小説《近くへ!もっと、近くへ!》…少年が飛んだ、空の色彩。



これは、不法入国者二世の少年の物語です。

《善意》と《良識》の国、日本で、ある少年がその《善意》と《良識》のもと、傷つけられていく物語。

もっと、痛ましい物語になるはずでしたが、そうはなりませんでした。

かってに、生きて行く強さと美しさを、少年自体がいつの間にか持ってしまったから。

フェイスブックで見た、タイ人の母と日本人の父のもと、

日本で育った少年の逸話をモティーフにしています。

2018.05.01 Seno-Lê Ma









近くへ!もっと近くへ!













目を細め乍ら、十二歳の Anh - 潤は数人の人々が彼らの視界の真ん中に彼を捕らえたまま、早口で何かしゃべっているのを見ているが、その声の群れは、彼をなだめようとしているにも拘らず、むしろ、誰にとっても連なりあって響きあう果てもない怒号のようにしか聞こえない。Anh - 潤にとって、それは少し滑稽だった。あと一歩踏み出せば、高くはない渋谷のビルの屋上から飛び降りて仕舞えるのだが、足元の、彼を見上げている渋谷の群集にとっては眼舞いのする高さのてっぺんで、ためらっているわけではない。あるいは、あらゆる音や、風の触感や、穏やかな春の日差しに、いつまでもこのまま体をさらし続けていたいのは、なぜ? Anh - 潤自身にさえわからない。どこからどう見ても、日本人たちが「アジア系」と呼ぶところのそれにしか見えない、自身のくっきりした顔立ちを不意に手のひらに撫ぜてみ乍(なが)ら、うまくかいくぐって道玄坂近くのクラブ街をさ迷っていたときに、不意に声をかけてきた警官にそのまま微笑みかけて仕舞ったのは彼の落ち度だった。一年前、まだ十一歳になるには三ヶ月ほどたりない夏に、あの警官が話しかけてきたときも。六本木通りのガード下で、まるで困り果てたような顔で話しかけてきた彼を、Anh - 潤は道に迷っている人のように錯覚して仕舞ったのだが、今にして思えばそんなわけもなく、今や、若気の至りとして悔いられるしかなかった。もじもじとした彼が話しかけてきた瞬間に、Anh - 潤にとって、このあたりはいわば彼の地元には違いないのだから、澱みのない優しい日本語が彼の口から一気にこぼれ出た。十一年前の十月だという以外に、誕生日さえ知らない彼に身分証明書などあるはずもなく、住所さえ定まっていないのだから、当然、職質の警官に引きずられるように三人がかりで連れられていくAnh - 潤を、横目で見やるすれ違いざまの日本人たちのいぶかしげな目つきには、犯罪者を見る雰囲気がある。しかし、それは Anh - 潤にとって、日常的に慣れきった眼差しには違いない。その何度目かの拘束は施設の職員たちの監視の目をいよいよ強めさせたが、君は何人なの? と多くの人間が彼に言ったものだった。日本人だと答えると、一瞬、とがめるような視線を投げかけ、母親はベトナム人だというと、ハーフなの? と彼らは尋ねた。Anh - 潤は日本で生まれ、日本以外のどの国にも渡ったことがなく、日本語以外の言語など片言もしゃべれない。Anh - 潤にとって、国を聞かれれば日本と言う以外にすべはない。たとえ、日本国の戸籍謄本に名前など一切載っていないのもまた事実であったとしても。Anh - 潤の母もたいがいのものだった、と彼は思う。仕事でホー・チ・ミン市に立ち寄った日本人について、駆け落ちのようなかたちで父を追って日本に渡ってきた。詳細は、実は、よくは知らない。ベトナム語しかしゃべれない母の話など理解できなかったし、《おばあちゃん》の話も、そのたびに微妙に食い違うので、とはいえ、ほんの数年でどこかに逃げ出して仕舞った男を捜すわけでもなく、フィリピン人だと偽って、片言のタガログ語さえ話せないくせにフィリピン・パブで働いていたのだから、どうしようもない母親だったとも言えた。父の記憶などない。好んで父の話をした母は、何度もハンドルを廻すしぐさをしたので、バイク関係の仕事だったのかも知れない。単にバイクの運転がうまかっただけかも知れなければ、本田宋一郎が彼の実父だと言いたかったのかもしれなかった。Anh - 潤は、実質、彼が《おばあちゃん》と呼ぶ老婆に育てられたため、母のベトナム語が一切理解できない。母はときに気まぐれに、a… á… à… â… ă... とその音調言語の母音を発音して、何度か彼に教えようとしたが、一般的な日本人と同じで、まともに区別が付けられない Anh - 潤を、母は抱きしめ乍ら笑った。やさしい《おばあちゃん》が介護施設に引き取られて行ったとき、Anh - 潤はまるで世界が終わったような気がした。









