小説《■陵王》⑤ 魂は革命し、墜落し、そして覚醒する。








陵王












開かれたドアの向こうのベッドの上に、父が絵本のガリバーのように、大の字に横たわったままだったのを見つけたときに、そして彼は、その体が何事もなかったかのように自由に起こされ、「何じゃあ」彰久は自分の声を聞いた。喜びなのか、「明じゃねぇか」驚きなのか、本人にすらわからないそれ、その音声はかすかに空間を震わせて、思い出す、そのよみがえる記憶の、記憶さえ失ってしまいそうなほどの鮮明な解像度の中で、僕は、と、彼はその、記憶そのものに触れて仕舞ったような初めて見る映像の氾濫が、彼は、思い出さざるを得ない。祖母が不意に立ち上がって台所に消えた後、唐突なその息が途切れたような連続する無声音の群れを、僕は聞く。彼は知った。それは自分で自分の腹部に刃物をつきさした祖母の、僕は記憶していて、途切れ途切れに、だから、息継ぎすらない無声音の細かな連続が、思い出された。乱れる。死に切れない彼女が、なんども、死に急いで、なんども、刃物を突き刺しているのを、なんども、その、悲鳴は立っていたのだった、すでに、女声の。それは叔母のなのか、母のなのか、だれのなのか?僕のなの? 彼は思い出す、あの体中から血が、そのたびに派手に飛び散る、思いのほか黒ずんで見える血が、母が部屋の中で何をしているのか、彼はまだ知らなかった。彼も知らなかったのだった、彼の母が今、何をし、そして今、自分の血にまみれて死にそうになっていることをなどは、ぶら下がった妻の死体を発見したばかりの彼は、茫然と、祖母の惨状を見るしかなかった彼が、それは、僕は不思議に何も怖くなどなかった にも拘らず、血まみれの、立ったまま身をよじらせるしかない妻の死に切れない躯体を見出した祖父の、その息は切らされたまま、ぼくふしぎなんじゃけぇどがなあんも怖おうなかったんじゃけぇどがの、僕は、 駆け込んで祖父を見つめ、僕は、息をさえ切らせた。叔母が泣きじゃくっているのを知っていた。祖父を呼んだのは、彼女に違いなかった。そんなはずはない。そのとき、彼女はそこにいなかった。正気もなく、彼女は、泣き叫んでいるだけなのだから、何もせずに、声さえなく、唯、立って。彼は思い出し、僕は知っていた、自分の部屋で横になっていた叔母は物音で目を覚まし、そこに来たときに、僕は知る、彼女が目にしたのは、彼女の父が自分の腕に刃物を突き刺した瞬間だったが、思い出す、自分の呼吸を自分自身で止めて仕舞いそうになりながら、わたしは知っていた、立ち尽くす、彼は口の中でもごもごと言うだけで、何も言わない祖父の存在に気付き、僕は見ていた、息絶えようとしてい乍ら、未だに生き続けている祖父の手から刃物を奪い取ったそのときに、刃物は投げ出されて床に撥ね、祖父が祖母の首を絞めているのを僕は、 発見したが、その音を聞いていた。長い包丁が床のフローリングに撥ねてなんどか立てた、あの、鈍い音響を。手遅れだ。僕は理解した、彼女は、もう生きられないなら、今、死なしめてあげなければならなかった。すぐさま手は離されて、彼は結局のところ何も出来なかったのだったが、救うことも、壊すことさえも。自分自身にナイフを突きさしたとき、それは諦めたように、私に哀れな媚さえして見せ乍ら、悲鳴を鈍く立てて父がゆっくりと身を屈めて行くのを私が見つけたときには、その、不意に、その口をついて、自分の口から、いっそ、もう、ころしてくれぇ、と言う父の声を、部屋にかけこもうとした瞬間の妹にぶつかりそうになり乍ら、私は聞く。いっそ、もう、ころしてくれぇ、と言う私のの声を、僕は、そして彼女の、叔母は僕を 見つめ乍ら、声。叫んだ。「人殺しじゃが!」僕じゃない!そう叫ぶことが出来なかった僕が、殺したの? ぜんぶ? 確かに、壊したの? 何もかも? 