多香鳥幸謌、附眞夜羽王轉生——小説31
以下、一部に暴力的な描写を含みます。ご了承の上、お読みすすめください。
窃盗という行為にはそもそも複雑な知性が必要なはずだった。自分の所有、他人の所有、手に持っている金銭の価値、そしてそれを手にする事によって自分が手にする可能性…蘭は庇護下に或るのだから、生きるための必要性等そんざいしない。ただ、彼女の遊興費になるか、ないし、守銭奴てきな欲望を感じているか、それ以外に紙幣にかちはない…。
彼女には人並みの知性があるのだという妄想が(まさに、そう妄想としてのみ、そのときわたしに想われたのだった)生じた。
私はかるいめまいさえかんじた。
あんな生き物に知性が?…と。
例えばプラナリアに知性があることを証明されたような、そんな驚きと不安…
8月19日。
タオはもう、來ないだろう…と。
わたしがそう思っていたことに、開けたドアの向こうにタオが笑んでいたのを見たとき、気付いた。
いつもの早朝。
邪気のない、上目遣いの眼でわたしを見ていた。
云った。
——今日も、おねがい、ね。
と、そして遅れてわたしは笑み、ささやく。
——今日、仕事?
——ちょっと、いつもより、おそくなるかも、ね?
蘭は正面の壁にへばりつて、斜め上を見ていた。
蘭が部屋の中に入っても、タオは行こうとしなかった。そのくせ、なにを話しかけるでもなくて、だからわたしは彼女を傷つけないように、殊更にやさしく云った。
案じたそぶりさえ消して。
——どうしたの?
——どうするの?
——なに?
——繪、かくの?
——今日?
——かく?
——今日は…仕事でしょ?…夜は、光が…
——ひかり?
——そう。ひかり。電気の光だと、どうだろ…
——そうだね、じゃ、つぎだね、と。
タオは鼻水を齧む甘えた声で言った。
タオが行ったあと、私は考えるのだった。照明の光だろうと日の光だろうと、それがいったい何だったろう?
スケッチとは言え、何の爲に書いてるわけでもない。水浴に下絵など存在してはならないのだった。デッサンはいくつもの、複数の、体験をするために或るのだった。完全な暗闇の中で、まったくなにも見得なかったとして、それでも眼差しの捕えるものを体験する事のほうが、寧ろ北向きの部屋で安定したスケッチをとるより価値があるかもしれなかった。
そもそも夜には月のひかりがあった。海辺の大通り沿いなので、人工照明とはいえ反射し反射しようやく部屋に進入する頃には、星のひかり月の光に等価の、むしろ取りつく島のない他人事の光になりおおせていた。
部屋の照明など消して仕舞えばいいのだった。
又、こう考え得る、あの女を壊してやろう、と。
その心を、完全に毀して、そのさきの彼女が見せるはずの眼差しに興味があった。
彼女はわたしを愛していた。戀し、焦がれていた。
ならば、私に彼女を壊して仕舞うのはたやすく思われた。と共に、私も壊れて仕舞うかもしれなかった、ならば、それもそれで面白くおもわれた…
考えるともなく考え、思うともなく思う、様々に。
窓際に立つ目の見て風景が、昨日に同じ雨の風景であることは知っていた。
耳がとらえつづけていたの雨埀れの音だった。
時に、窓ガラスの向こう、故にすぐそこにありながらもいや遠いその雨の瀟簫たる音に、ざつ、ざつ、ざつ、と。それ、背後になる耳慣れないノイズがあることに気付く。
心のあくまで冱えた儘、穴があいたように唖然として、そして私はノイズに耳を澄ませるのだった。
頭の中を、形のないなにかに喰う散らされている錯覚に、あやうく飲み込まれのそうになって、振り返ったわたしは蘭が貪るのを見た。
部屋のバスケットの中、備え付けのインストラーメンの、その容器を破いて砕いた乾麺を、蘭は手づからほうばっていた。私を正面に見つめながら、気にしもせずに貪り、喰い、私の眼の間で喰い、貪り、軈て、我に帰ったからしい瞬間があった(——表情のなにが動いたというのでもなくて、ただ、そんな気配が何の変化も無い内に、匂ったのだ…)。
蘭はつかみ取った乾麺の一片をわたしに差し出したのだった。
ほら。喰えよ。
と。
表情はなにも、微動だにしない。
けれどもその時、蘭が笑った気がした。
餘りにも顯らかな実感として、だ。
私は其の時に、輕い発作でも起こしたのだろう。いまで起こしたこと無い発作(——あるいは、殆どすでに忘れかけているが、あの、十二歳の頃の、多迦子を殺した直後に起こしたらしい発作?
ただ、あのころは唯でさえ多感な思春期の入り口だったのである)を。
そうとしか思えなかった(それとも私がまたあたらしい扉でも開いて、つぎのステージにジャンプしたとでも?)。
私は蘭を殴った。
顏を、ではなかった。腹を(何故?——考える。
時に、思い出して、私は。
考える…
何故、腹?