千葉の海辺の安い鉄骨造アパートの隣人だった彼女を、博多在住の一人息子が老人介護施設に引き取ったのだが、それは Anh - 潤から彼女を奪おうとすることに他ならず、老人ばかりを収容した隔離施設にこれから拘束されるというのに、ときに、彼女は諦めの中で何かに妥協して仕舞ったような、不思議な笑顔で息子の善意を讃えさえするのを、Anh - 潤は、あなたはだまされているんだと叫びだしたくて、しかし、なぜか彼女のためにそれが出来ない、理不尽な気持ちに苛まれた。その一言を無理やり自分の中に封じ込めたまま、未だに、今や、あの冷たい壁の抜こうに拘束され、体中にヴィニールのチューブを突き刺されているかも知れない《おばあちゃん》を最後に駅まで見送ったときの、こぼれるような満面の笑顔を、彼は、忘れることが出来ない。彼女は、もういいわよ、早く帰りなさい、と何度も Anh - 潤を振り向き見、まだ行かないで、それは、もうすこしここにいて、そう言っているかのように、Anh - 潤の母は彼が九歳になる頃にはどこかへ行ってしまった。ある日の明け方、唐突に部屋に戻ってきたかと思うと、Anh - 潤を一度きつく抱きしめ、彼女は彼の両方の耳たぶの後ろにかわるがわる鼻をつけて匂いを思い切り吸い込んだあと、彼女は自分とは少し違うはずの、やわらかな湿度も持った体臭を確認し獲たのだが、何を言っているのか結局のところAnh - 潤には理解できないベトナム語で早口に何か言って、ときに泣きじゃくりさえし乍ら、そのわりにはてきぱきと手荷物だけまとめて出て行った。Anh - 潤は、もう二度と彼女と会うことはないのだろうとは気付いていたし、ずっと、いつかそうなる気がしていた記憶もある。もちろん、それは後付の記憶には違いないとしても、Anh - 潤は何も騒ぐこともなく部屋の隅に座ったまま出て行く彼女の後姿を見送った。母は、Anh - 潤にその故郷だという《サイゴン》の話をよくしたものだった。わずかばかり聞き取れる《サイゴン》と言う単語と、《デップ》という単語の数多くの繰り返しと、いかにも外国語と言った感じの、Sài Gòn… 意味の捉えられない …Đẹp 音声の、果てるともない無数の連なりの記憶に過ぎなかったにしても。三食世話をしてくれ、あなたはわたしの子どもよ、子ども、かわいい子どもなの、と口癖のように言ってくれたやさしい《おばあちゃん》が老人収容所に自分で荷物を持って連れ去られて行くと、Anh - 潤自身に市の別の強制収容所がその触手を伸ばしてくるのに時間はかからない。あの、胸を引き裂くような別れの胸の痛みの余韻すら解けない翌日に、くすんだ色の工場労働者のような制服に身を包んだ男と、まん丸に肥えた色の白い女が部屋のドアを叩き、あなたは一人でここに住んでるの? 必要以上に肌のつやのいい女のほうがそう言ったのを、Anh - 潤はしかし、たとえ残酷な拷問に苛まれたとしても《おばあちゃん》が密告するような人とも思えないので、どうしようもない不可解さと不安だけが彼を苛む。男のほうは黙ったまま、見事なまでに何も言わない。木田裕子は、虐待された猫が暗がりの中で何かを伺っているかのように見つめ返す、あまりにも思いつめた外人の少年の瞳の痛ましさに、なんということだ、と、とっさに目の前の過酷過ぎる現実を受け入れることさえできずに、老人介護施設の職員の通報のとおりに、確かにこの少年は一人でここに住んでいる。信じられないんですけど、と、その職員は言ったそうだ、外国人の子供が、一人で、暮らしているらしいんですが…。

「…え?」

「ええ。アパートの隣の部屋で。…と、そう言っているんですね、うちに入所したおばあちゃんが。ただ、…」見たところ十歳になるかならないかの、この少年の行く末の予想された悲惨さが、ぐちゃぐちゃに化けた画像のようになっていくつも頭の中に巣食い、かき乱し、一息つきながら、「大丈夫、」裕子は言った。きみは、もう、救われたのよ。「ちょっと待っててね。」裕子は極端にゆっくりと話しかける自分の猫なで声を聞き乍ら、不意にその声に無意味な戸惑いを覚え、「すぐに帰ってくるから。」彼女は自分の日本語が十分に通じているらしいのを知ると、少しだけ安心する。アパートの前の小さな公園の入り口で市役所の上司に相談の電話を入れながら、急に全く無口になってしまった養護施設の職員が、自分などそこにいないかのように、アパートの入り口から視線を離せないでいるのを裕子は知っているが、いずれにしても、と、彼女は、あの子は何があっても保護しなければならない。いくつもの複雑な手続き上の長い相談のさなかに、入り口から顔を覗かせた Anh - 潤は一瞬、彼らと視線が合ったことに悲鳴を上げそうになった。それを必死に咬み殺し、一瞬立ちつくしたあと、いきなり走って逃げ出す彼を、「ゆっくり追いかけて」追って走り出す職員の腕をつかんで、裕子は言った。彼女の耳打ちする早口な声を聞く。「どこかに、仲間でもいるのかも。」









