小説 op.1《蘭陵王》⑤ Lan Lăng Vương 仮面の美少年は、涙する。
一人、濡れた街路樹の群れの葉々がこまかい光の粒を乱反射させるにまかせ、Hồ は奇妙な、化け物の面をつけていた。笑っているのだ、と思った。その木彫りの面の下で。どこかで手に入れた、或いは従者の誰かが戯れに差し出したかも知れない、ゆがんだ、過剰なデフォルメの林邑風の古い化け物面を、もちろん、Hồ の表情はわたしにはわからない。それを取ったところで、私には、或いは誰にも、彼はいつも、表情豊かな、表情を伝えきれない美しい顔をしている。私は微笑み乍ら彼に歩み寄る。彼はゆっくりと背を向け、時々、わたしを振り向き見乍ら先導する。露店のカフェや、通り過ぎるバイクが時に彼を見咎めるが、何と言うこともない。角を曲がり、晴れ上がった空が太陽光をそのまま直射する。町を濡らした水滴はすぐに干上がるはずだった。再開発地の更地のフェンスの前に止めてあった2台のバイクの前で Hồ は立ち止まり、Thổ は彼のバイクに横すわりに座ったままだった。私は彼に何か声をかけようとするが、Thổ は一切、私になど目もくれない。縋りつくような無言で、なじるような女々しい表情を晒し、これ見よがしに Thổ は唯、Hồ を見つめる。Hồ がどけろ、と手で合図すると、諦めきれないように、ふらふらと私にバイクのキーを渡し、私の肩をやさしくたたき乍ら一瞥をくれたその目には、激しい憎悪が塊りになって、それは明らかに嫉妬に他ならない。今、Thổ は私を殺して殺しきって殺しぬいたとしても飽き足らないだろう。立ち去ろうとして立ち去り得ないまま、唯そこに立ち尽くしている Thổ を置き去りにして、Hồ はバイクを走らせる。Thổ のバイクにまたがって、私はそれを追う。戯れるような、のんびりとしたスピードで、ヘルメットもかぶらない Hồ の耳には木彫りの面越しの風の騒音が、いっぱいに騒ぎたち木魂しているに違いない。
開発途中の荒れた更地をいくつか通り過ぎ、道に迷ったように時にハンドルを切りあぐね乍ら進む。まだ正午には遠い、しかし急速に朝の気配を喪失し始めた空間の光が、力強い太陽光を湛え乍らあらゆるものを描き出す。瞬きする隙すらない。私の記憶の中で、断片的に、しかし、私はこの道を知っている。遠くに、揺らめく光を湛えた海を右手に、その海沿いの道をやがて折り曲がり、ややあってありふれた街路樹の、あの画家の家の前の通りで Hồ はバイクを止める。交通の全く途絶えた通りを横切り、Hồ はその家に入って行った。まるで自分の家のように。彼はいつでもそうだ、と私は思い出したものだった、いつも、自分の家を持たない Hồ は、いつでも。誰の家にでも、そこが自分の家であるかのように。その屋内がさまざまな記憶を喚起しようとし、明確な記憶など何も呼び覚まさないままに、それらは、そして、屋内には誰もいない。かつて人がいたことさえないかのように、しかし、皿や、テーブルや投げ出されたままのリモコンや、丁寧にカバーを掛けられたラップ・トップが、生活の痕跡を明確に示唆し乍らも、Hồ は階段をのぼり、私は後に続く。不意に、どうしようもない悲しみのような感情が、あいまいに、私の皮膚の下の神経をうずかせる。血管の中を氷で撫ぜたように、あの仏間で画家は死んでいた。あの時のように、この、通り沿いの窓の開け放たれた空間を風が時に乱し乍ら、画家は床の上で、そして画家は床の真ん中で、左腕を奇妙にへし折り乍ら、そして彼はうつぶせで、広げられた大股の、画家のその死体は周囲に血を撒き散らして死んでいる。気の抜けた既視感にさえ捉われ乍ら私は、Hồ がその木彫りの面越しに私を見ていることを知っている。ナイフなのか、包丁なのか、いずれにせよ刃物で何度も刺されたに違いないその死体は、半ば血を凝固させつつ、生の痕跡さえ喪失した完璧な静寂の中で、あらゆる動きを失っている。お前が?と私は思う。死体の傍らにひざまづいたままHồを見上げ、無言のうちに、君が? Hồ は何も答えず、私は彼が私を見てすらいないことを知っている。なぜ? 私は思う。そして、なぜ、こんなことになってしまったのか? こんな朝に。私が、Hồ の面に指先で触れるのを Hồ は拒もうともしない。むしろ、私は Hồ の顔に触れようとしたのかもしれない。遮った窓越しの日陰の穏やかな陽光の中で、i-pod から流しっぱなしにされた念仏は、相変わらず何を言っているのかわからない。音楽的で、しかも何の旋律性も感じさせない、絶え間のない呟きの音声が連なり、私が Hồ の面をはずすと、陽光に斜めに差され乍ら、Hồ の顔は真っ白なペンキで塗りたくられていた。この、表情豊かな何も語らない顔を塗りつぶし、沈黙させようとするかのように、何故? と私は思い、Hồ は何も答えず、私は、Hồ がしずかに涙を流しているのを見る。むしろ、激しく泣きじゃくってさえいるのだが、その