叔母は僕が暗殺者(アサシン)だったことを既に知っていたことを、僕は知っていたのだった、そのとき、すでに、気付いていた、正に今、看護婦が立ち去ったことに。彼女は気を利かせて立ち去ったのだった、かわいそうな親子を二人っきりにしてあげるために。「どうぞ、ごゆっくり」と彼女は、彼は悲しげなやさしい目で彼を見ていた。彼は立ち尽くしたまま、彼を見ていた。入院しているとはいえ体が悪いわけではない彼は、健康そのものだった。彼の浴衣がはだけているのを直してやろうと彼は手をのばそうとした。よみがえった記憶から醒めたに違いない彼はふと、冷め切った目をしたまま、わしを殺してくれんかの?と言った。生きとっても、迷惑なだけじゃろうが。もう、殺してくれんかの?その老いさらばえた声を彼は聞く。彼は為すすべもなくうなだれたまま、ややあって、彼の首もとに伸ばされた彼の手のひらの体温を彼は感じた。彼が何をしようとしているのか、彼は知っていたが、彼は自分が今正に、何をしようとしているのかさえわからなかった。しめられた彼の首が、その呼吸の困難を彼の体中の神経に伝えていた。まるで、苦痛が神経系を逆流していくような。彼は、彼自身が思い出していた、彼が言った、わしはみんなを殺してしもうた、いっそわしも殺してくれんじゃろうか?彼は既に、そのとき思い出している、彼女は人殺しだと彼に言ったが、思い出されるのだった、彼女は自分で死んだ、それは俺が殺して仕舞ったようなものだ、母親すらも。吊りあげられた体は宙に浮いていていつもより肥満してみえる。臨月の女性のようになぜかふくらまされた腹部の、彼は見る、さまざまな体液を下腹部から流していて、汗ばみ、彼は思ったものだった、まるで何かを流産したようだ。彼は、痛ましく蹂躙されたその身体が、今、そこにある、と、すすりあげた鼻から無数の雑音の断片が鳴らされた瞬間に、彼が死んで仕舞ったのには気付いていた。「殺してしもうた」彼は思いながら、「父さんを、殺してしもうた」彼は自分の頭の中でだけで言い、最早彼に聞き取れる音響はなかった。この絶命の瞬間に体中からすべての力を失ってしまった今このときに、彼は頭の中で悲鳴をあげて仕舞ったほどに驚愕していたが、離された手のひらから解放された明の身体が床に崩れ落ちて、立てた派手な音が耳元に鳴ったのには彼も気付いていた。彰久は自分が殺されたことに気付いていた。彼はすでに死んだ。彰久が立てた悲鳴に、ややあって駆けつけてきた別の看護婦が彰久の体を殴るようにゆすったが、彰久は目を剥いた自分の顔を彼女に見せるしかない。自分の体が汗まみれなのは知っている。看護婦は事の次第を聞きだそうとしているのは違いないのだが、既に死んでいるものに何が出来たというのだろう?看護婦は、わめき散らし乍ら見ていた。声さえ上げずに、ただ、息と涙だけで泣いている彰久を。明は既に死んでいた。潤に呼び出されたのは、三日降り続いた雨のようくやんだ日だった。そのとき、まだ雅巳は行方をくらませたままだったし、ほんの二日ほど前の、彰久の事件の、というよりも、私が身近に聞いた、彼の姉の息絶えていく息遣いの音響の、その手触り温度の後遺症に、間歇的にだが、悩まされ続けていた。その記憶のあまりの生々しさを。私はそれを他人には説明できないばかりか、自分でも、自分が何を恐怖しているのか理解できないまま、母親の実家に行きたいんだ、と潤は私にメッセージを送ってきた。図書館の中で、古書のPDFファイルを作成しながら、私はそのLINEを読み、お母さんも一緒に行かれるんか?市の治水工事の記述にはさまざまな混乱が見られ、母には内緒だ、私にはこの市が当時水不足に悩んだのか、俺一人だけ。川の氾濫に悩んだのか、明確な判断が下せない。なぜか、水道管の配備と同時に水不足の問題が深刻になったとある。同時に水源の確保に追われ始めるのだが、伴って、片っ端から地面が掘り起こされ、水道管は埋設され、噴出する問題のさまざまに無理やりつじつまを合わせる形で収拾が付けられていく。