捲いて仕舞おうと思ったが、いつまでも飛び掛って来ようとはしない背後の男の真意を測りかねて、Anh - 潤はむしろ彼が自分を見失わないだろう速度で、ときに不意の加速でからかってやりさえし乍ら、わざと大通りを歩いていく。喉の奥だけでAnh - 潤は笑い声を立て、僕は、他人に優しくしかできない、と彼はふと独(ひと)り語散(ごち)る。こんな夏の日に、喉も渇くだろうに、と、背後の《処刑人》のことを哀れにさえ思う。仕方ない。それが、あなたの仕事なんだ。なんという、と、Anh - 潤は思った、過酷で、哀れな人生なのか。Anh - 潤はついに見慣れた範囲を超えて、海辺の道路沿いを当てもなく歩き、日差しを避けようにも避け獲るものすらない大通りの、人気のないアスファルトの上を、そして、日の光がそれらを白く明滅させる。こんなところにまで潮の匂いが薄く漂ってきて、ここの、この匂いは、確かに、ここまで来ないと感じられないものだった、と、彼は記憶をまさぐってみ、あんなにも距離は近いはずなのに、Anh - 潤の家までは決して届いては来ないこの匂いに、Anh - 潤が懐かしさを感じているのはなぜなのだろう。少しは離れただけで、これらは失われて仕舞う、と、彼が思った瞬間に、疎らに通り過ぎる車の音と、ざわめき、つらなりあう物音の騒音の聞きなれた塊りのどこかからか、すべてをすり抜けたように波の音が耳にふれ続けていたことに気付き、「…あ、」、と、Anh - 潤は一瞬、小さく声を立てて仕舞う。彼の耳で、それは叫び声のように木魂して、立ち止まりさえすれば静かな波音はもっとよく聞こえるはずだった。わずらわしくなり始めた背後の男の存在に、Anh - 潤はそして、夏の太陽光の下で、あらゆるものが小さく白い反射光の固まりになって、その光の、明滅さえする光の群れの、アスファルトも、コンクリートも、鉄も、建物も、樹木も、海水さえも、最早何の差異もなく無数の光の連なりに他ならず、Anh - 潤は目をしばたたかせる。光。疲れ始めた両足が、光、立ち止まりそうになるのには、光が、もうずいぶん前から気付いている。光が、今、惰性が彼を歩かせ続けるのだが、歩く意味もなければ、立ち止まる意味もない。…光が。すぐ横を走り去ったバイクの吹かされたエンジン音が一瞬、一瞬ですべてをかき消し、すぐに、自分の呼吸音の向こうにあの海の音のピアニッシモが存在を取り戻すその正に一瞬にうずくまって座り込んだ少年を、山崎昇一は背後から抱きしめるようにして、「心配しないで、…」言った「もう、大丈夫だよ。」昇一は自分が、涙ぐみさえしていることにはすでに気付いていたが、一気に、彼のまぶたは今、涙をこぼす。集団生活を一度もしたことがないばかりか、同時に三人以上の人間を相手にしたことさえないAnh - 潤にとっては、仮収容された施設の中は、地獄のような、と言うよりは、不確かな恐怖感だけが四方から彼に何かを呼びかけ続ける、常なる予兆を孕んだ、ある、困難で、難解で、とてつもない空間だった。本当に単純に地獄であってくれたなら、と、Anh - 潤は、むき出しの恐怖がさまざまに接近するだけで出現しない、いわば連鎖する無数の空白地帯からの解放を、常に望んだ。むしろ、地獄の針が彼を突き刺し、地獄の業火が彼を焼き尽くしてくれさえすれば。母のことを、時にめずらしく思い出しさえし、彼女もこのような強制収容所に身柄拘束されてしまったのか、それとも遠くの国の誰かと、遠くの国に逃げおおせて、今では幸せに暮らしているのか?例えばスペインかポルトガルで。英雄ロナウドのように。Anh - 潤はむしろ後者のほうを選択して、目の前の机の上の、置きっぱなしのマグカップの横にそのあり獲べきフィクションを展開してみる。大金持ちの素敵な男性が彼女を愛しているのに違いない。もう子どもさえ生まれたのかも知れない。パーティに次ぐパーティの日々。もちろん、トイレにはウォシュレットがついている。最初はいやだったが、と、彼は肛門にその水の流れを記憶として体験する、もう、あれがないと駄目だ。綺麗な水流は彼の肛門付近の皮膚にはじかれ、流れ、散り、Anh - 潤は母の幸福を、願う前に既に確信した。《サイゴン》と言う地名を思い出したとき、施設の図書館の世界地図で探してはみたものの、そんな国など地図上に存在しないばかりか、戦争で四十年も前に消滅した場所らしいことを知ったとき、彼は自分の生まれ故郷が永遠に奪われたどうしようもない喪失感を感じた。行った事もない場所の記憶を、彼はいつの間にか思い出していた。熱帯の、南の、美しい都市。母はいったい、どこから来たのか?四十年以上も前に消滅したのなら、彼女だってそこで生きたことなどないはずだった。幻の都市《サイゴン》から来た母は、Anh - 潤の記憶の中から来たに違いない。かぐや姫の話さえ思い出す。彼女が男たちの焦がれた思い出に過ぎなかったことを、誰が否定できるだろう?僕はどこから来たの?と不意に見上げたAnh - 潤の両目に見つめられ、木村幸恵は口ごもる。「ぼくってさ、どこから来たの?」母の思い出から一瞬で醒めた後、「ぼくって、だれ?」木村はAnh - 潤を「ぼくって、どこへ行くの?」見つめた。戸惑いの表情が消え去らないままに幸恵は、ややあって、スマホで何かを検索し始めるのをAnh - 潤は見ていた。ちょっと、待ってね、じゅんくん、悲しい同情するような表情で、彼を伺うようにし乍ら、「…見て。」









