多香鳥幸謌、附眞夜羽王轉生——小説41


以下、一部に暴力的な描写を含みます。ご了承の上、お読みすすめください。



ここではことごくテーブル会計である。

12000ドン(60円程度)のコーヒー一杯に15000ドン(75円程度)渡した。

おつりはなかった。

わたしは自分の喉の奥に、すこしだけ笑った。

女の同僚と笑うドー・ティ・ヴィンを手招きした。ドー・ティ・ヴィンはにこつきながら近寄った。彼にとってカモだったから?私は笑んだ。紙幣を指に数えるのをなぞった、彼等の金銭のジェスチャーを、その鼻先にした。

ベトナム語で言い訳をした。派手に、まるで自分が不当な讒訴にあう犠牲者であるかに。

わたしは彼に微笑をだけくれた儘に、その首根っこをつかんで面の道路に連れ出した。

家畜じみて尻をつきだし、隨うドー・ティ・ヴィンのいや家畜じみる痴態が私を侮辱した。多くの人間の眼が(…通りがかりを含めて)彼と私、ことさらにドー・ティ・ヴィンを注視していることに気付いた。

公然と侮辱される。

 Growing up in public, growing up in public with your pants down

留宇利伊騰。アンディ戦争孔の弟子。ドー・ティ・ヴィンが上目に、泣きだす寸前の、乞う眼差しをした(誰も仲裁には入らない…同僚も。薄情なのではない。おそらく。

彼等は何が起こっているのか分かっておらず、故に彼の事を見守る眼差しの内には私もドー・ティ・ヴィンも彼等自身もことごく存在してなかった。むしろ明らかだったのは誰にとっても無関係だった路上の照りかえし、街路の影、そして街路樹そおのものの茂りの色、むしろそれらこそだった)。

わたしはドー・ティ・ヴィンの頬をひっぱたいた。

やさしく、且つ、なぶるように。

軽蔑し、かつ彼をこそ悲しむように。

アイ、ディー。

わたしは云った。

アイ、ディー。(IDとは謂わなかった。あくまで彼にとって一切かかわりのない日本語で、そういったのだった。一つの嗜虐のかたちとして)

なんども繰り返し、困り果て、ようやくに彼はポケットから自分の手も血の紙幣をとりだす。

わたしはそんなもの見向きもしなかった。

アイ、ディー。

そしてドー・ティ・ヴィンは眼を見開き首を激しく横に振り、やがてベルトにぶら下げたバイクの等キーをさしだす。

アイ、ディー。

唇を突き出して、何か言いかけた。

アイ、ディー。

わからない、と言いたいのだろう。彼等の母国語の…個々の公用語の通用しない(つまりは不当な?)外国人(つまり異形の人?)に加えられる理不尽に、彼はすでに言葉を無くして口を無聲のままひらき、ぱくつかせる。

口臭がかすかにした。

香草のにおい?

アイ、ディー。

尻のポケットから財布を引き出す。なんの感情もしめさない。まさかそんなものではないと彼は已に、差しだす前から已に知っていたのだった。

わたしは財布の中をさぐり、彼のIDカードを引き出した。

財布を歩道に投げ捨てた。

IDカードでドー・ティ・ヴィンの鼻の先を二度たたき、そして笑った。

わたしは彼にホテルのカードをわたした。タクシーに住所を教える時に時々使う…。ドー・ティ・ヴィンの耳元に、「7、0、4」と。

日本語でささやいた。

三度。

わたしは聲を立てて笑った。

その午後、いまだに日の暮れない(そのくせに暮れのすんぜんという日没の気配の血なまぐさいまで這った)三時。

ドー・ティ・ヴィンはホテルのドアをノックした(彼が來るとは思っていなかったので、わたしはかるく驚いた。ドアを開けたその時に)。

ドー・ティ・ヴィンは一人で来ていた。

尤も、下にだれか(その時にも連れのホアン?)を待たせていたのだろうか?(…知らない。ホアンがいたかどうかなど)

