流波 rūpa ……詩と小説084・流波 rūpa 癡多 citta ver.1.01 //…見て/なにを?/見ていた/いつ?


以下、一部に暴力的あるいは露骨な描写を含みます。ご了承の上、お読みすすめください。



わたしを追い越すようにして傍らを、「…ね」と。

   夢見た幻

      恥ずかしい?

すり抜け「…ね、」立ち止まりかけ「…ね、」あるいは「…ね、」と、振り向きかけて右。

東急本店を出て、すぐさまに右に

   走った

折れた。走った。不意に、瑠璃は。まるで

   なに?

やるきもなく雲の上を

   はるかな鳥。だから

歩くように。戯れて

   その影

緩慢に。気乘りしないまま?…いずれにせよ、それは唐突な逃走。知っていた。そうする、と。瑠璃はかならず、そうする、と(——その時も?それがまさに)わたしは、前に、(いまに)…なぜ?右折の前(いまにこそ他ならなかったその)すでに知っていた。彼女が(その時にも?)だからその隱されたことのなにもない気配。

それはなに?

逃げる。…どこが感じるのだろう?瑠璃は、わたしの、——どこが気配を?眼の前から小走りに、気配を。

   遠ざかる、それは

例えばあくまでも眼差しが?

   女。振り返り、ふと

あくまでも鼻孔が?

   たちどまりかけ、笑うそれは

あくまでも指先が?

   女。吐く。息、なぜか

或は毛孔が?

   必要以上にあららいだそれは

或は爪の先、時には付けねが?

   女。みだれ。その

或は毛根、それでなければ毛先の、痛んだ分かれ目。

   髮のみだれたそれは

或は重力を無きものにして直立する産毛の一本一本(——自由)が(重力からの全き)?

   女。指先。あるいは

心臓の筋肉?

   爪も。なぜ?たぶん、まだ

骨髄?

   冷たい儘の、冷え性の

腎臓の底?

   指にふるえ。なぜ?それは

譬えば性器?

   女。まばたきかけて

肛門が?

   やめたのは、それは

尾骶骨の彎曲が?

   ふと飲み込んだ唾に依る阻害。それは

神経の筋に、いまだ未発見のやわらかな微細な触手が?

   女。側頭部に、なぜ?その

知っていた、所詮、不意の戯れ、…要するに、

   浮きでた血管。それは

無意識的な、とでも?だから思い付きでさえない。瑠璃の不意の逃走は、終にその意味など瑠璃にさえ知られることなかったか。そして追い立てられた。追いかけるわたしに、そして衝動。瑠璃は、むしろもはや他人のそれにひとしかった衝動に、切実な?イラつく?もはや自分のとは云えない瑠璃の、彼女を駆り立てた、それらだれかの衝動、切迫した、——なぜ?なにもかもそうでなければならないあからさまさで追い詰める、それは情熱?

無防備な。

だれの?

あるいは駆り立てられた自分を知る瑠璃を瑠璃の自分と呼ぶことの方こそ顚倒だったに違いない。むしろ、眼醒めている瑠璃の意識の方が、投げ捨てられていた殻にすぎないなら。瑠璃の自分は常に、瑠璃の眼の前には姿を表さない。だれもがそうであるように。すべての、知的生命体のなすべき体験として。なら、意識の存在しない樹木と瑠璃のそのものにはなんの差異もない。

東急に添って走って、平坦な路を、人にすれ違い、追い越し、瑠璃は時にだれかに、…女。

女?

沙羅?

瑠璃。

それは瑠璃。

頸筋を総て曝した短髮、ぶつかりそうにあやうく、聲。

聲?

沙羅?

瑠璃。

それは瑠璃。

ころげそうにあやうく、あわてるだれかのだれをも返り見もしない、不遜。

どっちの?

沙羅?

瑠璃?

どちらの女の?…それとも男の?…不意に路を曲がって瑠璃は松濤に上がった。

その、ゆるい坂を(…傾斜。坂とさえ呼べない)立ち止まり、時に振り返って(だから傾斜。それは)確認し、わたしを(やがてはっきり坂道になりながら)…來てる?

と、「追いかけてきてるよね?」と、…なぜ?