幸恵がゴーギャンのその絵の画像を見せたときに、少年が見せた輝くような目の表情を、幸恵は忘れることができない。Anh - 潤は不細工な、茶色い、出来損ないの人間たちが、薄汚い色彩の中で原始時代の樹木らしきものをかぶりつきで食べている絵を、こんな悲しい風景などあっていいものかとさえ思ったが、これ、じゅんくんのふるさとの近くだよ、と微笑み乍ら言う幸恵に、とはいえ、そのふるさとになど行った事も見たこともない彼には何をも否定する余地はない。わたし、行ったことないけど、…どう?綺麗でしょう?《サイゴン》と言う不在の聖地が、こんな汚らしいところであってはいけない。これじゃ、あんまりだとAnh - 潤は泣きそうになるが、この薄汚れた人間の出来損ないがお前なのだという、あからさまな幸恵の差別意識には目を覆いたくなる。その瞬間、幸恵は目の前のAnh - 潤の存在さえ忘れて、幸恵は言った、「行って見たいな、わたしも。君が生まれたところに」と、憧れるような眼差しのうちに彼を捉え、Anh - 潤の頭をさえ撫ぜるのを、彼女のために意味もわからない悲しさを感じたAnh - 潤は、ただ、彼女のために、すごい、綺麗、と、心にもない言葉を不意に口にした。Anh - 潤はすべてわかっていた。あの《おばあちゃん》が、母が、そして例えばこの木村がどれほど悲しい存在なのか。彼が目にし、彼の目の前に現れるほとんどすべての人間が、不確かだが鮮明な、彼ら固有の悲しみをもっていて、Anh - 潤へ向けられた哀れみの眼差しのうちに、むしろ自分の悲しさ自体に憐憫しているに過ぎないことを、彼らは一切気付いてさえいない盲目のままに、いつもその不確かな悲しさ自体に埋没して仕舞うのを、あなたたちは気付いているか?あなたたちは常に、Anh - 潤に接近遭遇した瞬間にすれ違って仕舞い、そして彼ら自身からさえすれ違っていく。優しくされればさせるほど、優しくすればするほど、例えばいつかテレビで見たブラックホールのこっちと向こうのような極端な隔たりそのもののうちに取り残されて仕舞った感覚が、不意に、それがAnh - 潤の指先に触れて、Anh - 潤はその小さな指先に残った微かな痛みの、むずがゆい違和感を、指先からのレーザービームで駆逐する。指先は青色に光って、空間の中にそれらの痛みが粉々に砕けて飛散していくのを、Anh - 潤はその眼差しのうちに捕らえた。Anh - 潤はいつでも、既にすべてを知っていた。人間たちのあらゆる悲しみ、気高さ、美しさ、存在すべての固有の高貴さ、その匂いたつ立つ香気さえ。生得的な卑小さ、醜さ、頑固な不分明、それらをない交ぜにした、例えば世界とでも呼ぶほかない自分を含めたあらゆるものの輝き、予感のうちに捉えられた、永遠に不在で、ついにふれ獲ないきらめき、どうしようもない夏の光のきらめきも、その温度も、匂いも、冬の大気の中のかすかな温かさの存在、春という、実態をついに現さないはかない予感的な皮膚接触、…すべて。すべてと言われ獲るすべての事象のそのすべて。そしてこれらを、やがてすべて忘却してしまうに違いないことをさえ。大人という時間軸への失墜のうちに。神話の、あの美しいイカロスの墜落。空の中でへし折れた白銀の翼。Anh - 潤が必ずしも反抗的な少年だったとは言えない。夜、職員たちが寝静まった頃合いを見計らった職員室の募金箱の窃盗も、何度も図られた逃走劇も、それは彼が見出した風景の中に彼が繰り広げられたゲームのようなものであって、今、昼下がりのおだやかな光線の中にあって、彼は例えば教室の隅の空間に悪の帝王の刺客のおぞましい息吹を存在させている。名前さえまだない彼は滂沱のよだれをたらし乍ら、機械的な呼吸音を立て続けるが、夜の空間の中に目を覚ましたAnh - 潤は、いつもなら眠くて仕方ないはずなのに、彼の目は既に冴え切っていた。夜はとてつもなく暗いものだと思っていたAnh - 潤の認識を裏切って、目の前に存在する夜は、ほのかな、くっきりとあらゆるものの形態を浮かび上がらせる、その、内側から発光したような明るさに、Anh - 潤は我とわが目を疑わざるを獲ない。その明るんだ視界が彼の目を打つ。薄気味の悪い気配を実在させた《デンジャーポイント》を走って通り過ぎ、不意に出現する人の気配に身をかわす。時に息をひそめて、物陰に潜み、身を遮るものもないかわりに身を隠す場所さえなく、とはいえ、人の気配さえない大通りを、ゆっくりと、全身の感覚を研ぎ澄まし乍ら、Anh - 潤はこの逃走の感覚に明らかな陶酔感をさえ感じる。ぼくは猫だ、と思った。美しい、野生の雄猫。黒い、美しい毛に覆われて。人は僕のことを不吉なものを見るような目で見る。僕は黒猫だから。でも、僕は知っていた、僕はきみが見獲ない風景を、この黒い眼差しのうちに、見るのだ。このしずかで、しなやかで、繊細な体の動きで、夜の街を通り抜けていく。派手な音を立ててコカコーラを吐き出す自販機の無骨さに、こいつはまるで犬のようだと、舌打ちし、犬ほど騒音にまみれ、騒音を立てることでしか生息できない無様な生命体もめずらしい。壁面に背をつけ乍らそっと缶を取り出すが、ことりとも音を立てさせない自分の腕さばきのしなやかさに恍惚とする。Anh - 潤は満足した。次はもっとうまくやる。犬が派手な音を立てる前に、音速をさえ超えて手のひらのうちに、缶を奪い取って仕舞えばいい。犬を殺し去るために。ときにどこかの犬が彼に吠え立てるが、それは仕方のないことだ、彼らには知性すらないのだから。