蘭陵王
涙さえも何か語るべき表情を持たず、この美しい表情を間歇的に引きつらせ乍ら、ただ、それは流れ落ちる。私は思い出す。一年ほど前の昼下がり、めずらしく私と妻の寝室を Hồ はノックした。足先で、しずかに叩いて鳴らしたのだった。妻は結婚式に行っていた。私がドアを開ければ、Hồ は自分の部屋であるかのように音もなく入ってくると、一度、小さくあくびをした後で振り向き、唐突にわたしの唇にキスし、声を立てて笑った。小さく。それが当然の行為であるかのように。天井近くに開けられた小さな通風孔の列が白んだ日差しをそそぎ、もうすぐ雨になることを暗示する。ダナン市の雨季の、お決まりの色彩と暗示。ベッドに横たわったままの私をまたぎ、Hồ は私の頬に触れる。...Em làm gì ? 何を 私は してるの? 言い、私の言葉を Sao vậy ? たぶん どうしたの? Hồ は聞き取れなかった。音調言語のそれらは正確な音調をなぞられずに唯の音声となって、誰にも触れられることなく消滅して行く。不意に思いついて Hồ は、小さく、短い笑い声を立て乍ら私の手を彼のそこに当てる。私は瞬き乍ら、そして短パンの中に差し込まれた私の指先は彼のそこに直接触れるものの、やわらかく薄い巻き毛の触感しか探り当てなかった。私は眉をひそめ、戸惑いを隠さないまま、ややあって、gái ? と ...女の子? 言う。Hồ は一度聞き取れない振りをした後で、もう一度笑い、ふたたびわたしを見つめ、trái と言った。…男の子だよ。まだ幼さを残した唇は押し当てられ、渇望にまかされるまま Hồ は私の衣服に手をかけ、剥ぎ取って行く。彼の息がかかり、皮膚が彼の体温を感じ取る。向こうで放し飼いにされた鶏が時にわななき、間歇的に羽音が立つ。私の身体は、あきらかな少女の身体を愛し乍ら、彼は私を愛していた。私を見つめ、Hồ はしばらくの沈黙の後で私にふたたび口付ける。あの時と同じように。私の唇を、彼の乾ききらないペンキが汚したかもしれない。かすかに。なぜ?わたしは思った。
画家の乾いた血は最早匂いさえ伝えない。君が? なぜ? チャイディ、と、Hồ は言った。cháy đi 火を放て? 私は、…chảy đi 消してしまえ、Hồ の唇に触れようとし乍ら、一瞬、戸惑い、…Chạy đi 逃げろ、Hồ の言った意味を探り当てる。何から? 私はバイクにまたがり、君からか?私はそれを、君のその美しい視線の先からか?走らせるが、君が逃がしはしないはずなのに?私は知っている、Hồ は昨日の夜、顔にペンキを塗るに違いない。彼は木彫りの面を撫ぜていた。ペンキを引っ張り出してくる前に、そんなことさえまだ思いつきさえしないままに、それは骨格の太いチャンバ[林邑]風の化け物か神か仏だかの面だが、それが何の動物をモティーフにしているのか、彼はまだ知らなかった。顔に彼がペンキを塗り終わったとき彼は立ち上がり、窓越しの風に顔を晒し、ペンキが乾いていくのを皮膚に感じた。彼は知っていた、彼が聞いたことのある日本の神話の暗殺者のように、風が何かの魂を彼に植え付けるかもしれなかった。すぐ近くのドラゴン・ブリッジの周辺の、夜毎のイベントの騒音が小さくかすかに耳に入ってくるに違いなかった。彼は面をつける。Thô の部屋のドアを足先で叩く。何の遠慮もなしに無造作にドアは開いたに違いないが、鍵などかけることなどなかった。いつものように。やわらかい月の光が降り、離れた先の街灯の向こうは町の照明で朱に染まっている。Thô は不意に驚きの息を漏らしていた。唐突に現れた仮面の小さな存在に、なぜ?と、朱の光源の中をいくつものバイクが通り過ぎていることは知っている。その音は連なりあうままに聞こえていた。彼はややあって、その音は聞こえ続けていた。小さく笑い、奇妙なしぐさで踊って見せ乍ら、その音は聞こえ続けていたのだった。彼は声を立てて、笑った ông Thô は凍りついたように動かない。何故? Thồ は思い出したように自らの唇を指先で撫ぜ、なぜ? 撫ぜ、押しつぶして確認するように、 Hồ はペンキが乾いたかどうか手で確かめている。