ひらく、唇。

昏い、…來てる?

と、「追いかけてきてるよね?」と、振り返ればすべり墜ちそうに、ややななめに後ろ向きの「なにやってんの?」笑った。

わたしは。

   生きてる?

      心地よい

なにも、ひと言も聲のない

   だれか

      だから静寂

瑠璃に。

   まだ

      そこは

おいかけっこ。

   生きてる?

      廃墟のような?

あるいは、かくれんぼ?

   だれか

      そこは

丸見えの電柱に、

   ここ

      だから静寂

隱れたりしたから。あくまで瑠璃が。ひとりで。彼女だけ。瑠璃だけで。

もう、松濤公園を過ぎるころにはわたしはすでに飽きていた。瑠璃は後ろ向きで、つまづきそうになりながらそれでも逃げた。追いかけて遣る必然も無かった。瑠璃が追いかけられることをいまさら求めつづけている確信もなかった。

あるいは、最初から?

気付いた。

むしろ、わたしが後ろを向いて帰りはじめれば瑠璃は満足だったに違いない。その逃走のなしくずしの終焉。

ないし、中断?

再会される可能性はなくとも?もう、廃人同然であるべきだろう、と思った。

確信として。

わたしは、やがて沙羅の肌の白濁と褐色から眼を泳がせて、窓の向こうに広がっていた他人ごとの海、その青(…そんなもの)を眼差しに(そんな色彩など)壊れていた、≪流沙≫は(むしろ…白)もう神経系さえ破綻させ(しろでさえない)だから(赤裸々な)もはや最後の(…なに?)触覚も(煌めき)失って、もとから(光を無数に)すでに存在しなかった視覚と(数知れず散らす)嗅覚と(粉砕きららの散乱)音声と(かたちを)だからかろうじて(留める瞬間さえも無く)しだいに(粉砕きららの)希薄になりつづける聽覺だけのこしてもう≪流沙≫はすでに廃人だった。

パンデミックの直前から。

アートマンとサンサーラの国の大量死の前には

   どこ?…それ

もう。ジョン・ウェインがマグカップでコーヒーを飲んだ国の壊滅状況の前には

   それ、

もう。ヴィヴァルディの閃光と眩みの国の悲惨の前には

   どこ?…それ

もう。ブラジルの農夫が生まれてはじめて武漢の名を

   どこ?

知った日の前にさえも。≪流沙≫にはもとから手もなかったし、足もなかった。だから、その日ふいに昏睡から醒めた≪流沙≫はそれの妹の(もう死んでしまっていたのだった。≪流沙≫はその死の事実にさえ、またそもそも死という事象の存在にさえ気付かなかったが、最初の協力者だった妹は、十年前にリンパ腺に巣食うった癌細胞の繁殖のせいで)娘に(もう、その死の後に何度も見た写真によってしか母の形姿を想起できない)託す。…なにを?

   そう、それは

      翳り

それの音楽を?

   はかないほどに

      ふれていた

魂の音楽を?

   あたたかな日差し

      頸すじと肩に

淨化の音楽を?

   その日、あなたの

      あなたに、その日

純粋無垢な彼岸の音楽を?

   肩と頸すじに

      やわらかな影

天国の音楽を?

   ふれていた

      はかないほどに

彼方にきらめく無色透明な音楽を?

   光り

      そう、それは

まさか。

≪流沙≫にとってそれは響きでさえ無かったのに?言葉以前の、むしろ、言葉も無く、吐かれた息にささやかれた気がしたかの、しかもそんな気付きさえない、そんな——偶然?

現実的な、視野において見出そう、……だから、それは奇蹟的な偶然。今年、十四歳になる娘は、九鬼の影響でパソコンで音楽を作ったりしている。そのうち配信しようか、と。あるいは動画サイトに?彼女は知ってる、彼女がおもに身の回りの世話を託された≪おじさん≫がかつて≪流沙≫と呼ばれた存在だということを。九鬼になんども≪おじさん≫の恐るべき才能の話は聞いていた。そしてその才能は君のお母さんの死とともに、もう永遠に奪われてしまった、と、——「燃え尽きたんだ、」たぶん…と、

「あざやかに響いて、あまりにもあざやかに、そしてあの時に」

ひとり燃え尽きた顏を満足げにさらす、夢見る気配の九鬼を笑う。

彼女は、けっして表情には出さずに。

むしろ、彼女が確信していたのは、≪流沙≫とは実は亡き母そのひとだったのだろう、ということ。彼女は≪流沙≫の作曲法など知らない。九鬼だって知りはしないのだった。母の、最初の恋人だった九鬼は、いつかの同窓会の時に不意に母に声を駈けられた、と言った、——ちょと、オフの時、遇えない?