潤に会いに行ったとき、潤は実家の家の前に出ていて、私を出迎えてくれたのだった。「久しぶり」潤は、「元気?」両親が月三万円で借りている借家に身を寄せていた。「これから、どうするんなら?」潤が大学を出る年に、両親の建築会社は倒産した。持ち家の土地は売り払われ、潤はこっちに帰っては来なかったし、両親は自分たちの気配を消したまま、どこかへ引っ越してしまった。久しぶりに見かける彼らは、確かに年齢を加えてはいるが、面影はそのままだった。見間違えることもない。私は彼らをすぐに見留めたし、彼らもそうだった。「上原君は、立派になられたんねぇ」あいかわらず誰にでも愛想のいい、ということは、明確な悪意もなしに裏表のある、ということではあったが、潤の母とひとしきり再会の挨拶をかわして、潤に導かれるまま狭いDKに行くと、潤の父は介護用のベッドに身を起こして、私に微笑むのだった。りっぱねぇ、と母親が言った。私の車に乗り込みながら、「ありがとう」鼻に抜けるやわらかい発音で言った。「お母さんは行かれんでええんか?もし、」潤は言葉を切って「親父の会社が倒産したろ?親族の主流どころがみんな債権者で。母親には、二度と近づくなと言われてる。」彼の母と「それで、内緒なんか」そのベトナム人の《娘》が「そう、けど、行ってみたい。」並んで私たちを見送った「それで、帰ってきたようなもんだから。日本に、」忘れて仕舞って、どうしても行けないんだというアドレスを潤に渡されはしたものの、わからないどころか、国道をまっすぐ行って、岡山の中央部付近で一本に道を入っただけのところだった。とはいえ、もはや、彼にとっては、外国の地図に等しいのかも知れなかった。ここは、他人の土地に過ぎない。あるいは、私にとっても。「奥さんは?留守番?」ここは日本ですら、最早ないのかもしれないのだから。通り過ぎる「母と、父と」緑の山の「お母さんは英語話せるんか?」低い連なりが「いや、母親は日本語で、妻は英語でしゃべってる」乾ききらない雨の「わかるんか?」水滴を湛えたまま「ときどき、笑ってる」山の間を通した高速道路を一時間ほど越えて、国道に下りて少し行くと、周囲は寂れた、というか、もともと何もなかった道しかない広大な空間が広がり、目印らしいものさえなく、しかし、潤の記憶がナビより早く私を誘導した。ナビには瀬戸町と表示されていたが、聞いたこともない地名だった。果物園の間の細い道路を入ると、「降りよう」彼は言った。あとは、歩いていける。「悪いけど、ここで。こんな高級車で乗りつけたら、目立っちゃうよ」潤は二世代前のクラウンのサイドボードを叩き、「嫌味かよ」私が言うのを、笑って聞いた。その広い山際の土地は車が二台しか止まっていない駐車場だった。「ここ?」









お堀のような用水路がめぐったコンクリートの小さな橋の向こうの駐車場を指し、私は言うが、他の家の十数倍近い敷地ではあった。そこは単なる、無意味な空間に過ぎない。満車になりうる可能性など感じられない。「みんな死んじゃって、叔父が一人で守ってたんだ。ずっとね。生き残ってるのは、母と、母の弟だけだ。《のうちゃん》っていって。彼は今横浜に家、買って住んでるよ。青葉台の。小さいけど、いい家だよ。建売の。画像でしか見たことがないけどね。母が送ってくれた。」潤はコンクリートの十歩もない橋を渡り乍ら言ったが、たいした感慨もない。「五年前くらいかな、瀬戸の叔父はもう歳だったし、原因は知らないけど、たぶん、寝煙草かなんかだろう、火事を出しちゃって。夜にね。おじきは寝てたんだろう。家と一緒に、おじきも燃えた。道が狭いだろう?消防に苦労したらしいぜ。木造の古い屋敷だったし、おかげで、燃えるべきものは全部燃えた。おじきは言ってたよ、《のうちゃん》が、こっちに帰ってくるまで、ここはわしが守るんじゃってね。こんなところに、帰ってくるわけないのに。葬式には母親だけ出たけど、親戚や近所の人間から袋叩きにあったらしい。いや、比喩だよ。」