明け方の少し前、駅の前の広場で駅が空くのを待っているAnh - 潤を、優しい、まだ私服のままの駅員が見咎めて、久村祐樹は困惑した。同情と嫌悪感をない交ぜにした久村に、まるで犯罪者を見るような眼差しを投げて拘束されたまま、警察官に引き渡されていくAnh - 潤を、確かに幼い無法者として、疎らな人の群れは認知するのだった。どんな崩壊家庭の子どもなんだ?幼い、おそらくまともに日本語さえ話せない外国人犯罪者予備軍。彼らはまだ眠い。シャッターを開けた駅に、疎らな人影が飲み込まれていく。警官の意図的な優しい眼差しに触れたとき、Anh - 潤の口の中はそれまでのあらゆる味覚を喪失し、血の気のない乾いた神経の痛みだけが、舌の上に残った。連れ戻されたAnh - 潤は命じられるままに、そしてスマイル・ルームという、丸っこいフォントの印刷された、施設のカウンセリングルームのドアを開けたとき、薄い暖色系の色彩でまとめられたこざっぱりした空間の中で、その少年が「星の王子様」の絵本を眺めているのを見たときに、この子には、すこしだけてこずるだろうと、早くも上原愛は気付いたのだった。児童カウンセリングをやっていれば、すぐに、感覚的にわかってしまうものだ。この子は、そうとう図太い。ボランティアでやっている収容孤児の定期的な慰問で、本をよく読む子にはある種のお決まりの面倒くささがあって、単にやんちゃで暴力的な問題児や、お決まりの不安や恐怖を顔の皮膚の下に隠した類の子どもたちよりも、こうしたすまし顔のインテリ君たちのほうがはるかにタチが悪い。もちろん、愛にとっては外国人を相手にするのは初めてなので、どうなるのかはわからない。実際、日本語が読めているのかどうかすらわかりはしない。世界一難しい言語の一つである日本語は、あまりも高級、高等すぎて、結局のところ、純粋な日本人以外には習得は難しいはずだ。本が好きなの? 愛が言うと、Anh - 潤はややあって、たぶん、と言った。この本、面白い? 全然。じゃ、どうして読んでるの? わたしは、と思う、今、彼女は、フレンドリーな英語教師が、と、会話するように、彼と会話している。そう思った。読めるの? 字。漢字、読める? 読めるけど。…ルビ、あるじゃん。そっか、そうだね、オッケー、ねぇ、読めるけど、ってことはさ、あんまり読めない? 読めても、意味がわからない? わかるけど。けど? 本に書いてあること、わかるのかな? わからないのかな? それは間違った質問だ、とAnh - 潤は思った。彼らは、なぜ、こんなにも知性のかけらをすら持たないのだろう? どうしてこんなにも、いともた易く知性は失われてしまうのだろう? わかるって? 何が? これがゾウを飲み込んだ蛇の絵に見えないゾウを飲み込んだ蛇の絵だと言うことは知っている。書いてあるから。けど、それって、違うでしょう? わかるって何? 知っていることと、わかっていることの違いは何? 同じなら、わかっているということは、実は、なにもわかってはいないことだということになる。わかる? 沈黙したままずっと表紙に目を落としままのAnh - 潤は、この少年は確かに、コミュニケーション能力に問題を抱えていると思わざるを獲ない。愛は、自分の質問が性急過ぎたかもしれないとも思うが、彼に問題があることは事実だ。…やっぱりね。思った。…君はなにに傷付いてるの? 言ってごらん。「好き?」愛は言った。「何が?」Anh - 潤が答えた。「これ、好き?」愛は言った。「好き」Anh - 潤が答えた。「面白い?」愛は言った。「面白くはありません」Anh - 潤が答え、彼は、窓ごしの陽光が「なんで?」愛の、のばされた「つまんないもん。童話って」やわらかな髪の毛に「でも、好きなの?」あたっているのを「好きは、好き」美しい、と思い「じゃ、どうしてよ?」その少し脱色された「だって、この人、」髪の毛に光の「この人って、だれ?」反射が束なって「…パイロットだから」ゆっくりと、時に「そうなの?」愛の体の、パイロットの癖に「空、飛ぶの」動きに合わせて、こんな本なんか書くなんて、激しく「きゅいーんって」ゆらめき「キューイーん?」変なやつ。乱れ、「たぶん」くずれ、「知らないけど」垂れ落ち、「きゅいーんって?」流れるように、「でも、死んじゃうの」明滅し「え? 死んじゃうの?」今、「だって、死んだんだもん」瞬くような「…死んじゃったの?」光の渦に「だって、ほら」幸恵は「写真、白黒じゃん?」Anh - 潤は表紙をあけ、サンテグジュペリの写真を見せた。「昔の人じゃん。生きてるわけないじゃん」彼の反抗の根拠は、と、愛は確信した、母と引き裂かれた悲しみなのだ。モノクロームの、過去の埋葬。Anh - 潤の、ひどいときには週ごとに繰り返される脱走に職員は手を焼き乍ら、それが結局のところ、当然問題になったAnh - 潤の国籍問題にかかわる裁判に触発されたものだったのかどうか、Anh - 潤自身にさえわからない。軽度の認知症を抱えた山本茂子という老婆からの情報で発覚したAnh - 潤問題は、どうしようもない難問だった。母親のフルネームくらいはわかっている。彼の住んでいたアパートの中の残留物の中からベトナムのIDカードのコピーが出てきたこともあって、ベトナム政府に問い合わせれば彼の親族の居場所くらいは突き止められるには違いないが、それとこれとは違う問題だった。強制送還されるにしても、ベトナム側にも国籍などなく、日本どころか、千葉県内とたまに脱出する渋谷駅周辺以外に、出たこともないAnh - 潤の周りに、瞬く間にボランティアの、善意の弁護団と支援者たちのサークルが形成され、今や、Anh - 潤は、彼自身がおもにSNSの内部で、匿名的で象徴的な有名人にさえなっていることくらいは気付いていた。顔も名前も公表されないままに、Anh - 潤の知らないところで、紙媒体さえ含めて、顔も名前もない実在情報が拡散されていく。他人事の、波音さえ立てない波紋の広がりを、ただ、自分のこととして、彼は黙って受け入れるしかない。何度も聞かれたものだ。家庭裁判所でも、その打ち合わせでも、あなたは何人ですか? その、何回目かの裁判で、あなたは、自分で、何人だと思いますか? 弁護団側が繰り返した質問に対して、その繰り返しの執拗さに、不意に耐えられずにAnh - 潤の感情は爆発して、流れ出した涙の中にしゃくりあげ乍ら、「ぼくは、日本人です!」と叫んだ彼の悲鳴のような声に、裁判官さえも、一瞬、目を伏せ、ややあって、涙ぐんだものだった。









