多香鳥幸謌、附眞夜羽王轉生——小説38
以下、一部に暴力的な描写を含みます。ご了承の上、お読みすすめください。
——そのままにしてろよ。糞。
蘭を見上げ乍ら、私はタオに入った。
——動くなよ。うごくと臭いから。
蘭をベッドに座らせた。
——動くな…うごくと、穢いもん、いっぱい出て來るから。
ふとももがいやまして痙攣するのだった。
わたしは蘭のふくぶにふれた。
それはいかにも安らぎ、ふくよかに、そしてあたたかかった。
——綺夜宇さん!…と。
タオが短く、聲を殺して叫んだ。
——綺夜宇さん!
掬いを求めるような?
あくまでも、追い詰められた。
もういちど彼女が綺夜宇さん、と叫びかけた時に、タオはその場に失禁した。
私は禁じられた発聲の、その破られた意味を察した。
鼻に、彼女に聞こえるように笑った。
——穢い。
わたしはつぶやき、そして蘭にかたわらに添い寝させた。
タオは猶も、わたしの爲にその体勢に、そして四肢の震えは止まなかった。
蘭は眠ってるわけではなかった。
あお向けて、そして眼を開いていた。
私の耳ははっきりと蘭の立てる寝息を聞いていた。
わたしは眼が眩んだ。
軈てわたしがさらさせた素肌に、私はひとりで蘭に埋没した。
蘭は何が起こっているのか、気付きもしないのは明白だった。
從いもせず、だから抗いもせずに蘭は寝息を立てた。
見開かれた儘の眼は、私をさえ見ていなかった。
眼の前に女がいた。
見たことも無い女だった。
昼間の多迦子の印象が未だに残っていたのかもしれない。
そうではないのかもしれない。
わからない。
女の肌はいや白み、いよいよ白く、そのあたたかな事が連想した雪の温度の感覚の内に、わたしをただ目舞わせるのだった。
女が痴呆であることは知っていた。
もとから知性もなにもなかった。
だから白痴でさえあり得なっかた。
女は痴呆のまなざしのもとに笑みつづけた。
——なんでここにいるの?
わたしは女の耳にささやいた。
——なんで?
お前はばかだよ。
女は云った。
私は聲を立てて笑いそうだった。
女は女ですらなかった。
男の形をそこにさらして、そしてそれは用を足さなかった。
その突起のさきの暗いあなぐらに朧げな靑色の太陽を咥えこんでいたから。
お前はかすだよ。
云って、女がほくそ笑んだ。
——なにしに、ここに居るの?
ささやくわたしに女は云った。
俺は世界だよ。
茫然と、云った女の声を聴いた。
——嘘つけ。
喰ってみろよ。
女は云った。
俺は世界だよ。
耳元で。
だから私はその唇をめくって、喉に右腕を押し込んだ。
女の喉が鹿の鳴き声のような、こすれる音を立てつづけた。内臓の中を探った。
ほじくり返し、女は笑み続け、触れたと思ったその心臓を引きずり出した。
俺は世界だよ。
女は云った。
ほれ喰ゑよ。
ささやく。
激昂してわたしは、早口にその耳元にささやいた——知ってるか?
世界?
そんなもの存在したことなど一度もない。
知ってるか?
世界?
そんなもの、…知ってるか?
あまりにも顯らかな存在は、かつていちども痕跡さえ残さなかった。
あまりにも隱しようのない存在は、かつていちども、…知ってるか?
世界?
そんなもの存在し得たことなど一度もない。
知ってるか?
世界?