「わかってるよ」

「いや、ほんとにそんな人間でもいそうだろ?こんな田舎じゃ。この、古きよき未開の日本ってやつ。スケキヨか鬼婆でも出てきそうなね」荒いアスファルトの裂け目からところどころに草さえ生えていて、まともな管理さえされていないことがすぐに知れた。雨上がりのアスファルトは、ただ、濡れてあざやかに黒ずむ。「でも、すごいことじゃねぇか、その叔父さんも。ちゃんと土地と添い遂げられて、守らり通されたいうことじゃろうが」私が息を吐くように言うのを、潤は黙って聞いてはいたが、「守ったって?みんなそう言ったらしいけどね。横浜の叔父ですら。その奥さんも。でも、結局守りきれずに、燃やしちゃって、自分も一緒に燃えただけの話だよ。そうとも言えるだろ?どっちにしても、救いのない話って気がするな、俺は。いったい、何の意味があったんだろ。自分で燃やしちゃって、自分も一緒に燃えてしまう。救いようがない、残酷な、ね」潤は言葉を詰まらせたが、特に、動揺があるわけでもない。感情のさざ波さえ。確認したかっただけなのだ。今の現状を。「自分の全部の人生の時間ごと、過失という名の何かに火をつけられて、燃やされて仕舞っただけだ。叔父の遺体は火葬の必要もないほど綺麗に燃えてたらしいぜ。くずれた灰の破片になってね。確かに年寄りだったから、そんなものなのか?そうは思えないな、いくらなんでも。まともな骨さえ残らなかったところに、なんとなく、おじきの気持ちを感じる。どんな気持ちだ?いや、こんなのは、単なる感傷かオカルトだけどね」私は彼を振り向き見て、笑いかけたが、「…と、母が言ってたよ。」言って、笑った。「お前は、誰かに処罰されたいんじゃろ?」私は言って、私はその声に、たじろぎさえした。なぜ?潤は言った。私を見向きさえせずに、錆びついたようにかすれた声に背後から呼ばれて、お前の人生はすべて失敗だったから。その音声は聞き取れなかったが、私たちが振り向き見ると、腰の曲がり始めた「…じゅんくん」老婆が立っていた。自分で、それを知っている。じゅんくん、なぁ、じゅんくんじゃないんかなぁ、と彼女は繰り返し、潤に歩み寄り、呆けた、茫然とした、知性のかけらさえない表情のままで彼を見上げるのだったが、「ご無沙汰してました。新家の…」潤が頭を下げて、屈託もなく、笑いかける。老婆はただ、じゅんくん、じゅんくんと、口の中だけで言葉を繰り返し続け、やがて、思い出したように「まあ、なんとなぁ、りっぱにおなりんさってなぁ」彼女は潤の腕に両手で触れた。「すぐ前の家のおばだ。分家した新家の。二十何年、会わなかった。」潤は両目を涙ぐませ乍ら、彼を見上げている彼女を抱きすくめるようにしてその手をとり、その涙が私には不可解だった。「ほんとうに、ご無沙汰でした」ただ、繰り返した。にもかわらず、雅巳は知っていた、すべては手遅れなのだ。俺が今、そして、やがて、知っていることのすべてを洗いざらいぶちまけたとしても、そして、そうしているのだが、すべては、と、雅巳は、几帳面なほどにその情報のすべてを自白してしまい乍ら、一度放たれたヴィルスは、もはや収拾することなど出来ないのだ。私は抱擁し会う潤と、彼の《新家の叔母》を見ていた。作った本人にさえ出来ないことを、どうやって出来るのか?彼らから少し離れて。もはや、すべては無効だった。《ネオ・リュウキュウ》のあの、A.I.、あの、《のびた》と《しずか》と呼ばれた双子A.I.は、今、何を考えるのだろう?既に東京は陥落した。征圧された国会が《ネオ・リュウキュウ》の国家承認をさえ決議すれば、その所有権はすぐさま破棄されるだろう。雅巳は思いながら、市の警察署から県警の護送されるパトカーの中で、視界に広がる公道の広さを、その先の遠くに広がる山々の低いつらなりを、懐かしいもののように眺める。今、視界に広がるものが、いまや、失われて仕舞ったものの記憶でさえあるように感じるのは何故なのか?仮にそれが今、初めて目にする風景であったにしても。









