短編小説。修羅ら沙羅さら。綺羅らぎの淨土1


新型コロナ・ヴィルスを背景にした神話あるいは私小説。

雜篇。

以下、一部に暴力的な描写を含みます。

ご了承の上、お読みすすめください。



綺羅らぎの淨土

かくに記憶する。わたしは時にベトナムにあった。ベトナムは北部と南部にふたつの季節を持つ。温帯にこすれる北部には四季があると現地の人間たちは云う。但し日本人乃至中国人がそれに素直に同意するとは思えない。日本等温帯の諸国土の四季を湯で薄めたような常夏の土地の常夏に過ぎない気候のなかの或は微細に兆す四季らしきもの。熱帯の南部には乾期と雨期がある。但し基本的には一年中通し日光は灼熱の温度を持つ。夜でも冷えない。中部は亜熱帯に属する。此の亜熱帯に区分される場所の季節は、あるいは難解なものだ。乾期らしい乾期も雨期らしい雨期も無い。日本で言う梅雨に近い二十度前後の寒冷な十一月から一月。あとは夏だ。梅雨と雨期は違う。熱帯の雨は土砂降りのスコールで、一日の中かならず、多くは午前中にいきなりまさに世界は一気に昏み、一時間程度土は水浸しになる。昏み、排水の惡い大通りのアスファルトにダンプは水たまりを容赦なく跳ねる。昏み、耳は土砂降りの轟音を知る。かすめとるようにふたたびの、その明るさに気が付けば空はすでに靑くなっている。いつの間にか、氾濫した水たまりは引け、すぐさまに日光に乾く。たとえば南部サイゴンで見上げた雨期の空。埋め尽くされた世の終わりじみた曇り空に、環境が破綻したかの豪雨のひとしきりのあと、いつもどおり晴れゝば一度冷やされた大気はすでに灼かれきって乾燥した痛みを曝し今敢えて頌に顯かせばその土地の名

  薰る

 サイゴン、と。その名を誰がつけたのか?

  土が匂った。雨の

 南部のもっとも華やいだかつての歓楽の

  雨季の降りしきる雨の中でも

 そして陥落のサイゴン

  已んだ雨の

 米兵たちが

  いまだ乾かない

 かつて逃げまどい、すでに自らが

  濡れたアスファルトにも

 放棄していたその町の

  濡れた土の匂いは

 陥落の都市

  臭った。むしろ

 最期を見取ることも無く逃げ去って彼ら

  鼻の奧になすりつけられたように

 米兵たちに添うた男たち

  鼻の奥にこびりついたように

 現地に生まれ、現地に育った男たち

  雨がまだ

 彼等の目は絶望しただろう。そして彼女

  降りしきっていた間中

 現地に生まれ、…女たち。現地に育った女たち

  盗み見るように

 彼女らの目はいまさらに

  その出店コンサル業務の間に

 眼の前にした行き止まりの壁の無殘に

  会社の窓から

 まさにその時に

  雨の飛沫の

 慄いただろう、眼差しの中に

  或はその

 都市の最後を見出しながら

  さまざまのものの

 慄いただろう、眼差しの中に

  さまざまな震えを

 彼らの生活の終焉を見出しながら

  見ていた。ひとりで

 ベトナム人らしく

  不意に暗く

 大声で、嘲笑するように喚き散らして?

  翳った空間の中で

 その時期を

  降りしきる轟音を

 もはや建物以外に記憶しない町に

  耳にはっきりと入れながら

 わたしは一年くらい住んだのだった

  葉のふるえ

 少女がいた。妻ではない、妻が

  飾り窓の植栽の葉の

 わたしの唇を、肌を、その唇に

  葉と葉ゝら、無数の

 肌に、知る前にひとり、わたしの

  葉ゝらのざわめきたつ濃い

 唇を、肌を、まさにその唇に、

  緑の

 肌に、知っていたひとりの

  震え。無数の

 少女がいた。おそらくは

  震え。街路樹の

 知能障害の?…通じ合わない

  二階から見たそれら

 共通言語のないささやきあい、乃至、通じ合わない

  綠りなしひたすらに

 共通言語のない笑い声のざわめき、乃至、通じ合わない

  いまや

 共通言語のないののしるような?…乃至、通じ合わない

  濃く、昏く、ひたすらに濃く

 共通言語のないつぶやきの、際限もない

  緑をさらしたその

 独り語散るようなつぶやきの

  葉と葉ゝと、無数の

 聲と聲、そして聲ら、無数の

  葉ゝらの震え。無数の

 聲らのさまざまのそれら

  震え。枝の

 ひびきの中に少女がいた。町で

  繁茂の緑の

 朝すれ違いざまにわたしを見つけ

  雨の飛沫の夥しい白濁の向こうに

 わたしをつけたその少女は、おそらくは

  垣間見られた一瞬の

 彼らの市場の通りの外れで?

