蚊頭囉岐王——小説46
以下、一部に暴力的な描写を含みます。ご了承の上、お読みすすめください。
肌に。
唾液の匂い。
殘されてそして忘れさられた温度。
あなたは嗅ぎさえもしなかった。
あなたがいない間にもそれ。
部屋の中に。
匂い立ち続けた部屋の白百合の。
香る。
霞草の。
色だけが薰る。
鼻をつかづけてさえも。
鼻にかおりなどさらさない儘に。
白く烟り立ち
かく聞きゝ比迦留が父親すでに失せにき是レ比迦留六歳の時にはそノ母とも俱にも比哿琉を捨テたるが故なりき故レその比登の生死比哿琉は知らザりき且つはその母すでに失せにき是レ比哿琉十六ノ時にはその母を捨てタるが故なりき故レ比哿琉爾にひとり娑娑彌氣囉玖
必然性などない
ひかりのうちにも
だれかの子供でなければならない
知ってる?
その必然など
樹木はその葉で息をする
親のあるべき
ひかりのうちにも
理由などない
知ってる?
例えばわたしは
どしゃぶりの雨の中にさえ
例えばアメーバのように
眞っ白い
自分を引き裂き
雪降る晝も
わたしは生まれた
その朝にさえも
例えばわたしはアメーバのように
樹木はその葉で息をする
或は原始のあたゝかな雨の中に
知ってる?
硫黄の雨の中にさえも
樹木の䕃に
メタンの薰った雨のうちにさえ
ゆれる葉の
自分を引き裂き
枝の影にも
わたしは生まれた
蝶は震えた
ひとりで生まれた
その翅
かくて比迦流
粉撒きながらも
爾に都儛耶氣良玖
あなたに溺れたわけじゃなかった。
一度だって。
十歳近くも年下の。
少年の肌にも。
匂う肌にも。
香る髪にも。
ゆれる心。
音もなく。
震える心。
それにさえも。
あなたに溺れたわけじゃなかった。
わたしの醒めた心のまゝに。
わたしの冴えた心のまゝに。
わたしは知った。
愛しながらも。
その躰を。
受け止めながら。
その乳色の雫。
幼い雫。
匂う。
悲しみは醒めた。
音もなく瞼を開いた朝のひかりにも。
悲しみは冴えた。
しずかに咬みつくように。
肌に。
産毛にさえも。
前ぶれもなく咬みつき。
血の雫もなく。
痛みだけを迸らせて。
わたしは囓む。
悲しみを。
悲しみに咬まれ。
悲しみを齕む。
五月そノ一日比哿琉明けにその時瞼を開けばカーテンの切れ目朝ノ光りの差シ込むをは知らザる儘見たルは梅の花の色に染まりたる荒れ野なりき地も空モもノのカタチその影だにモことごトく梅の花の色に染まりタりき季を思うに未だ冬の日ならムやといぶかるとモなくに無數の鳥が啼き聲耳に響きタりキ故レ瞼ひらきタるに鳥等姿なくて梅の花ノ色の荒れ野のみ擴がる故レ思へらく眼差シの後ろに鳥等羽搏けるやと故レ背後にとヨむ鳥らの羽搏きの音を聞きゝ時にまバたく刹那刹那の暗闇に比哿琉は見き厥レ雪の如降る光ル雫の群れなりき開きたる目は未だ荒レ野風もなクてどこまでも擴がレるをのみ見きイキモノの気配だにもナしまシて人の氣配など在りうる筈もなシ刹那刹那の暗闇あざやかにも眞白の光ル雫に噎せ返りき爾に氣付ケらく今まさに躬づからが体躯溶ける雪の如解けハじめ葉に流れる露の如狀ち失ヒて軈而躬づからがカたち解け流れて失せんトするを見れば荒レ野に甘やぐ芳香のみ馨りたチ且つは白い雫ノ群れに甘やぐ芳香のみ馨りタちその馨り比迦留が未だ一度だに嗅ぎタることなかりき馨りなり故レこコろ恠しみ始んとするル背後鳥の羽搏きの向カうに女の笑ふ聲を聞きゝ爾に比哿琉既く知りたルは厥レ躬づからが喉の立てタる聲に他ならずと故レ比哿琉はジめて躬づからを見タる思ヒを觀じき且つは初めて躬づカらが聲を聞きたる思ヒを觀ジき且つはハじめて躬づからに出会いたるを觀じテ返り見ムとせば爾に比哿琉寢臺に枕を見傍らに人ノ頸筋の肌を見キかくテ見て覩たレば厥レ靜かに寢息づく斗璃摩娑が頸なりキ故レ比哿琉思へらくたゞ夢を見キと故レ爾に娑娑彌氣囉玖
その名殘りのうちに
痛んだ
夢に
骨が
名殘りなど
骨の内側が
殘しもしなかった夢の畢
痛んだ
その名殘りのうちに
あざやかに
知っていた
なぜ?
すでに
理由も無く
わたしはあなたの子供を産むことを
理由など兆しもせずに
かくて斗璃摩娑
骨は
爾に都儛耶氣良玖
嘔吐するあなたを見た。
その五月にも。
あるいはその六月にも。
おそらくはその七月にも見た筈だった。
嘔吐するあなたを。
あるいはいつものように。
あなたにとって元から食うとは吐くためのたゞの動機に過ぎなかったから。
髙鳴る胸に。
血が温度をもつ。
血走る喉に。
あなたはひとりで嘔吐する。
何度も見ていた。
嘔吐するあなたを。
その五月の夕方。
店に出かける前に吐く。
便器から顏を上げた耀は思わず笑んだ。
なぜ?
言った。
耀の口は。
その胃液の味を咬んだ喉は。
——できた。
笑った。
つぶやくように云って刹那の沈默のあとに。
ひとりで。
あなたは。
だからあなたはいつでもひとりでいた。
あなたは終にひとりしかいなかったから。
故レ比哿琉此ノ時に登唎摩娑と俱なりテ娑娑彌氣囉玖
感じられない
墮せと?
まだイノチなど
俺が云ったら?
感じられない
あなたは泣くだろうか?
その鼓動など
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