小説《私小説》Ⅱ ②…放蕩息子は帰郷する。
波奈子を抱いてやるべきだったかも知れなかった。本当に、飢えていたように抱きしめて、好きだ、と何度も呟き、自分勝手に、引き裂くように服を脱がせ、ベッドに押し倒して、自分勝手に射精して。何をやってもどうしても満たされなかった、しかし、ついにいま、すべては満たされた。…と。目の前で風景が疾走し、あなたじゃなきゃ、駄目なんだ、と。窓の向こうに、そんなふりをしたら、彼女はどうしただろう?線形の残像になって、とっくに、上品な嘘だとわかっていながら。消えていく。見つめられ続けながら。疾走していくしかない、新幹線の中の風景。同じように、フェイスブックのメッセンジャーで、波奈子とはすぐに連絡がついた。とっさに、日本にいる、5年間のブランクがあっても意にも介せず、すぐさま、わたしの為に尽くすだろう存在として、真っ先に、あるいは、唯一思いついたのは、彼女しかいなかった。判断に間違いは無かった。彼女は単なる従順な下僕に過ぎなかった。食事の後、無意味に部屋にまでついて来て、何の話をするわけでもなく、やがて遅ればせにわたしの顔色を伺って見乍ら、小声で告げた、短いお悔やみの言葉を、言い終わらない瞬間に泣き出したのは、それは彼女のほうだった。どうしたの?と、お前が泣くところじゃないだろ?笑ってわたしは言い、首を振りながら、それは激しく、そして彼女は答えたのだった。「わたし、お母さんにも、お父さんにも、会えなかった。」見つめるが、彼女の視線は、伏目に、ただ、涙に濡れて、見上げられることは無い。交錯しない視線の中で、無距離に触れ合う。ごめんね。言ったわたしに、もう一度首を、強く振って、「わるくない」何度も、時に激しくさえ、確認するように「わるくないです」振られる、「潤さんは。」その首に、「なんにも」そのときできることは、ホテルの窓からこの、不快な気の狂った女を放り出して始末してしまうか、かすかな空気の実在と同じように、かすかに狂ったバグの一つとして無視してしまうか、あるいは、やさしく彼女を抱きしめるかの三つしかない。この、停滞した何も動かない夜景の中で。わたしは、後者を選んだ。腕の中に彼女を抱いたとき、衣服のせいで、瞬間、それを感じることはできなかったが、わたしは彼女の体温を思い出していた。やがて感じられはじめたその体温に、記憶は、それらは互いに重なり合って、単純な温度の高さにすぎず、固有性など一切ありえないにも拘らず、いつか、それぞれに特異だった固有の暖かさとして錯覚されてしまうもの…。
彼女の、あの写真の家族の中の父親とはいかなる遺伝情報の共有もないことは、今では知っている。わたしがまだ東京に住んでいた最後の時期に、波奈子の母親から聞いたのだった。彼女にとっては、わたしは娘の婚約者だった。一種の比喩として。永遠に守られること無く、既に破棄されていた、永遠の約束の恋人。誘われていっしょ緒に食事をすることになった、その日に彼女は遅刻しなければならなかった。急に入った、自主制作盤の打ち合わせのために。彼女の母と、私だけでいっしょにすることになった食事の間に、何を聞かれたわけでも無く、不意に彼女は言ったのだった。実は、と、言って話し出す彼女は、若かった頃の高飛車な感じを、どこかに名残らせていた。彼女の名前は奈菜子(ななこ)と言った。もう独りの娘は陽奈子(ひなこ)だ。短く揃えられた髪を揺らし、老いがしずかに彼女の皮膚から鮮度を奪い、しわの中に、身体の形態をやわらかく包み始めていた。死へのゆっくりとした準備をさとし、うながし続けるように。波奈子は、彼女が80年代の後半にフィリピンにボランティアで言ったときに、「…授かったんですね、あのときに、」と、彼女は言った。波奈子は、彼女が現地の数名の人間に強姦されてできた子供らしかった。当時、未婚だった父親も現地にいて、彼は病院と警察所の中で、事の次第のすべてを聞くことになった。