そんなもの、と。
ささやき手のひらに心臓の脉打つ触感があった。
それを見る木きにはなれなかった。
だから、僕は僕の心臓に、胸の皮膚の上から擦り付けようと思った。
触れていた唇が離れた。
そのときに私は瞬いた。
体の下に、蘭はいまだに目を開いたままだった。返り見得ればタオが、いまだに引き攣けながらあの態勢を維持していることは気付いていた。
その肌に傳う汗の匂いを感じた気がした。
自分のそれかも知れないと思った。
すでに明け方にも近かった。
どれほどの間、タオがけいれんし続けているのか、私にはもはやわからなかった。
まだ空の明ける兆しはなかった。
窓の向こうに空も、海も、昏く、そして雲母がゆっくりと流れる。
うつくしい、と思った。立ち上がって窓際に行こうと思った。
私の素肌を月が照らした。
さまざまなかすかなおうとつに翳りが這う。
震えるタオにすれ違いかけた時、私は其の腰を蹴り上げた。
崩れるように、そしてタオの四肢は聲もなくて倒れた。
頽れた音が足元にたった。
ぶざまな音だった。
泣き声はなかった。
長く、長く、ひたすらにながく、くずおれた四肢を力いっぱい伸ばしながらタオは息を吸い込み続けた。
8月22日。
夢の中で、なつかしいあなたが振り向いて笑った。
空中に舞う髪の毛に、雨の水滴が散って、それは空間に玉散る。
僕は見蕩れた。
ひょっとして、今日、雨?
(※片岡注記。
以下、すべて22日の記録です。ですから、香香美氏は21日の記録は此処にはつけていない、ということです。
つまり、21日附けの記録はその前日の夜のことですから。
一応念の爲、註しておおきます。)
ところで、昨日思った通り、蘭を預けに來たタオはアトリエに來て、カンバスを黑く塗りつぶすわたしに驚いていた。
(二度目の下塗りは、何故かしらないが一度目よりはやく乾く。
何故だろう?油彩は、結局は気候風土に極端に左右される…。
色合いもおもったより濃い、深みのあるブラウンに仕上がったので、三度目はやめて黑下地にとりかかることにした。
思った通り、深みさえ感じさせない素直な黑が現れる…黑に深みがあってはならない。深い黑は黒くない夾雜物まみれだ、ということを意味する。いちばん深い黒とは尤も浅はかな黑なのだ。
経験から言えば、下塗りの此の段階の黑は乾くのが遅い。
今回はどうなるだろう?
意外に此処ではすばやく乾いて、さっさと定着して仕舞うのだろうか?
念の爲、一日以上はおいて白、さらにもう一度白、そしてその上にもう二度うすいブラウンの被膜を被せ、それで下地は終わり…のはず)
——どう、したの?
タオが云った(半分まで黑く塗りこめられたカンバスを見て)。
——準備。…タオを、描く、準備(これは彼女の話し方の癖をまねたのだ)。
私は笑った。
彼女に下塗りの手順の説明はしなかった。
彼女が理解するとも思えなかったから。
油彩とオイルの腐った油じみた臭気の中に、彼女は笑う。
そして後には蘭が残った。
黑ぬりじたいはすぐさま終わる。
油の腐乱臭の中に、私は黑光る画面見ていた。
乾いて、干からびて、色気が(…油分のこと。科学的には脂分。僕的には色気)ぬけないと、思うような黑にはならない。
あなたは雨に濡れたようだが、私は午前中蘭を連れて日に光る海邊を歩いた。
波はさかんにざわめく。
また雨が降るのかもしれないと、晴れ上がったそらに私は思った。
午後。
一時くらい?
ベトナム人たちは習慣として食後昼寝をする。
だから、蘭も当然を昼寝をし始めた。
寝室のわたしのベッドの上で。
いつもの蘭の真似をしたわけでもないが、バルコニーにでて風に当たった。
尤も風というほどの風もない。
見晴るかす海はあまりにも狹く、小さい。
人間の視界の限界。
もしも地球の彎曲にしたがってどこまでまっすぐに(即ち彎曲して?)見通せたなら。
其の時に初めてわたしたちは海の姿を見出すことになる。
結局は我々は誰も海の姿を見た事などないのだ。
…と。
そう思いませんか?
バルコニーの手すりを蜘蛛が這った。
意外に思う。
このあたりまでも彼等の生存圏だったとは知らなかった。
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