彼は知っていた、今や、彼自身さえ、記憶するにも値いしない役立たずの何かに過ぎない。自分を、彼らはどう扱うのだろう?雅巳は思いながら、事実、彼がいったい何をしたのだろう?誰かを殺害したわけでもなければ、何かを奪ったわけでもないが、彼はむしろすべてを奪われて仕舞った。誰に?むしろ、自分自身に。それを作りはしたが、作る過程にあってさえ既に、それが奪われていたことは知っていた。民主的集団性の本質がそうであるなら、今、彼はすべてを奪われ、居場所すらも今失いつつあるし、最早俺は、失ってしまった、すべてを、逃走するだろう、と雅巳は思った、頃合いを見て、間違いなく。誰から?警察から、日本国から、《ネオ・リュウキュウ》から。彼らから。彼らが地表の上に仮想した、解放された領土のすべてから。既存の、拡張現実のすべてから。むしろ、事の始めから、そうするつもりだったことを思い出す。確かに、逃げるために作ったのかも知れない。俺は逃げ出すだろう、消えうせ獲る場所などどこにもないにもかかわらず、帰り獲る場所は常にない。インターネット上にさえも、あるいは、あらゆる土地という土地は俺に牙を向くだろう、激しい拒絶とともに。A.I.すら最後に言った、俺は投降するよ、でも、それ、無効よ。と、そもそもが連絡されるさまざまな言語に対応するために構築された管理者A.I.は、さすがに流暢な日本語で、いいんだ、それで。「なぜですか?」そうしたいから。それって、僕たちみんなへの裏切りだよ。あなた、自分自身を裏切ることにもなるのよ?それでいいんだ。…残念です。生き続けるだろう、俺は、と、彼は思った、確信として、彼は奪うだろう、生きるための金銭、或いは物品、住居、ときに命さえも。きみ、追放されることになっちゃうよ、いいの? 生きるためだけに。この、他人の国土の中で。あなたにとって、すごく不利益な結果しかもたらさないと思うわ…。子どもたちにさよならさえいえなかった。彼を拒絶してやまない地表の上を、妻にも。逃げ惑い、ずっと、こっちに、ずっといればいいのに。私が言うと、帰りの車の中で、潤は答えた。いや、たぶん、あと一週間くらいかな、帰るよ。あと一週間?いや、「妻が言ったんだ、雪が見たいって。せっかく日本に来たんだから。テレビでときどき、日本の雪の映像が流れて、俺は言った、寒いよって。どのくらい?冷凍庫の中くらいって。でも、見たいと言う。いつ行く?雪なら、冬に?妻は言った、でも、寒いんでしょう?もちろん。なら、夏がいいって。」潤は言い、それが彼女の論理だった。で、今、ここにいる。もうすこし、待っても、雪が降らないのを確認したら、帰る。わかる?私が笑ったのを確認すると、とはいえ、ベトナムに帰れるか、わからないけどね、ささやく。ベトナムの警察機関が、このところ、前のめりになって組織の取締りを始めてるから。入管くらい入れるだろうけど、そこから先は、どうだろうな。針のむしろだぜ。追っかけるから逃げる。逃げるから追っかける。そこはもう帰り獲る場所じゃない。そんな気がする。けど、帰らないといけない。「なぜ?」妻が、潤は言った、そこでしか生きられないからさ。日本だけじゃない。ベトナム以外じゃ生きられないよ。彼女は。すべてのベトナム人がそうであるわけじゃないけど、少なくとも彼女はそうだ。不思議だね。ベトナムにも彼女の知らない土地なんかいっぱいあるのに、土地の文化も歴史もさまざまなはずなのに、英語がしゃべれれば、言語に不都合はないはずなのに、彼女の知らないベトナムのどこかなら彼女は生きられ、彼女の知らない例えばカリフォルニアでは彼女は生きられない。なぜなんだろう?ネイション?これって、なんなんだろう?