福井で大量に生まれた原発成金たちのうちの一人に他ならなかった、勝ち組の彼らの善意の旅行は、一瞬で悲劇的な色彩に包まれた。彼は、彼女と結婚した。妊娠が発覚したとき、確かに迷ったが、奪胎は違う、と思った、と、彼女はわたしに言った。彼も承認した。人は、悪くないんです。悪いのは、人じゃないの。…ね?、…ええ。…ねぇ。海辺の町だった。独りで、散策に出た帰りだった。暗かった。数人の、匂いのきつい(薬物のせいだったかもしれない)男たちにバッグを奪われたことから始まった。もとをただせば日本製のその薬物に蝕まれた彼らの体臭。俊敏な、複数の肉体。奪い返そうとした彼女と、男たちの、暴力的な身体接触はやがて、性的な接触に変わって行った。気付いたときに遅かった。浜辺のくぼんだ場所の、野の花が赤く咲いていた、そこの木製の船の陰で、意識を失いそうになりながら、何度も彼らの声と、息遣いと、自分のそれと、悲鳴と、喚声?車の、バイクの通り過ぎる音響さえ含めて、それら、彼女にはあまりにも悲痛に聞こえたノイズの向こうに、波の音が聞こえているのを彼女は知っていた。確かに、それは聞こえていた。ずっと前から。名前はどうする?夫は言った。あなたつけて。ねぇ、…。ね?彼女は言った。やがて紙に書かれた、いくつもの候補を、そして、彼女はそれらを見もしないで、言った。はなこ。は、な、こ。波、奈、子。それが彼女の名前だった。「後悔してますか?」
「何に、でしょう?」生んだこと?行ったこと?育てたこと?何に?質問をした自分でさえ、それはわからず、わたしはむしろ沈黙するしかないまま、「後悔して、…」言いかけて、でも、ね。…ねぇ、ほら…「遅すぎるでしょう?」ふたたび、当たり前のことに気付いたように彼女は言った。諦め、とは違う、明確で、確信に満ちたものだった。
彼女が愛されているのは知っていた。彼らに。彼らが、彼らにとっては愉快とは言えないわたしとの付き合いを、それでも許容し続けるのは、彼女が自分たちの子供としてみなされていなかったからではない。とはいえ、彼女は、必ずしも、彼女たちの、自分たちの子供ではなかった。彼女たちにとって、彼女に対して、なにか、埋めようも無い優しい距離感が存在していた。その距離感だけが、彼女に、優しい自由を許させていたのかもしれなかった。始めて会ったとき、この、彼女たちの優しさが、不思議だった。なぜ、彼らはわたしを受け入れるのだろう?単純に言ってしまえば、彼らの娘を慰み者にしているに過ぎない、その意味では彼女の未来を奪って、その限りにおいて彼女の現在をさえ奪い果ててしまっている、あきらかな加害者に他ならないわたしを。あの子がいつもお世話になって、と奈々子は言った。丁寧に頭を下げて、そして慰めるように、いたわりさえするように、その眼差しはただ、優しさだけを語るに過ぎなかった。不意に舞い散った小鳥の柔らかい羽根に、頬を後ろからくすぐられたような。いつでも、彼女は特別な子だったのだろう。その、いつか出来上がっていた特別さが、彼らの優しさを特別に生み出してしまったに違いなかった。もちろん、二人に共有された海辺の苦痛は、癒されえない苦痛として目覚め続け、放置され続けなければならなかったままに。その妹に、もしもわたしが同じことをしたら、同じような鳥の羽の優しさは舞い降りてきたのだろうか?うしろから、そっと風に触れられたように。波奈子の兄は、東京の企業を経由して、彼女たちの地元の福井県の実験炉の管理部で働いていたが、彼はいつだったか言ったものだった。でも、いや、失礼ですが…、そして不意に笑って、なんで、あんなのがいいんですか? いつからなのだろう?わたしが彼らのとって、彼女の夫になってしまっていたのは?いつも思うんですよ。もっと、あんなのより、いいのがいっぱいいたでしょう? 波奈子がそう言ったのかもしれない。