顏はすぐそこにあった。身長差から、丁度狙いやすいすぐそこだった。
何故?…おそらくは、その皮膚に触れたくなかったのだろう。
わたしは、私の皮膚を。
蘭の皮膚になすりつけるような真似を回避しようとしたのだろう…だから、服の布地の上から殴ったのだ。二步前にわざわざ前進し、腰をひねりさえして)殴ったのだ。
蘭の目が一瞬見開かれた(剝かれた…ひん剝かれた…)のを見た。
口は閉じた儘。
それ以外に、一切の表情の変化も無く、ただ、眼だけが見開かれ(剝かれ…ひん剝かれ…)た。
私は思った。
今、彼女の時間は一瞬停滞したと。
停滞?
むしろ完全に静止したのだ(——と思った時には彼女の周囲に、その遅れと誤差を取りも同窓としか猶時間の洪水が起こった。そのとき、彼女は我々の世界の、同じ片隅には決して存在してゐなかった。
確実に。
彼女は彼女として、あまりにも特異な異形をのみ曝していた)と、思った。
私はまばたくことさえ忘れた。
彼女がまばたいたとき(その見開かれた、…剝かれた、…ひん剝かれた、それ。目が)私は彼女が襲い掛かるに違いないと面行ったに違いなかった。するぬけるように後ろに回り、彼女の尻を蹴った。
倒れ伏した蘭が(胸を打ったのだろう、一秒、二秒、一瞬、もう一瞬、蘭は息を詰まらせ)ながく息を吐くのを見ていた。
留めようがなかった(のではなかった。
けっして。
だって、わたしの心は纔かの熱狂どころかいささかの興奮さえ噛んではいなかった…僕は冴えていた。
心は冴えていた。
そして、だから、いやがうえにも醒めていた)わたしは、その背骨を踏み下ろし続けたのだった。
未だ呼吸の整わない儘に(是は蘭)。
一切、聲さえ立てず(是は私)。
そしてまばたきもせずに(是も私)。
兩足をひろげて(是は蘭)。
息も亂さず(是は私)。
腕を變な方向にまげて(是は蘭。骨が折れていたのではない。華奢な体の咄嗟の発狂状態に、関節が極度にさかさまに曲げられた、のだろうか?…骨折の事実などなかった)
唾液をふいて(是も蘭)。
風に動く
甘い酸つぱい秋の夢 石榴
空にはぢけた
紅寶玉の 火藥庫
なぜだったろう?
なぜこんな詩を、いかにも古典的な詩をおもいだしたのだろう?
わたしの足が蘭をまさに破壊するためだけに踏みつけ続け(心配だった。
はっきり覚えてゐた。
心配していた。——はたして背骨が粉々になったくらいで人間は死ぬのか、と。
水母人間になってむしろを彼女を自由にしてしまうのではないかという妄想。
妄想、そう、妄想、自分でもすでに妄想と知られつくしている妄想。そして。
にも拘らず?…
あざやかな恐怖)僕は時に、それでも醒めて、僕自身の暴力を、あきらかに冷め切って、僕は嘆いていたのだった。
この気ちがいめ…と。
僕は僕の去勢とかつてのロボトミーが行われる僥倖を願った(あるいは、もっと素直にいえばこう、…ころしちまえよ、こんな奴、と。
生きる資格あるの?
こんな奴…と。
死んでくれよ…
こんな奴…と)。むしろ、僕の醒めた心がいよいよ、僕の破戒衝動を鼓舞していたのかもしれない。結果的には(死んでくれよ…こんな奴…
どっかへ消えて…
こんな奴…)。いたたまれなかった。
わたしも、わたしに虐待される足の下の少女もいたたまれなかったのだった。その時にはすでに僕は聞いていた。
斜め上の壁。
そこにカマンベールを擦り付けたように、へばり憑いた顏、そのぶら提げた小さな躯体…
彼等はつぶやいていた(無数にいたから。壁にへばりついて、その小さな顏、その下のいや小さい躯体、それは無数にいたから)曰く、
——生きてていいよ。
擦り付けた顏。それらの。
——生きてていいよ。
骨格をでは無くて空間を曲げて擦り付けられた?
——生きてていいよ。
そんな見ず知らずの、他人事じみた畸形。
——生きてていいよ。
それが、ちゃんとしたいきものであることには気づいた。
——生きてていいよ。
いかんともなれば彼等には父親も、母親さえもいるに違いなかった。
——生きてていいよ。
ならばわたしより上位の人間ではないか、と思った。
——生きてていいよ。
わたしには生まれたときから父も母も居なかった、と。
——生きてていいよ。
私は時に確信していたのだった。
通りすがりに 私は見た
人影もない谿そこの 流れのふちに
砥石が一つ
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