ここに、傷ついた少年が、ありったけの悲惨を抱えて立ち尽くしている、彼らはそう思った。善意の声が彼をどこまでも拘束し、彼は、彼らに、自分があまりにも悲惨な存在であることを教え込まれざるを獲なかった。やさしい励ましと、同情の声が、悲しげな眼差しのうちに、彼自身が悲惨で不幸な人間以外ではあり獲ないことを強制し乍ら連なるだけ連なって、最早それは恐ろしいほどの轟音で鳴り響く怒号以外の何ものでもなかった。参考人喚問で、久しぶりに会った愛は言った。じゅんくん、と、愛は彼の目線に中腰になって、パイロットになるのが夢だったよね?彼女は言った。なれるといいね。ちゃんと、日本で。サンテグジュペリがパイロットだったからこそ彼を愛したには違いなくとも、すべてのパイロットを同じように愛するなどと言った覚えはなかった。あれからすぐに結婚して、施設からいなくなってしまった木村が、馬鹿にかさばるゴーギャンの画集をプレゼントしてくれたときも、はぐるページのすべての絵が、同じように醜く、穢い色の氾濫に過ぎないのを、放り出すわけにも行かないAnh - 潤はただ、綺麗だね、ありがとうと言った。ジョジョやナルトだってあんなにぐちゃぐちゃじゃない。むしろAnh - 潤は、その大きな、まるで奇形的に膨らんだ彼女のおなかのいびつさに目を取られたのだが、母親に似ればまだしも、父親に似たら、それは悲劇だ、なぜなら、彼女が最後の日に一度だけ施設に連れてきた彼は、《無理だよ》、とLINEを打ったあとで、宮本和也が、「先生は?」と言うのを愛は聞いた。NPOの事務的な会計担当。とっさに言うべき言葉失ったまま、「まず、第一に、」《何でよ?