あるいは、彼女のその思いが、いつの間にか、彼女の周囲にその状況を作ってしまったのかも知れない。ほら、潤さん、いけめんじゃん?まじで。いや。本人が気付く前に。そして、むしろ、彼女はその周囲に、わたしが彼女の生涯の人間だと教わりさえしたのかもしれなかった。いつの間にか。そして、窓越しにいつの間にか、雪が降っていて、福井のほうも、雪が降るんですか?東京みたいに。その、まるで日本地図を知らない外国人のような、そして、日本人の大多数にとっての当たり前の質問をすると、奈菜子は笑いもせずに、うなづいて、綺麗ですよ、…それは。とだけ言った。「女として、どうなのって。あいつ、…がさつでしょ。」兄の名前は、確か、修一と言ったはずだった。わたしより年下だが、同い年か、むしろわたしのほうが下に見え、「かわいけりゃいいけど」言って、思い出したように笑い、ん、…でも、まあね、と、「ぶっちゃけ、パーツは悪くないんですよ、でも、トータルで、どうなのって?思いません?いや、」わたしが渋谷と原宿の間でやっていたバーの中だった。「でも、せっかくなんで。やっぱそうですね、おれ、やっぱ、やめますって言われたら、ほら、あいつに怒られるんですけど」わたしが彼女と出会ったときには、水商売のころのホスト仲間の一人と、客だった女と、バーを始めていた。次にドッグ・カフェを。次に、同じようなカフェ。次に、…そして5店舗できた頃には、その生活にも飽きていた。成功者とも、実業家ともいえなかった。失敗しているわけではさらさら無かった。単に、目に映るものすべてに、飽きた。
修一が来たのは波奈子の紹介だった。東京の会社の、要するに震災前の東電での本社研修に呼ばれたのだった。大学時代の同級生との飲み会のあとの何次会かで、三人できた。話し方も、顔つきも、物腰も、まったく妹とは似ていない。「いや、今まで見た最高の女性ですよ。波奈ちゃんって」と笑いながら言い、彼の言うとおりかも知れない。彼女の《夢の女》の夢のもろもろは、一般的に、どうしようもう無く過剰で、いびつにさえ見えるかも知れない。美しいばかりか、むしろ、見苦しい女でこそあったかもしれない。
「言わないでくださいね」奈々子は言った。「秘密にしている、って。そういうわけじゃないんですけど。ただ、もう、…」一つ一つの言葉を「言わなくてもいいんじゃないですか?遅すぎるというか。もう」わざわざ区切りながら言う彼女の口調に「必要ないんじゃ。…て。卑怯なのかも知れませんが。」たとえばわたしが言えと命令しても、そんなことするはずも無い、当たり前の既に下された決断があった。「あの子だけが、知らないんですか?みんな知らないんですか?」
「主人とわたし以外には。」あの子見てると、と健一が言った。それは共同経営者だった。「なんか、できの悪い子だなって気がする。」波奈子が店に来て、そして帰って言った後で。その後姿が見えなくなったあとに、そのとき、もう、わたしの手は付いていた。健一との付き合いは、ホスト時代の最初からだったので、彼ならすぐに気付いてしまうことを知っていたわたしは、ことのあらましは何も話さないままだった。「やったんでしょ?もう。なんかね、見ればわかるけどさ、匂いで、ね。体臭、変わったよ。あの子。」笑う。「かわいいんだけどね。なんか、でき悪くない?」
「そう?」
「なんか、根本的に間違っちゃってない?。生き物として、なんかね。なんか、こう、作るのへたで、がんばったけど結局失敗しちゃってごめん的な、残念感、はんぱないよね、」笑うわたしの頬に、両手のひらを触れて、まあ、と、好きだからね、お前。食い散らすのが。独(ひと)り語散(ごち)て健一は、殺されちゃうよ。最期は。言って、わたしはそれを聞きながら、声を立てて笑った。
健一には、帰国の連絡さえしていなかった。なぜだろう?単純に、最も、何の混じりけなく愛していたのは、…いるのは?ずっと、この美しい男でこそあったはずなのに?