≪あす・ゆめ≫の解散のあとで、時間なら——いいよ。…別に。積もって積り永久凍土になるほどもてあましていた九鬼は、翌日にその家に行った。母はリビングでのお茶のあと、だから、ささやく、「遇ってほしい人、いる」

「だれ?」≪流沙≫だった。

通された一階の奧、しかし裏の木立ちの氾濫のせいでいつも、晴れてさえもあわい、悲しいくらいにやさしい光りだけのさしこむいごこちのいい部屋。その心地よさには異質に橫たわるそれを見た。

九鬼は聞く、…この人、…ね?お兄さん、…なの、と、…ね?「わたしの兄」

知ってるよね?

慥かに。九鬼は思い出していた。中学の時、話にだけは聞いていた。先天的な畸形の重度の障碍者が風香の家にはいるのだ、と。…きもち、わるいぜ。年齢も性別も、九鬼は…ばけもん、だぜ。知らない。「どうしたの?此の…」

「兄?」

「なに?」

意識などあるとは思えない無様な肉の塊りを、眼を逸らす気にもなれずに九鬼はだから、響き。

そして、風香に通された彼女の部屋で聞いていた。九鬼は、それの作曲したものだと謂う——聞いて。音響を。——ぜひ、…

「…ん?」

…ね?

「…ん、」

…いちど、…だけ、

「…ん、」

…ね?

ピアノの爲の曲だった、それは。あの最初の≪流沙≫は。もとも、≪流沙≫がほんとうにピアノを想定していたのかどうか、それは知りようがない。あるいは、例のフーガの技法にひとしい、演奏法不明の?だから、その

   ただ、好きって?

      ただ、赦すように——だれを?

本当ははその

   そう云えば?

      そんなふうに。…それは可能?

本当の音色のない?

   まだ、好きって?

      そんな愛、その

ともかく、その家には風香の子供のころから引きつづけた、ピアノ以外にはなかった。

九鬼は絶句する、これ…と「なに?これ、ホントにあの化けものが書いたの?」と、それ。その思わずの失言を風香は(気付かない。九鬼は、だから)笑んで、わずかな(その失言の存在。気付かない。)仕草にさえ(九鬼は、だから)とがめだても曝さないまま(その微妙な)厭う(風香のさらした眼差しの意味)。

一般公表を前提として九鬼がそれに手を加え始めるのを風香は止めはしなかった。そしてもはや原型をとどめない加工を、時に——再創造?聞かされたそれらのデモが纏いはじめるのをも風香は、気にも(…敢えて?)止めなかった(…なぜ?)。

霞美は知る、それが≪流沙≫の

   すべては、もう

      いつから?ぼくらが

そもそものあらましなら、普通に考えれば

   ぜんぶ、のこらず

      まともに、目を

それは母の創作に過ぎないはずだった、と、

   あげたもの。あなたに

      ひらかなくなって

あの、写真の中の母、九鬼の語る

   すべては、もう

      いつから?ぼくらが

風香ちゃん、の。いつ思ったというでもなくて、いつ気付いたというでもなくて、謂わば薰りが、いつのまにかに布地に沁みついていたように、いつかすでに、もうすでに、だからもう、それは風香に常識だった。九鬼が時に訪れ、…預かった気がして、と。