静かにかれは愛想笑いを浮かべ、頭を下げた。

ドー・ティ・ヴィンを中に入れた。

彼はベトナム語で謝罪と言い訳を(そのやり方を誰かに教わるか相談し合うかしたのだろう、流れるほどにも流暢に)ひけらかす。丁寧に困惑の表情を曝して。

彼の唇が次になにか言いかけた時にわたしは彼を殴った。

 They tied his arms behind his back

 To teach him how to swim

はでに身をよろめかせ(まるで身を飜すようによろめかせ)ドー・ティ・ヴィンは省みる。

私は無抵抗の彼の髮を引っ掴んで、顔面に膝打ちし春色の汽車に乗って

 海に連れて行ってよ

尻を突き出した侭後退し、壁に立ったまましりもちをつく。

それがドー・ティ・ヴィンを驚愕させる。

のけぞるように(尻に燃える蹄を踏んだバスター・キートンのように)跳ね起きて(顏だけがチャップリンの顏の作りものめいた悲嘆をさらす)見た。

私を。

 They put blood in his coffee

 And milk in his gin

逃げまどいさえしなかった。ドー・ティ・ヴィンは。彼はわたしになすがままに殴打され、聲さえあげずに、軈てかれが壁に頭をぶつけ何故 あなたが時計を

 チラッと見るたび

まどの向こうを見上げた(その方向にわたしがいると思ったのだ)切れた唇のにじませた血のかたわらに、その頬の筋肉が引き攣った(まるで、微笑んだようにも?)。

私は彼に受け入れさせた。立ったまま、彼は私に家畜の息を吐いた(尤も、そんな暴力的ではなかった。愛にあふれた不受けでも無かったが。

ほのかな、ほんとうにほのかで繊細な風景だった。侮辱と、怒りと、絶望と、愛と、慈しみと、赦しと、それらが同時に、乃至交互に重なり合い、うすく、ささやかに、僕たちは互いに心震わせていたのだった——別々に。

あくまでも、遠く離れて別々に)。

 Oh, it's such a perfect day

 あなたについてゆきたい

 I'm glad I spent it with you

 素敵な人だから

わかりますか?

 When it gets dark, we go home

 翼の生えたブーツで

軈て、日が暮れてから彼の眼の前で、彼の持っていたライターでIDは燃やした(ラミネートを溶かしこがしただけ。さすがに、メラメラ燃えるようにはできてないよ)。

ドー・ティ・ヴィンは下僕になった。

震えるタオの臀部と太ももとふくらはぎを見ていた。

息をするのも困難だったのだろうか?

もっと、顎、あげて。

云った時、尻がおおきく震えた。

ドー・ティ・ヴィンがノックもせずに入ってきたのは意外だった。一応はオートロックのはずだった。故障しているのか、入ってくるときにわたしたちが何かのミスをしでかしたのか。いずれにせよ開けられるべきドアが手を勞さずとも開けられたというにすぎない。

友人ホアンを俱づれたドー・ティ・ヴィンは、入って來るなり声を上げた。

——動くなよ。

私はタオに入った。

従順なタオをホアンだけはいぶかる眼で見た。已にわたしに馴れたドー・ティ・ヴィンは聞き取られもしないベトナム語で私に親し気に話しかけ、ひとりでわたしと交友を深めた。

ドー・ティ・ヴィンはこれから何にありつけるの知っていた。

わたしはドー・ティ・ヴィンにだけ顎をしゃくった。

ホアンに、ドー・ティ・ヴィンは話かけてどちらが先にするのか譲り合うのだった。かれらは友人同士だった。

ホアンが、一言もなくに先にはじめた。

ドー・ティ・ヴィンは恠しみつづける彼を鼓舞するようにかたわらに囃したて、そして笑った。

わたしは立って窓の向こうを見た。

ガラスが暗がりに私をいろもなく反射した。

瞬いた。

タオは聲を立てなかった。

そのままに、太ももを震わせ続けるに違いなかった。

次のドー・ティ・ヴィンは用をなさなかった。照れながら、はじらいも無く笑った。だからホアンをせっつく。ホアンがもう一度事にかかった時に、私はタオののけぞった頸の傍らに身を横たえた。

ささやく。

——いちばん、さいしょに覚えてるの、なに?

彼女にだけ微笑みながらわたしは云った。

——さいしょ、に?

と。

云われたとおりに正面に顎を立てて、黑目だに動かさない儘、聲でだけタオはわたしに応えた。

額に夥しい汗が垂れた。

——おぼえてない、よ。

タオが云った。顏の表面自体が引き攣っていて、もはや表情は彼女に存在しなかった。そのとき、タオが全身に発刊しているのが分かった。

——綺與宇、さんは?

タオが云った。

——俺?

と。ささやく頭の斜め上でホアンがようやく髙い笑い声をあげた。

——覚えてない。

タオが笑ったのが分かった。聲はしなかった。肉体に笑う自由は赦されなかった。だから、心にのみタオは明らかに笑った。

——やっぱり、そうだね。

明らかにタオはその全身を以て私との会話を楽しんでいた。そのやわらかな親しみの感覚がわたしに心地よかった。

——最初の記憶じゃない。

わたしはささやく

——なに?

——最初の記憶じゃないけど

——謂って。

——でも、笑う。

——謂って、ね。

——一番最初の記憶なんかないのに

——好き。だよ。

——なんで、最初の記憶じゃない事、知ってるの?

——綺夜宇さんの話、ね。

——笑っちゃうね。

——好き、だよ。

——子供の時、

——何歳?

——十歳?

——十歳?

——…くらい。

——若いね。

——日出登(ヒ、デ、ト)っていう子がいて





Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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