新幹線を降りた福山駅は、ただ、閑散としている。そこが実家だった。容赦なく寒いが、東京ほどではない。両親が死んで何日たったのか?ふと、本当に指折り数えてみると、まだ四日しかたっていなかった。明日が、火葬の日のはずだった。雛(ひな)とは焼き場で待ち合わせていた。繭(まゆ)、雛(ひな)、優奈(ゆな)の叔父の三姉妹の、繭はいま、カリフォルニアの白人と結婚して、帰ってこない。優奈は、パリだったかどこだったかに留学して、バイオリンをやっている。うまいのかどうか、有名なのかどうかも知らない。雛と、その母と、父とが、福山に来ているはずだった。借家の処分から、荷物の整理から、結果的に彼らにお願いしてしまった仕事の量は膨大だった。わたしが叔父だったら、わたしを殴って、蹴り、蹴り上げて殴りつけ、血まみれになって、わたしは生きていることそれ自体を謝罪し、わたしが生まれてきたことそれ自体を後悔したとしても、わたしは、決してわたしを許しはしないだろう。彼は、どうするだろう?暇つぶしに入った喫茶店の中で読んだのは、森鴎外の『舞姫』だった。
石炭をば早積みはてつ。いまなら、どうだろう?充電もうなくなりそう。だろうか。飛行機や新幹線の長い閉ざされた時間の中で暇つぶしに何百回も読んだということをもって愛読書と呼んでいいなら、それは間違いなくわたしの愛読書だった。すべては自分の責任に他ならないものの、罪持つものは自分自身以外にはいなかったものの、目覚めたときにはすべてが、何も知らないまま、何も体験されなかったままに、勝手に終わってしまっていた男の滑稽な惨劇。一歩を踏み出しさえしなかったのに、もう後戻りができなくなっていた男の、残酷で陰惨なショー。外国語の影響を受けながら、日本語以外ではなく、既存の日本語でもない、いびつに異種交配された日本語によって仮構された美文らしきもので埋め尽くした、カタカナ書きの外国語だらけの小さなハリボテ。問題は、エリスの子供がどんな大人になって、どんな人生を過ごして、どんな風に死んでいったのかではなくて、これから、明日の朝までの時間だった。生まれて、育ったという以外の関係の一切をなくしてしまった町に、人間関係上も、法律上の所有権上も、もはや、わたしの公式の居場所はどこにもなかった。父方の墓参りにだけ行こうと決めたのは、『舞姫』の、露西亜に行くために、余が少しの荷物を小「カバン」に入れた瞬間だった。
20年以上ぶりになる生まれた育った町を、ただ、窓越しの風景としてだけタクシーで通り抜け、それでも悔恨のようななつかしさにだけ苛まれるのが、ただ、不快だった。そうなるのは既にわかっていた。せめて誰とも会わないですむように願った。墓地は荒れてはいなかった。誰かが手を入れていたのかもしれなかった。父親の妹だろうか?彼女の子供たちの数も三人だった。その長女も三人子供がいたはずだった。3、さん、三。何でも三だった。線香さえ用意しなかったので、ただ、立ち尽くすしかないが、物思いにふけるほどの記憶の喚起力さえも、それらの墓石は既にわたしに対して失っていた。胸倉をつかんで、聞き取れない何かを耳元にささやかれたような、不審で、無意味な懐かしさが、ただ、どうしようもない残骸として広がった。こどもの笑い声がした気がして右を見ると、背の低い、細い枝の複雑な群れのいっぱいの葉の茂みの先端に、白い小さな花々を、無数に散らせた、花、その木が、枝が、それらの群れの茂みが、それらが、立てた音声だった気がした。ねぇ、
え?…と、ささやかれたわたしは、我に帰って、その茂みの向こうに、悲惨なほど老いぼれた女が立っているのを認めた。その女には見覚えがあった。わたしと同じくらいの年齢の、そして、無残なほどに、もう若くは無い加齢だけを繁茂させていた。その体中の周辺にまでも。ふとしたしぐさにさえも。「ひさしぶり。帰ってきたの」小声で叫ばれたような音声を、それは、幼馴染の、千恵子と言う名の女だった。
千恵子は既に人手にわたったもとの実家の、すぐ近くに住んでいた、あるいは、住んでいる、女だった。かわいい少女だったが、いま、目の前の彼女は、大柄で、骨ばかりが太った、丸太のような女になっていた。何も答えることができなかったのは何故だろう?ただ、微笑んで見つめるしかなかったわたしを、彼女はやがて、あの時、と、この人、自殺しに帰ってきたのかって思った、と笑いながら言うにしても、《そんな風にしか、見えなかったよ》わたしはややあって、「久しぶり」言った。《まさか。まだ、死なないよ》帰ってきたの?いつ?という彼女の微笑を、《…だよね。知ってる。けどさ》何を言えば言いのだろう?時間の経過を、そのすべてを、わたしは《心配?》彼女に伝えるすべが無いままに、今日、《ううん、そうじゃなくて》と、さっき、着いた。そう言って、笑う意外に何ができたのか?