霞美ちゃんを、あいつから預かっちゃった気がして、と、…さ。…ね?…ごめんね。…あるいは、九鬼は風香と、同級生以上の関係を?霞美はそして、九鬼がいつも別々に語る≪流沙≫と≪風香≫と、それぞれの思い出ばなしが、それらのどれだけで真実で、どれだけで虛構で、どれだけで意図もなかった創作で、幾許で意図的な虛僞で、幾許で敢えて言わなかった沈黙(…だから、)を、ひそませていたのか、いずれにせよ(秘密。だから)常にふたりの人物の(あなたには、いつでも)べつべつの形姿としてしか(秘密。だから)語られないことに、霞美は(いちども、ついに)むしろ、立ち眩みのするに似た(語られなかった)混乱を(こころの)ひそかに(想い)感じた。

ふたりの形姿は結局はひとりの人間から薰る、しずかに錯乱をよぶ煙りの幻惑に想えた。

その日、夏のはじめ、明日から中学が夏休みに入る日に、いつ?

それは。…不意のささやき、もう、おわっちゃったのかって、と、朝日。

学校に行く前に、寝汗をふいてやらなければ湿疹を大量に発生させる≪おじさん≫に振り向きざま、ふるむきおわりもせずに、もう、と、——まばたく。その朝日に霞美は、≪おじさん≫の爛れた肌から顔をあげた、斜めの光りにおわっちゃったかなって、おもった、と、ほほ笑みかけて、汗のにおいをふたたび嗅いだ。いつまで、と、霞美はひそかに、ほほ笑みかけて?もう何度目かにも、もう、ぼくら、おわっちゃったかなってと、瑠璃の、その、…悲しみ?まさか、悲しみなどなにもないただ、明るすぎるほどに明るい屈託のない声に「ぼくら?」

「おわっちゃった?」それははじめて瑠璃を抱いた——抱かれた?年上の、はるかに年増の、男狂いの、「何?」…なに云ってるの?ささやきかけた聲のかわりに、わたしは瑠璃の爲にだけほほ笑んでやり、朝日。眠りから覚めた朝日ではなくて、その頃の瑠璃とわたしがいつも、毎日寢るまえに見ていた、これから眠り落ちようとする、そんな希薄な、魅力のない、疲れた、褪せて白けた光り。思った、わたしは、はじめて聞いた、と、瑠璃のその≪ぼく≫の一人称を。

意識?

そう、思うしかなかった。霞美のまなざしのまっすぐ向こうに、あお向けた≪おじさん≫は、顯きらかにその白い、淡い、あると謂えばある虹彩の殘骸を、そこにかすかにうごかす。

意識?

それは、それが十年もの沈黙を超えて、ふたたび見せはじめたそれの固有の意識だったのかもしれない。

あるいは、はじめて、…それが此の世界に生まれはじめて見せた反応だったのかもしれない。

あるいは、毎日くりかえされていたその微細な反応に、霞美がはじめて気付いたのかも知れない。

あるいは風香のすでによく知っていた反応だったのかもしれず、あるいは霞美だけがはじめて見い出した反応だったんのかもしれず、≪流沙≫、と。

考えられるのは、≪流沙≫の息吹きという以外にはなかった。その瞬間の霞美にとっては。そこに、≪流沙≫が目覚めている、と。それがどのように聞き取るべき音声なのかは、霞美には想像もできない。どのように解読されるべき暗号、どのように感じられるべき手ざわりなのかも。

ゆらぐ、たしかに纔かにゆらぐ白い虹彩のにぶいゆらぎ。

思う、霞美は、そこに蘇ったのだ、と。

なにが?

母が、風香、つまりは≪流沙≫が。

そのすべなどなにも知らないままに、それが≪流沙≫である以上、風香のするべきことは一つだけだった。

ピアノを、と。

だから霞美がその巨体の爲に車椅子を用意しはじめた時に、同居する母の妹が風香の名を呼んだ。階下から。いそがないともう、遅刻する時間だよ、と。一度も、だれの恋人にもならな(…れ、な)かった女の、やさしい、笑うようないら立ちの聲。

その午後の帰宅時から、霞美と≪おじさん≫の、あるいは、そのふたりと架空のまま推される≪流沙≫によるトリオの、共作の時間がはじまった。ピアノ橫に車椅子をおいて、そしてピアノを鳴らし、——聞こえるのだろうか?

   聞き取るときには

      いつでも

まだ?

   もう、すでに

      耳に聞くのは







Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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