「奥さんが、そう言われたんか?」いや、俺がそう思ってるだけ。違うかもしれない。対話って、決断を生まないんだよ。決断するのは、いつも、対話の暴力的な中断でしかない。美しいには違いなかった。どこか、素朴で垢抜けないが、美しい部類ではあるに違いない彼女が、確かに、外国で生きていける気はしなかった。一度しか会ったことはなかったが、彼女は明らかに外国人然としていた。いずれにしても、自殺と言う明確な意識もないままに、自殺しに帰国すると言った風に、潤の言葉の群れは私に認知されていて、いや、と彼は答えた。そんなに重い意味があるわけじゃない。ただ、帰るべきだから帰るだけだ。帰るしかないから。たぶんね。潤が、言葉を濁した。私には、そう聞こえた。いずれにしても、潤はやがてベトナムに帰って仕舞うのだし、一年近くたって、雅楽団体の渡越に同行してベトナムに行ったとき、会った潤は相変わらず時間の経過を感じさせない美しさを維持していた。そのとき、それはサイゴン近くのビンジュン市で行われた日越交流イベントの招待客としてだったが、雅巳はいまだ拘束されたままで、テロはアメリカにも、中国にも飛び火していた。インターネットは最早、形骸化したサービスであって、最早それは旧文化の類に属した。それは火のついた火薬庫のままなのだ。旧勢力は遮断し、新勢力は再構築する。実質《ネオ・リュウキュウ》に占拠されてしまった電波網の中で、彼らについて議論してさえいる事実を、私たちは不思議な現実として、ひそかに、目を逸らした。A.I.たちはそれらの言葉をすべて知ってさえいるには違いないが、それらは彼らが管理すべき言葉の群れの一つ一つに過ぎず、彼らへのレジスタンスに対する抑圧すらない。彼らにとって、すべての言葉は等価なのだろう。声の群れが彼らの廃棄を決断したら、彼らは彼ら二人の議論の結果、それに応じるに違いない。雅巳はその数ヵ月後に彼が実行した逃走の準備を、何らかの手順によって進めていたには違いない。その詳細は未だに公表されていない。傀儡化された日本政府は実質的に崩壊していたが、いまだにそこは日本国と呼ばれてはいた。彰久はまだ生きているはずだった、更正医療の名の下に厳重に保護されて。「久しぶりだね」タンソニャット空港近くのカフェで、彼を三十分近くも待たせた私を咎めることもなく、









陵王

潤は言う、ひさしぶり。叫び声をあげて目を覚まし、まだるっこしい疲労に包まれたまま身体が静かに寝息を立てつづけたままなのに気づく。地元の雅楽団体の海外公演のために私はビンジュン(Binh Dương)というベトナム南部の地方都市にいるのだったが、通訳の日本人慣れしたベトナム人はいちいちカタカナ発音でビンズオンとその都市のことを発音し、アジア交流フェスティバルの日本語進行表でもビンズオンと書いてあり、地元の人間たちはビンジュンというに近く発音し、言語表記にはイにあたるらしい母音はどこにもなく、結局のところ、私にはその土地の名前がどう呼ばれるべきなのかよくわからない。いずれにせよ、大陸の南らしいどこまでも続く平野が果てしない、子供のころに、戦争体験のあった祖父から大陸は島と違ってすべてが大きいんだといわれたそのままの、おおづくりな風景が広がる。おだやかな朝の光がレースのカーテン越しに差し込んで、ビンジュン市の中心部近くのホテルの中で私は身を起こす。二年前に来たときと同じような、光そのものがまとった熱帯の温度が、日光を遮断したはずの室内にまで侵入しているのを、私は既に知っていた。交流会の終わったあと、三日間とはいえ、帰国まで日程に余裕はあった。





Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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