わんさかとふってわいて、だだっと堕ちてきたような笑い声と言葉の快活さと共に、強奪されたように千恵子に通された彼女の家には、確かに、記憶があった。鮮明な記憶、とはいえない。目にふれた何かが、何かの予兆として、鮮明に何かを語るのだった。それが、意識の錯乱のせいだと既に知りながら(じじつ、20年以上、ひょうっとしら30年近く立ち入らなかった住居の庭に、かつてと同じものなどほとんど何も無かったはずだった、そう思った瞬間に)いつか見たもの、いつか触れたそれとして語りかけられていた気がした、わたしの、ひょっとしたら、(確かに、建て替えられてはいないその柱は、まさか入れ替えられはし無かっただろう土も、石も、)悲しいほどに陽気な千恵子の顔を、その、明らかな老いは(確かに、わたしがかつて見た同じものに過ぎないのだった。)誰もいなかった。彼女以外には。にも拘らず(そんなことに、やがてわたしは気付いたのだった。)凝ったセイロンティーを、凝ったお茶器で、凝ったカップに入れながら、千恵子はもともと饒舌だった。たとえ、千恵子を含めた誰もが、最早千恵子の話など聴いてはいないことに気付いていたとしても、彼女は話し始めたら止まらなかったし、それを、わたしは黙って笑いながら聞き続けるしかなかったのだった。いつも、いつかも、昔も、あのころも。ほんの小さい子どものころ以外、それほど頻繁に行き来があったわけでもなく、仲が特にいいわけでも、悪いわけでもなかった。それらの実際的な関係の希薄さの事実を、二十年以上と言う、人間種にとっては長すぎる時間は、単なる空っぽの饒舌さのうちにたやすく忘却して仕舞うのだった。むしろ、とてつもなく多くの長い長い時間を、彼女と共有していた気さえした。そんな事は無い、と、あとですぐに気付き続けながら。「まだなの、わたし」と言って、結婚はしていなかった。「ごめん、それってさ…」若い頃にアルコール中毒になったことがある、と言った。「何?」マジ?とわたしは言って、…マジ。「一度も?」答える彼女に、「ごめんね」笑って、「わたし、モテないからさ。」笑われた声に、さらに笑わされる。頭が悪いが、性格はよくて、能天気な少女だった、と、誰もが回想するに違いなかった千恵子の、彼女は、やがて深刻な悩みと言う名の障害に打ちのめされたのかも知れなかった。あるいは、単なるアルコールの快感が、彼女を打ちのめすことによって、彼女に初めて苦痛を与えたのかも知れなかった。いずれにしても、彼女は苦しみ、傷つき、恢復した(と少なくともいま、彼女はそう思っていた)のだった。まだ、怖い、と言った。やがて、笑い声が収まった、しずかな、居心地のいい空間をお互いに作ろうとした退屈さの中で、「何が?」
「お酒」
「大丈夫だよ」
「そっか?」一度、と、わたしは言った、地獄を見てきたやつは、もう二度と、危ない場所に堕ちることなんか無い。地獄の深さも、つまらなさも、知っちゃったから。
嘘だ。そんな事は、だれでも知っている。そんなに、た易いのなら、誰も死にはしなかった。誰も駄目になりはしなかった。ホストのときに、覚せい剤で自殺した、レイトを思い出した。漢字は忘れた。どうせ麗人だか黎人だかに決まっている。一度パクられたときに、やめればよかったのに。調子に乗ってはじけたときに、自分の体に火をつけて焼いた。バイクが好きだった。女の部屋だった。人体もろとも燃えた部屋を損害賠償する彼の両親。そんなに悲しいなら、意味もなく悔しいのなら、我慢がならないのなら、と、わたしは思った、狂ってしまえばいいのに。どうしたの?涙ぐんでいたわたしの目に、訝るような千恵子の声がかかって、「どうしたの?」なんでもない、と、わたしは言うのか?いま、嗚咽さえ既に漏らしてしまいながら。わたしは泣いていた。彼女に教えられるまでも無く。もうだれもいない。居場所などどこにもない、隠喩でも暗喩でも比喩でもない。尋ね獲る場所はいくつかある。だが、この国の領土の中からはもはや、わたしの居場所など現実として喪失していた。