒数を私は数えた、彼の妻は、ベトナム語で何か私たちに話しかけていた。それを、潤は微笑みさえし乍ら聞いていた。誰の?お前のじゃないなら…、私は外にいたあの何人かの若い男たちをふと思ったが、…まだわからないのか?「いや、違う」と潤は言った。彼女は貞淑な妻だよ。とても。そんなこと、彼女には出来ない。…まだわからないのか?それどころか、俺が初めての相手だったんだから。つまり、まだ、誰も知らないということだよ。…まだわからないのか?今までのすべての《俺の女》がそうだったように。誰にも手を付けられないまま放置されているだけだ。…まだわからないのか?潤は笑った。あんなに、女なんか、俺に片っ端からなびいてくるのにね。なぜ、俺なんかを選ぶんだろう?永遠に処女でいたいわけでもないくせに。この子だって、子どもが欲しいってよく言ってた。特に、ベトナムとかだと、出産育児の社会的地位自体が高いしね。俺がそういう類の男だって、知ってるくせに。ちょっと待て、私は言った。じゃ、これは誰の子なんだ?
それとも、なんかの病気なんか?子宮の?潤はすぐさま首を振り、彼は言った「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」これは、主よ、なぜわたしを見捨てたのか、という意味だ、と潤は言った。私は指を伸ばして、指先にグラスをぬらした水滴を触れた。彼の妻は、そこにそうしていることそれ自体が幸せなのだとでも言うかのように、充足しきった顔をして、ただ、そこに立って、私たちを見つめているのだった。微笑み乍ら。何が起こってる?私は、そして、すべて、潤が言った、つじつまがあうんだ。なぜ、俺がハンセン氏病なんかになったのか。今や、俺にはわかるんだ。なんとなく、俺を処罰してくれてる気がしたから、放置していただけだけど(なにを?それが、俺にはわからないんだ)今や、俺にはわかるんだ(ただ、俺の罪は罰されるべきだと思っていた)俺の病気は、(なにを?何を犯したって言うんだろう?俺が)ハンセン氏病なんかじゃない(いつ?)これは、らい病だ。生き腐れの業病なんだよ、…呪われた天刑病。…例えば、ヨブのような。潤は言い、いや、と私は言った、ただのハンセン病だろ、声を立てて笑いさえし乍ら、早口に私は言うのだった、隆志が言ってたよ、俺は、と、潤は言った、打ち消して、悲しげに、知ってる。俺は、これは、らいだ。俺がなぜあんなに女たちを呼び寄せるんだろう?いわば、罪もない汚れた、或いは、罪もなく汚されていく、そんな女たちを片っ端から。罪のないものだけがこの女に石を投げつけろと言ったのは誰だ?潤は立ち上がって、彼の妻に近づき、彼の妻は、何の理由があってか、あるいは、ただ、生き腐れの呪われた天刑病の彼の接近が嬉しかっただけなのか、微笑み乍ら彼にうなづいた。私の皮膚の下で、私の神経系が、熱く、凍りついたように震えていた。…まだわからないのか?見てくれ、ここに来て。夫婦の傍らに近づき、私は、そして、目の前のあらゆる雑草や、離れた樹木の枝の一本、葉の一本までのすべてが、まるで彼女がその体内に宿られているものに対して憧れ、決して触れてはならず、そればかりか触れ獲さえしないにもかかわらず、触れなければ生きてさえ行けないないそれに、必死に手をのばそうとして、彼の妻に向かって伸びていた。身をよじるように、千切れそうなほどにまっすぐ伸ばされた葉々、そして草は地面からはがれそうなほどに。彼女がそれらの上を歩むたびに、踏まれた草は喜びに打ち震えていた。涙さえ流せるなら、それは今、自分の流した滂沱の涙のうちに、溺死さえしたかもしれない。牛も、鶏も、どこからともなく彼女の周囲に集まっていて、やや離れて地に伏したまま、ただ、濡れぼそった眼差しのうちに彼女を見つめていた。頭上には無数の鳥の群れが、声さえ立てずに飛びかった。わかるだろ?潤が言った。あらゆるもののすべてが、なすすべもない憧憬に焼き尽くされ乍ら、今、既に讃えられた自分自身のために泣いていた。すべてのものが、潤が言った、祝福していた。今、すべてのものが、彼らの救世主にひれ伏し、そして、自らを。求めている、彼に手を伸ばし、彼を求めている。彼に裁かれることを。彼らは知っている。今、彼が彼らを八つ裂きにしようとも、彼らは既に救われていた。私は見た、確かに、すべての原子、微粒子のレベルまでのすべてが、今、救済されようとしていた。救済?いや、吐き捨てられたものに過ぎない言葉がついに触れ得ない、何か。彼は言った「すべては終わった」…今、と、潤は言った。
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