風がやわらかく、決して暑くはなかった。Hồ は不意に、面をはずしていた。乾ききったペンキが微かに罅割れ声を発さないまま口を広げて目を剥く。Thô の体が崩れ落ちたのに気付いたとき、すこしの衝撃が、 しかし確実に Thô の老いさらばえた心臓を打ち砕く。使い古され、干からびかけた心臓を。なぜ? ささやかな遊びに過ぎなかったはずのそれがもたらした結果を、訝しげに眺め乍ら Hồ は結局のところ自分が何をしたのか確認しなければならなかった。自分は人を殺してしまったのだろうか? Hồ は思っている。なぜ? 猫は一度も鼠を殺したことがない。なぜ?例えば、と彼は思った、猫の頭を撫ぜ乍ら、彼が殺すべき人間は彼ではなかったはずだ、と彼は思った。例えば、と、誰を? 例えば、彼は思った、彼は、彼を殺すべきはずだった、と彼は思った、彼は、彼の、愛の対象、なのかどうか彼自身にも未だ定かではなかったが、にもかかわらず確実に、そして愛しい彼を、あの、彼を、あんなに不安にさせたには違いないと彼が思ったはずの彼のような存在を、彼は、彼が殺すべきなのでは彼ではなく、君は殺してしまった、彼の、君が誰も殺さなかったその時に、猫がかつて一匹の鼠も殺せなかったというのならば。夜はまだ浅い。どこかで誰かが始めた飲み会が、その彼の家の前の路面に出されたプラスティックのテーブルを囲んでまばらに繰り広げられている音がする。
Hồ に呼び出された Anh は、不意の僥倖に目をしばたたかせ乍ら Thô の家の前にいつものようにバイクを止め、Hồ を待っていた。美しい Hồ に、Anh はまだ逆らうすべを知らない。彼がキーを半ばふんだくるようにし、Anh を置き去りにしたまま走り出すバイクを、Anh は少しの失望とともに見送るが、やがて Anh が Hồ に加えた深刻な暴力がこの少女の身体を打ち砕いたものの、今、彼は Hồ に惜しみなく与えなければならなかった。残酷なまでの強姦の果てに加えられた暴力が積み木を一気に崩し果てるように生命活動を破綻させ、そのとき、そして、しかし、まだ Anh は満足だった。例え奇妙な面をつけたままの Hồ が Anh に見向きもしなかったとしても。彼は街路樹をよじ登って3階のベランダに下りた。Hồ は面越しに彼の息が自分の耳の中に反響するのを聞く。Hồ が開け放たれたままの窓から室内に入り込んだとき、彼の画家に違いない男は部屋の隅に広げたマットレスの上に横たわっていたのを、Hồ は見る。気付いていた。彼は耳を凝らさなければ聞き取れないほどの寝息を立てていた。何度も研いで使われたために、いつか起こした刃こぼれさえ鋭利に研がれた包丁を、Hồ はゆっくりと彼の画家の喉もとに当てる。彼は知っている。このあたりでは有名でなくもないこの画家のことくらいは。目の前の彼は、「奇跡の画家」どころか、唯の不具者に過ぎず、彼はなぜ彼が彼のためにこんなことまでしているのか、明確な根拠の記憶さえ奪われてしまう。彼は、彼の喉もとに押し当てられたナイフに一気に力をこめると、それは彼の皮膚を大きくへこませた後、迸った鮮血から彼は身を背けた。さまざまな色彩、さまざまな形態が形作るあの無数の白のグラデーションは、今、淡い暗闇の中で唯の白い壁の残像にすぎない。この身体が、細かな、或いは間歇的に大きな痙攣を起こし続ける間、何度も彼を刺し続けるが、Anhは今、自分が何をしているのかさえ知らないんだ、と Hồ は彼の焦り、追い詰められた表情を見つめながら最期の時に思ったことを、まだ知らないままに、画家の死は Thô のそれに比べて明らかに鮮やかさを欠いている。そう、Hồ は思った。まだ、死ねないのだろうか? もう、死んだのだろうか? まだ、死なないのだろうか? いつ? まだ? Anh は、いつ?もう、まだ死ななかったそれがついに死にかけ乍らまだ、いつ?諦めたように、或いは、Hồ は自分のこの行為自体に飽き果てて、Khác... …渇いた、と最期のときに Hồ が呟くのを、彼はナイフの刃を彼のまだ痙攣している衣服の柔らかいところで拭き取り、バイクに乗ると、海沿いの道の夜の風の涼しさが Hồ の全身を包む。私は知っている。Hồ 、とわたしは思う。Hồ ? そして私は思い出すのだった。確かに、今まで一度だって Hồ の泣き顔など見たことはなかったのだった。
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