千恵子は抱きかかえるようにして、わたしは泣きながら、千恵子に謝り続けるわたしを千恵子は抱きしめた。千恵子しかいないらしかった。妹はすでに結婚していたし、母親はどこに言ったのだろう?祖父と祖母は、介護施設にでも入ったのだろうか?父親は働いているのだろうか?定年を過ぎてはいるはずだったが。聞いてしかるべきものの一切を聞かず、話してしかるべきものの一切を話さないばかりか、お母さんはお元気?そう言った彼女に、確かに、母とも、もう、わたしと会っていなかったのと同じくらいの時間以上に、彼女は会っていなかったのだった。「元気だよ」わたしは嘘をついた。話が長くなるからだった。それは、長い、長い、長い、話だ。短くすることもできる。一人息子に裏切られた、無残な人生を幸せに生きた女は、4日前に自分で死んだ、と。それが事実かも知れなかった。それを認めない、かたくななわがままが、確実にわたしの口から虚偽報告をさせた。何の、メリットも、デメリットも無い、単なる嘘に過ぎないもの。それを言ってしまえば、突き通すしかなくなる、そして、暴かれてしまえば、いかなる意味ででも正当化などできない嘘。「結婚するの」彼女はやがて、笑って言った。実は、という言葉を先行させ、わずかの沈黙と、泳いだ眼差しの後で、ややあって。マジで?わたしは、すごいじゃん、と、「いつ?」
「この、12月」声を立てて笑った彼女の「迷惑だよね」声を、「一番忙しいときに。」空間は反響させた。「誰と?」
「もといた会社の取引先の…、でもね、そういうつながりじゃなくて、偶然、出会って。子供も、もういるの。いや、旦那のだよ。奥さん、亡くなられてて。乳がん。大変だったんでしょう?…ね、けど、まあ、…うん。」わたしは彼女の、その表情の、さまざまな、刹那的な、複雑なそれらの推移をただ見つめるのだった。「…縁だよね、って。」
次の日、火葬場の前で、入りきれずに立ちずさんだまま、指定された待ち合わせ時間は過ぎていた。とっくに、火葬さえすんでいたかも知れなかった。何台かの霊柩車と、同行の車の難題かがが入って行ったのは知っていた。立っているだけの1時間半の間に、出ていった車はまだ無かった。美しい、簡素な火葬場だった。昔、渋谷区で部屋を探したときに、驚くほど安い物件があった。不動産屋が、顔色を伺うように、さんざん物件を賛美した後で、火葬場の正面にある物件なんです、と言った。水商売をやっていたころだったから、借りられる物件など、そんな傷のある物件くらいしかないのだった。ある意味において、差別されることが社会的に公認され、被差別者側においてさえ、ある種の奢りと共に承認されている、公然とした被差別人種のお仲間ではあった。差別は、自分たちのようには生きられない灰色の人間たちが与えた、むしろ勲章だったに過ぎない。彼らがその職種である限りに於いて、そして、職種の問題だけではなく、異端視されることを許容せざるを獲ない、自分に火をつけるような危うさを、自分自身も抱えていることくらいは知っていた。「でも、大丈夫です」彼女は言った。「火葬場に恨みを持って死んでく人、いないですから。」笑って、その女は、わたしの職種を聞いた瞬間に、まだたいて《すごい》まだ若かった。「殺されても、自殺しても、ですね」彼女の《初めてなんです。わたし》くりくりした目が「火葬場では、もう、綺麗な仏様ですから」微笑んで崩れ、《ホストの人の本物、この目で見るの。》言った。たしかに、綺麗な場所なのかも知れなかった。《なんか、すごい》事実、その周辺は、借景ですらあって、《なんか、いま、キャーキャー言っちゃいそうで、》ひたすら美しく《…やだ。ちょっと、》整然とした近代的な建築の周りを木立が清楚に彩った、《やばいです。》悲しいほどに端整な環境だった。周りの人間の住居たちの生活臭の立ちこめたたたずまいが、むしろ穢れて見えるほどに。そこは、穢れ獲ない、美しく清楚でしかない空間に他ならなかった。焼かれてしまった灰の美しさなのか。体中が痛かった。