どうして?》窓越しの陽光の、「あの少年は共同生活と言うのを、基本的にしたことがないわけです。」次第にくれていく斜めの日差しが《忙しいんだよ 今日》あたたかく差し込み「それこそ、ボク、キミの世界なんですね。」《それ、無理。》「…と、いうことは、」

「先生は、…」愛を振り向き見る窓際の宮本を、視線の中に見上げたまま、「いえ、違うんです。」

「何が? 何がですか? おっしゃることの、…

「まず、第一に、

《無理だから》

彼は」

言いあぐねえたまま愛は、《どうして?》

「傷ついています。」

《なんでよ?》そして、

「わかってますよ。」半ば叫び乍ら「だから、こうやって、尽力してる。あの子のために」宮本の視界を埋め尽くす、鮮やか過ぎる夕暮れの《ねぇ?》

「でも、出来ることには限度が、」

《ねぇってばー》「重要なのは、

彼の未来なんです。…わたしにとっては。

《嫌いになったの?》

あなたにとってどうか、わかりませんが。」

《むしろ、あきた系?》「…わかってますよ。《アキバ系ではあっても、秋田県出身ではない》先生に言われるまでもなく、」《ばか。飽きた系》そして愛は「目の前に」

「彼の」

「救済すべき」

「心の」

「少年が」

「問題です。」

「いるのを、」

「彼自身の、心の」

「放置できますか?」という愛を、宮本は聞き「…中が。」乍ら

「いいですか?」

「とはいえ」

「わたしの」

「彼の」

「意見として」

「未来の」

「あの子の」

「ことを考えてしまうと」

《どうしようもないよね》

「人生は」

《おねがい》

「このまま、…」

《何?》

《むしろ、

死んで》

「悲惨な」

《何だそれ?無理》

「重要なのは、」と断ち切って言った愛を、宮本は見向きもしないままに、《だって、今、すげー難しいところなの》「あの少年がこのまま」《何でよ》「日本で生きられたとして、」《どうしたー?》「最終的に」《おばさん、若干ヒスってる》《生きてるー?死んだー?》「彼が、彼の、…まぁ、」《やばっ マジ? うざ》「人種的な問題ですね」《てか》「要するに」《何と言うかさ、》「差別、ですが、

悲しいかな

彼は教育上の

事実として

遅れがあるのは

なんか絶望的に

事実であって

うざい

見たところ

顔つきであるとか

普通に

いじめの対象になりうる

うざすぎ

問題を

泣きたいくらいに

クリアすべき方法論を

うざくて

いまだに

仕方ない

わたしたちの側が、と言って、愛はスマホを内ポケットにしまう宮本を見やったが、臨月にも拘らずたった一人で八王子のマンションの中で、自分に苛立っている妻のささくれ立った気持ちが体臭ごと触れた気がして、宮本は言葉を失いそうになっていた。

「お忙しいみたいですね」と、嫌味を含んで言う愛に、嫌味かよ。「実は、妻が臨月で」と彼が言った瞬間に、愛はかたちを為さない笑顔らしい表情を顔に作って、笑おうにも笑いきれない愛の心情くらいは俺にだってわかんだよ「おめでたいじゃないですか。えー、やだ、知らなかったから。おめでたい、えー、早く帰ったげて、ねぇ」知ってる?ねぇ、子宮がん告知されたときの女の気持ち「すごい。えー、奥様、ねぇ、今、ひょっとして病院?」俺だって知ってる「いや、まだ、そこまでは」あなたの体のことくらい「えっ、じゃ、どこまで?」愛は声を立てて笑う「いや、まぁ」壁をよじ登って「自宅で…」着地したとき、最早Anh - 潤を見咎めるものなどいなかった。今度こそは成功するはずだ。Anh - 潤は渋谷を目指す。自由で、騒音にまみれた、親切な職質の警官たちが溢れる戒厳令の町、渋谷。Anh - 潤は電車に乗って、早く。もっと。特急の加速するスピードさえもがまだるっこしい。何も見ずにまっすぐ視線を投げていれば、もっと。見慣れた形態のすべては、もっと。すさまじい流れる速度の曲線そのものに、もっと。もっと早く、速度を、光さえ超えて、ただ、加速を。Lê Vặn Huệ レ・ヴァン・フェ と言う名のAnh - 潤の母は、韓国でそれなりの生活をしていないわけでもなかった。あんなにも騒いで、池内誠を脅しつけるようにして日本へ渡ってきてから、Bính Dương ビンジュン 市の家族との連絡は途絶えて仕舞っていたし、いまさらベトナムに帰る気にもならない。今にして思えば、なぜ、日本になど来てしまったのか、Lê Vặn Huệ は自分を理解できない。誠を、単に愛していたのだというしかない。Anh - 潤のことを忘れたことなど一度もない。けれども、彼ならちゃんとうまくやるはずだ。あそこは彼の生まれ育った日本なのだし、何より、彼はわたしの息子なのだから、と Lê Vặn Huệ は思う。確信に満ちて、英語すらしゃべれない Lê Vặn Huệ がハングルなど話せるわけがなく、結果的にはていのいい妾に落ちついて、しかし、それもまた人生だ、とは思うものの、すこし滑稽な気がした。一度でも他の女に手を出した男が、わたしだけが人生の中での唯一の例外であった例などないことなど、感覚的な真実として知ってさえいたが、彼女は、彼女自身がその幸福で例外的な例外であり獲たという確信を、持てないこともない。少なくとも、まだ彼女は例外のままだ。彼は毎日、夜の7時から9時までの二時間この小さなアパートに帰ってきては、家に帰っていく。誠よりはマシだ。日本に着たばかりの自分を。醒めない悪夢を振り払おうとするかのように、わけのわからない日本語と英語で追い払おうとしたのだから。金さえわたさずに。もしも金を差し出したら、Lê Vặn Huệ は、誠の目の前で金になど火をつけてやろうと思っていたのに、そんなお金を彼が届けることは、ついに最後までなかった。いずれにしても、かつて彼女はあの日本人を、世界そのものよりも愛したし、今、この韓国人を過去そのものよりも愛していた。韓国人の指先が彼女の髪を書き上げるたびに、信じられない奇跡のように見留め、Anh - 潤は渋谷が好きだった。もっとも、来たことがあるのは十回以下に過ぎない。綺麗すぎず、汚すぎもしないその都市は、何の解決をも何ものにも齎しはしないくせに居心地がよく、あらゆる音響が他人事のように木魂する色彩の氾濫の中を、Anh - 潤は自由に徘徊し、愛はAnh - 潤の小さな顔写真を手に取り乍ら、「あの子の最初の失敗は、最初の保護者なんですね、日本側の。」

