小説《■陵王》⑦ 魂は革命し、墜落し、そして覚醒する。
蘭陵王
ただ、俺にはよくわからん、私はささやく、キリスト教に、と、まるで密談するかのように、輪廻転生ってないじゃろ?おかしくないか?キリストはもう、《いた》んじゃろ?また生まれ《る》はずがないじゃろ?潤は私を振り向いて、けど、目の前に、今、《いる》んだよ。これが現実なんだ。もちろん、今、すべての既存宗教は否定された。イスラム教だのヒンドゥー教だのどころじゃない、当の、キリスト教自体がね。今や、十戒の前の金の子牛に過ぎない。この子が生まれる前に発された、すべての言葉は、いわば、まったきノイズに過ぎない。むしろ、すべての言葉はノイズに過ぎなかった。神は唯一であって、神が言葉なら、父とその一人子以外に言葉など発し獲たことなどなかったからだ。たとえ、主よ救いたまえと、アーメンと、俺が言ったとしても、ホサナと言ったとしても、その言葉が俺の言葉である限りにおいてノイズだ。俺たちはかつて、今も、これからも、原理的に、いかにしても彼を讃えることさえできなかった。いや、生きてあること自体が彼への裏切りだった。もはや、そして、あるいは死ぬこと、自死することさえも。潤は言い、喉が渇いた、と潤は言って、彼は言った「わたしは、渇く」…そう、為すすべがない、潤は言った。潤は、彼の妻を愛しているには違いなかった。その臨月のおなかを撫ぜてやりさえし、木漏れ日の光の中で、かれらは幸福な夫婦だった。私は知っていた、私には記憶があって、
沙陀調音取
私は思い出す、まだ、私たちが十五、六の頃だったはずだった、彰久と、私と、潤とで、瀬戸内海の海岸に行ったことがあった。
乗り継がれるバスの中で、潤が彰久に話しかければ、それは私に心の深いところで嫉妬を、自分にさえ気付かれないように、ひそかに、かきたて、潤の私に笑いかけるその声のたびに、彰久を、ある焦燥のようなものが、その神経を逆撫でるのに違いなかった。その頃の、いつものように、私たちは言葉や、しぐさや、あるいはお互いのそこにいる存在そのものを、突き刺さる刃物のようにしてふれあい、音を立ててそのふれあいは共鳴し、いずれにしても、すべてはその響きと共鳴の中に。夏の前の6月終わりの海岸は曇り空の下に、重く、しずかに波打つばかりで、私は背に不意にふれた彼の指先の触感に、半ば嘔吐に近い、暗い感情のうねりを内側に押し殺す。言葉になる以前の、あるいは、ついに言葉にはなりえない情動の重なった動きが部厚く、逃げ場のない大気にさえなって、私の体の中は憧憬とは最早いえない暗い情動に打ちのめされ続ける。私は知っていた、二日前に、学校の校舎の裏で、授業をサボり乍ら、潤は隆志をそっと抱きしめたのだった。それを、隆志が私に耳打ちしたときに、その得意げな、誇示するようなささやき声の、潤は私に口付けたものだった、頬に、私をそっと抱きしめて、私は首をつかまれた猫のように立ち尽くし、私は潤の、私の何かを詮索するような眼差しの中で、潤は私に口付けたものだったが、私は知っている、それは今ではない。
今、潤はわたしに口付けてはいない。今、彼は、海岸を私と、彰久とともに意味もなく走って声を立て、君は私に教えた、今ここにあることの本質的な儚さを、私が教えた、その、それは、今ではない。いつも失なわれてしまう、とどまるすべさえもなくに、泣き伏したくさえなり乍ら、私は潤の眉に触れようとした瞬間に、私は彰久が体中を非難の気配に染めて、背後に見ていることをは知っていた。君は、誰をも愛したことなどないだろう?、俺が、君を愛するようには。地元の漁師が網をつくろい乍ら、なぜか舌打ちし、かつて、愛し獲たことなどなかった。漁師は日灼けすることのない白い肌のまま、煙草をそのまま海岸に投げ捨てた。何もとどまりえないなら、かつて、なにものも愛されえたことはなかった。雨が降る、もうすぐ、雨が降る、と漁師が誰にともなく言ったものだったが、それは聞きなれない方言で呟かれ、細部は最早記憶にない。波が打ち寄せ、それは自ら砕かれながら、見てみい、と彰久が茫然と、遠くに見惚れ乍ら言い、海の少し沖合いの、この、すぐ近くで、波が静かにひとしきりうねったあとで、ゆっくりと、海水は細かな雨のようになって巻き上がり、吹き上がり続け、空に舞い上がっていった。沖の見渡す限りを、海からの雨が舞い上がって、それが空に一気に降り注ぐのだった。私はこの光景に立ち尽くし、ここら辺ではよく起こる現象なのかと、彰久が漁師に聞いていた。たまにある、と彼は、梅雨明けには、しょっちゅうだと、その彼の言葉が嘘であることは誰もが知っていた。今、彼自身が、もっとも悲惨な驚きをその表情に曝していたのだから。海から空へ、しずかに雨が降り続け、風の中にその水滴が時に私たちを濡らし、美しい、と潤は、色彩を失って行く、言った、空が、今、雨にうたれて
2017.07.18-08.06.
Seno - Lê Ma
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