昨日、鉄橋の下で、ひざを抱えてうずくまったまま、寝つきもせずにすごしたのだった。中学生のときにさえ、そんな事はしたことがなかった。ホテルにくらい、止まればよかったのに。痕跡を残したくなかった。いかなる意味でも。自分がここに滞在している、滞在していた、痕跡をなどは。人目を気にしながら飲食店をはしごして、時間を潰し、夜の十二時を回ったころには行き場所などなくなる。川べりにまで歩いて、土手を降り、両足の筋肉は既に硬直して、どこでもいいから座ってしまえとつぶやいてやまない。夜の空間に光が穏やかに点在し、川の水をきらめかせたが、美しくもなければ醜くもない。死んでしまおうか、とさえ思う。死ねないことなど知っている。死んでしま獲るだけの死への切迫などどこにもない。何も、美しくない。何も、醜くない。それが最早、許せない。美しくなどあり獲ないなら、せめて醜悪であってくれ。二目と眼にできないほどに。ふたたび眼を開けた瞬間に、失心してしまうほどに。目の前の木立の中に入って、朝の日差しが、見飽きてもなおも降り注いだ。背後の火葬場の焼却炉の中で、両親は焼かれているのだろうか?煙を探す気にもならない。風が木の葉を揺らしていく音だけを聞き、背後に、不意に、自分の名前を呼ばれても、最早それに驚きさえしなかった。雛だった。すぐにわかった。「入らないんですか?」振り向いて、首を振るわたしの顔を見て、わたしは泣いていたわけではない。むしろ、淡々とした表情しかしていなかったはずだった。いかなる感情も、浮かべようにも浮かばなかった。「待ってる?」
「いえ、あの、…」口ごもって、むしろ泣きそうなのは彼女のほうだった。「ごめんなさい。もう、…」
「そう」
「あの、」
「なに?」いえ、と、ふたたび、うつむくのだが、思い出す。わたしは、彼女達の初恋の男だった。彼女たちの母親が、いつか言っていた。あのころ、確かに、剥き出しの扇情的な媚が、まだ乳臭い三人の少女たちの眼差しに、恥じらいの一切さえなく浮かんでいた。「ありがとう」言ったわたしの言葉を、彼女は口の中で反芻して、飲み込んで、ややあって、ようやく消化したその5音の言葉を、さらに反芻して、しかし、何も言わなかった。「いろいろと、ごめんね。喜んでいると思います。母も」わたしがそう言った瞬間に泣き出した彼女は、何が悲しかったのだろう。思い出された記憶が、なのか、いまの目の前の現実が、なのか。来なければよかった。こんなところに。そう思って、今この瞬間に、自分の姿のすべてを、痕跡さえ残さずに消してしまえれば。おにいちゃん、と言ってじゃれ付いてきた小さな、幼かった彼女は、その子供の小さな視界の中で、小さな彼女の世界の中の一番の存在を恋していたに違いない。彼女の世界は広がって、わたしなどよりはるかに美しく、有為にして優位な男たちを見ることになるのだが、記憶はその世界そのものの正当なる差異を破壊してしまう。彼女は一番の存在のわたししか見なかった。わたしが一番の存在などではないことなど、既に知っていたとしても。どうすればいい?どうやってあがなえばいい?残酷すぎて、言葉も無い。一度髪をかき上げた後に、ややあって、わたしにできたのは、そこを立ち去ることでしかなかった。もはや、振り返って見てもやらずに、そして、舌を這わす。そっと、這わされた舌の進行にしたがって、皮膚の上に、唾液の匂いの痕がついていく。鼻に、その匂いは混入して、いま、彼女のその汗ばんだ皮膚の匂いが、わたしの唾液の匂いを付着させたことに、否応無く気づいてしまう。くちびるに一度軽く上唇を触れれば、思い出したようにふたたび開かれて、その、離されてしまった唇をおくれて、あくまで受け止めきろうとする。舌が唇の上部にふれると、かすかに傾けられた頭部が、舌を押し返すほどに唇を押し付けたのを、逃げ去るようにした舌に、波奈子は息を、意識しないままに、自分の呼吸を吹きかけるしかなかい。東京に帰って、ふたたび呼び出された波奈子は、《どうでした?》彼女の唇に、《悲しかった》言って、笑った。触れた唇を、彼女は優しく咥えようとした。