  それら

 少女はわたしをおそろしく言葉の

  枝と枝ゝ。無数の

 知性さえない言葉の

  枝ゝの震え。無数の

 使い方さえしらない簡単な言葉の

  震え。そして

 意味さえ知らないおそろしい程の

  耳は顯らかに

 いわば白痴にすぎないと思ったに違いなかった。わたしを

  聞き続けていた、その

 外国人だとさえ気づかずに。会社の

  すさまじい轟音、もうこれで

 その現地人管理業務の終わりを会社の外の

  終わりだよ。世界はもう

 靑い日影で待って、忍び込むように

  いま

 微笑み、これみよがしなほどに

  こうして終わっていったよ、此の

 ほゝ笑みながら彼女は忍び込むように

  轟音とともに、と

 笑い聲を、好き放題に笑い声をその

  そう耳元でささやいたような

 唇の周囲にだけ散らしながら彼女は

  すさまじい轟音。雨の

 忍び込むように、蟹股で。まるで

  轟音。叩きつけ

 妊婦の末期の頃のような蟹股で

  さいなみ容赦もなく

 ほかの此処らの女たちとまったく同じくに

  なぶり、うちのめし

 蟹股で、地に、足をすりつけるような

  あざけるように、その嘲弄

 あざやかな蟹股で彼女はひとり

  血も涙もない

 忍び込むようにわたしの背後について

  一瞬のひるんだすきもない

 ホテルに入った。彼女にはすでに

  埋ずめられきったその

 気付いていた。その知能障害にも?…まさに

  すさまじい轟音。雨の

 おどろくほどに昏い眼差しの儘に

  轟音。壊れた、と

 彼女は笑った。いつでも、極度に薄い唇

  いままさに、もう

 おどろくほどにうつくしい少年の顔を

  手のほどこしううようもなく、もう

 おどろくほどに少年の顏をした彼女、おそらくは

  なすすべさえなく、もう

 十九歳くらい?おどろくほどに

  絶望さえできないくらいの

 華奢すぎる体躯に鳩胸をだけ、誰の目をも気にせずに

  あからさまさで

 彼女は鳩胸の、意味も知らずにそれを

  空は壊れた。壊れた

 あからさまに矜恃し、無邪気に、おどろくほどに

  空は。だから

 狂暴なまでに美しい褐色の少女のおどろくほどに

  世界は壊れた。壊れた

 恐ろしいまでの肌の悪臭をわたしは嗅いだ。まるでそれ

  世界は。だから

 雨の中に放置した、子犬の柔毛の

  もう二度と

 濡れた濕めった悪臭のような。わたしは

  だれも此の風景を

 彼女の隨うままに、わたしは彼女を

  見ないだろう。だから

 部屋に入れた。知っていた。その

  もう二度と

 うつくしい少女の知能障害は?…歓楽?

  だれも此の音響を

 むしろ、降ってわいたような、不意の

  聞かないだろう、と、耳元で

 歓楽?飽く迄も一時の、歓楽

  ささやかれたような、そんな

 気ちがいじみた、正気ではない、あやうい

  轟音。だから

 歓楽?まるで自分の身を、むしろ

  もう二度と

 救い難い穢れに染めてみるのを愉しむように

  だれも此の匂いを

 自虐として?…鮮明なまでに

  嗅がないだろう。此の濡れた

 嗜虐的に。わたしは言葉も通じない少女をその夜

  土の匂い。濡れた

 抱いた。眠り、軈て明けかかり、いまだ

  土の立てた生々しい

 暗いままの朝の五時にもわたしは

  ひたすらに生き物の

 彼女を、…聲を聞いていた。少女の

  息づいた息の

 聲を立てた。少女は

  生々しい生き物じみた

 耳元で、さまざまな濁音つきの

  生き物の匂い。濡れた土の

 さまざまなイの音を、小刻みに喉に

  すさまじい悪臭を、と、たとえば

 イの音を、こすりつけるように

  ささやかな紫陽花の花が

 イの音を、濁音つきで微弱な音で

  もしもここに咲いて居いたら

 耳の近くに——至近。鳴らし

  ささやかな紫陽花の

 ひびかせ続けた。わたしの下で

  その

 家畜じみて、殊更に

  夢のような紫、ふれれば

 尻だけ突き出した顏の

  こわれてしまいそうな、そんな

 枕に埋めた息苦しさにも微弱な

  不意に唇に

 あまりにも微弱な

  吐かれた

 あまりにも微弱すぎるイの濁音で、見た

  誰かの

 わたしは、いまさらに女に餓えていた譯でもなくて

  見ず知らずの

 見た。わたしは、いまだ一度も終わらなかった儘に

  吐息のような

 返り見た。その一瞬に

  あざやかな

 窓の向こうにすでに日の

  紫

 登る光を知った空のその

  その花が

 あざやかな朝燒けの

  ささやかにでも

 一瞬に、もはや閃光として返り見られた

  明けた朝に

 すさまじい紅蓮。その

  タクシーに乗せて町ふたつ向こうの遠い外れに少女を放置し、わたしはひとりでサイゴンに返った

 破滅の色








Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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