「と言うと?」

「山本茂子という、あの、最初の通報者の、認知症のおばあちゃんですけど、軽度とはいえね、実際には障碍者ですから。介護する側ではなくて、介護される側にいるべき方が、彼の介護をしていたわけですから、何と言うか、日本社会の病巣の根源を見る気がしますね、残念ながら。社会全体の責任とはいえ、客観的に言って、だいたい、外国人の母親に逃げられた、戸籍の登記もされていない無国籍児を、あんなふうに放置しておけるだけで、むしろ普通の感覚じゃないななんて、すぐわかるでしょう?いや、もっとも、だから、介護が必要な障害者であって、わたしたちは手厚く介護しているわけなんですが」笑って、彼女は言った。「まあ、捨て猫を拾ってきたんじゃあるまいしね」宮本は愛を振り返り見て答えるが、彼女の、神経質に話すたびごとに上下される眉の動きに、或いは、これさえなければ美人のうちなのかも知れない、と思った。とはいえ、それは致命的な欠点に他ならない。「その、すみません、名前を失念しました、その痴呆症の」

「山本茂子」

「そう、山本さん、その方は、今、何を?」人間を、そんな風に見てはいけないとは思い乍らも、宮本は、医者はやがては患者に似てくるものだ、と思った。「有名な、介護施設に。すぐ近くですから、すぐに会えますよ。若い頃、当時のご主人のもとから、なにか、駆け落ちのようなことで、飛び出して、…彼女があの調子で何も言わないので、詳細は不明ですが、そういったようなことだったそうです。なので、まあ、少しけれんみのたっぷりの方ではあるんですが。まぁ、丸くなったほうなんだと思いますよ、あれで。息子さんは、今、九州でIT系の仕事をされているのかな? 息子さんがいらっしゃって、まぁ、ほんの数年前に交流が再開したようですが。立派な方ですよ。母はわたしや父を裏切ったのだから、自分が引き取ってやることはできない。それじゃあ、あんなに苦労した、死んだ父に申し訳がない。けれど、母が母であることは、どこをどうやっても、それはもう、変えようがないって。だから、介護費用だけは全額出しますからどうぞ母のことをよろしく頼む。面会など行かないが、そこはもう薄情は承知のことだから、薄情だなんだと好きに言ってもらってかまわない。ただ、金の面だけは、なんでもすぐに言ってくれ。お母さんが恥をかかないですむくらいの世話なら、すぐにさせてもらいますからと、ねぇ、筋が通ってらっしゃるでしょう?」いつものように雑居ビルの踊り場で夜を明かした早朝に、Anh - 潤は彼を拘束しようとた警官の追跡をかわして、ビルを駆け上る。東急のビルの躯体は、非常階段含めて古い。窓際のひさしをかいくぐって、ビル風に吹かれるが、もう行き止まりだった。そこで足場は尽きていて、背後の窓や、ベランダに、警官のみならず、ビルやショップの店員が無数の目を彼に向ける。すぐそば、窓の向こうからの物音や喚声が固まりになって、激しく、しかし、遠く、Anh - 潤の耳の下のほうに木魂している。むしろ、風の音を聞く。窓を開けて、おどおど手をためらいがちに差し伸べさえして、その手の群れはAnh - 潤を救い出そうとしていた。滑稽なほど切迫した表情を、その目の無数のつらなりは持つ。Anh - 潤はただ、わずらわしい。飛び降りて仕舞え、という自分の声を、どこかに聞いた一瞬、傍らの窓が音を立てて開かれ、今、差し伸べられた彼の手は空を切るだろう。Anh - 潤は一気に飛び上がって、感じられた、一瞬の体の静止。不意のこの無重力状態のあと、すべてが落下し始めるそのときに、足の向こうに見上げられた空が逆光の、あまりにも巨大な青さを湛えた。速度が急激に彼のすべてを包み、今、実感する、世界の、この、自分の、まったき実在を、今正に、鮮明に、なんという近さだ、なんという、まるで、この手にふれられるほどに、









2017.07.14.-.17.

Seno-Lê Ma





Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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