開かれた瞳孔を、さらに開ききらせて、唇、その柔らかい先端だけで。やがて離された唇には、見向きもしないで、わたしを、波奈子はただ、見つめた。ホテルの部屋は、薄暗かった。ベッドメイキングは完璧だった。脱ぎ捨てられたわたしのコートだけがそれを汚していた。それは、波奈子が買って用意したものだった。頼んでもいないのに。寒そうだから、と。確かに寒い。明日発つのだから、もういらない。ホテル代も、彼女が出すのだろうとわたしは思っていた。そういう女だった。あるいは、そもそも、わたしは女に金銭を要求されることがあまり無かった。わたしのせいなのか、彼女たちのせいなのか、わたしにはわからない。女たちは、わたしを養おうとした。拘束という言葉のもっとも優しい翻訳。慰みもののような顔つき。波奈子。その体臭。身体。恥ずかしい《夢》。なんか、汚いよ、と健一は言った。なんか、臭そう。と、笑って、いろんなとこが。…かわいいけどね。勝手にわたしは服を脱いでいき、床に放り投げられる衣服を、拾って歩きさえしないで、波奈子は、しだいに現れていくわたしの身体をさえ見ずに、ただ、わたしを見つめたままだった。したい?わたしは言った。舐めたい?
どう?舐めたい?
答えな。
舐めたい?
言いなよ。舐めたいって。
舐めたい?
言えよ。ほら。と、彼女は、「舐めたい、…です」そう言った自分の声を聞いた。欲しい?「欲しい。」やりたい?「やりたい、…です。」めちゃくちゃにして欲しい?「欲しいです。」めちゃくちゃに?「はい」めちゃくちゃに?「めちゃくちゃです」ぐちゃぐちゃに?「ぐちゃぐちゃです」ぎたぎたに「ぎたぎたです」びちゃびちゃに?「びちゃびちゃです」でろでろに?言葉を待たずに、彼女を腕に抱いて、わざとわたしがベッドに放り投げたとき、その、すがるような目線を、わたしは声を立てて笑い、避妊具の用意は無かった。かまいはしないだろう。…知ったことではないだろう。
はやく。もっと早く。
早く、今すぐに。もっと。すぐに、いま。出国手続きの間中、波奈子は、連れ添った貞淑な妻のように、傍らで、ただ、心配そうな顔をしていた。「一人で行けますか?」
「なんで?」笑ったわたしの表情さえみずに、彼女はわたしを見つめたまま、何も言わない。日本人たちの群れ。彼らの生存領域から脱出するのは、もうすぐだった。何をしにここに帰ってきたのか、最早その必然性さえわからない。ホテル代は波奈子、帰りの飛行機代も波奈子。新幹線代も、飲食代も、手の届く範囲の金銭はすべて。何故?夫だから?そうなのかも知れない。出国ロビーに入っていこうとするわたしの背中で、あ、と、波奈子は不意に言って、え?、わたしは振り向くが、ううん、と、その声は、一瞬そらされた彼女の眼差しに振り捨てられたように、周囲の雑音の群れにかき消された。わたしの耳には残った。「どうしたの?」あの、…。何?たぶん、と彼女は言いかけ、ふいに声を立てて笑って、彼女はわたしに抱きついていた。背伸びして、耳元に、「こども、できた」え?と、小さな、そのわたしの声を、「きのう。たぶん」わたしは笑って、微笑む。あの、気付いたの。わたし。「え?」あの、空港で、会ったとき、あのとき、あ、と、不意に言ったのだった、彼女は。あの時に。「何に?」
「あ、できる、…って。」笑っていた。それは、満ち足りた笑顔で、いま、目の前で何が起こっても、彼女の幸福を壊してしまうには値しない、そんな気がした。漏らしちゃったの。あの時。ちょっとだけ。「ん?」
わたし、あ、って。あの、…わかります?
何を?
わかったんです。わたし。こども、できたって。「昨日?」
「そう。わたし、…きのう、できちゃった。」わたしは彼女の頬に口付け、そっと、その腹部に触れた。たしかに、わたしと彼女の、たった一人の子供の生気の、その芽生えに、指先は気付きながら。
2017.12.16.-18.
Seno-Lê Ma
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