小説《ハデス期の雨》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ザグレウス…世界の果ての恋愛小説⑭ ブログ版
ハデス期の雨
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。
Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
《in the sea of the pluto》連作:Ⅴ
Χάρων
ザグレウス
以下、一部に暴力的な描写があります。
御了承の上お読み進め下さい。
不意に、あお向けて身を投げ出したままに、振り向き見たタオのただひたすらに想いつめた幼い眼差しに、ハオは衝動的な屈辱を感じた。
あきらかに、その、いつくしむ眼差しはそれが見つめたハオ自身を、容赦なく侮辱し、罵倒していた。タオの眼差しに、ふれれば泣き出して仕舞うに違いない、そんな危うさだけが見苦しいほどに張っていた。
ハオは、指先を伸ばした。
タオは逆らわない。まだ、…と。ハオは想う。十一歳の癖に。ハオの眼差しの中で、タオはすでに、あきらかに、この世の苦痛のすべてを知り尽くして、それに諦めも耐えもするわけでもなく、ただ素直に容認した、そんな眼差しを曝していて、そして、自分の唇にハオの指先がふれた瞬間にだけ、タオはいちど瞬いた。…いま、と。
ふれた、…そう、タオの、ハオの黒い眼を見つめた眼差しは自覚して、確かに。
タオの唇には、ふれた、ハオの指先の触感があった。ずっと、そのふれた指先をそのままに、唇に留めておこうと想った瞬間にタオは、それがいまこの瞬間にも離れていきそうな、危うさをあきらかに孕んでそこに存在していることに気付いた。
タオの唇が、その指先をあさくくわえ込んだ瞬間に、タオは自分がいま、ハオの指先をくわえたことに気付いた。
奇妙な味覚があった。食べ終わられて、いまだに洗われていなかった指先の皮膚に付着していた、鶏肉の油の風味の名残りが感じられる気もして、あるいはそんな残像を打ち消して仕舞う鮮明な皮膚の、味のない味覚。爪の、ささくれ立った、味覚以前の触感の息吹き、まばらに拡がった、それら以外の何かであることをしか兆そうとはしない、それら、さまざまな味覚らしきものの断片的なささやき。…どうして?
と。
その時に、ジャンシタ=悠美は言った。十四歳の彼女を、ハオの家に呼び出して、そして上原たちに**させたときに。
それは同級生の、上原茂史という名の少年が言い出したことだった。…あのフィリピン人、…と。
親父、あいつのお母さんとやっちゃったらしい。言った。そして、自虐的に笑った茂史が、茶化しながら、実際にはだれよりも傷付いていたこと明白だった。…そうなん?
と、ささやきかけた、その、挌技場のうらの樹木の下で、茂史が廻してきた煙草をハオは口にくわえた。茂史の眼差しは、じっと、真正面から、それでも偸み見るように、その細い紙巻煙草をくわえたハオの唇を見ていたが、知っていた。
ハオは、茂史が、自分に特殊な感情をいだいていたことを。それは同性愛だったのだろうか。かならずしも、男性のそれを律儀になぞりきっただけではない、そのハオの肉体を前提として、そのうえでハオに焦がれて仕舞う事は。
茂史には教えてやった。学校の水泳の時間に、必ずハオがやすむの理由を、不意におどおどしながら尋ねたときに、茂史。
彼はかならずしもおびえていたのではなかった。必死になって気を遣っていたのだった。ハオを一瞬たりとも、傷付けたりしないですむように。そんな事はおびえた眼差しを見ればわかった。…俺、と。
「ありがと」
…ふつうじゃないの。なんか
「気にしなくていいから。…まじ」
やばいんだよね。…からだ、
「…じゃない?」
女の子だから。はんぶん、
「…違う?…ってか」
やばいじゃん。俺、男のくせに
「どうでもいいんだけどね」
セクシー・ビキニなんか着れないって。
「…ね?」笑って言った、邪気もないハオの言葉を理解できない茂史のために、その、校庭のトイレに誘って、ハオは自分の上半身をめくってやった。…どう?
「****できそう?」言って、声を立てて笑ったハオにあわてて追随した茂史も、声を立てて笑った。「…じゃ、」と。
じゃ、…ね。
んー…
ね?
じゃ、…
さ。
ね?…なんか
ってか、
むしろ、
…ね?…あいつ
んー…
ね?
…ま、
かわいそうだけど、**ちゃえよ。…と、そう言ったのはハオだった。「あいつのお母さん、糞なんでしょ。じゃ、あいつも糞じゃん。糞同士だから。無害じゃん?**ちゃうしかなくない?」ハオの不意の暴言に、茂史は笑って、そして、茂史はもはや、ジャンシタ=悠美に逃げ場などないことを自覚した。ハオが口に出してそう言ったのなら、かならず彼はそれをやって仕舞うはずだった。
流暢な、よどみの一切ない日本語で、その、ルシアという名のジャンシタ=悠美の母親は、詰めかかった上原の母親に言ったらしかった。…好きになったんですから。
「本気でほれあったんですから、仕方ないと想います。…おかしいのは、奥さんのほうじゃないですか?旦那さん、あんなに寂しがらせたのだれですか?女として恥ずかしくないですか?…どう考えてます?別れてあげればいいじゃない。女として終ってるんだから。…」そう貫井ルシアは急速なささやき声のうちに罵った。上原扶美香は、その言葉の群れに瞬いて、それは、その夫、上原隆文が扶美香に離婚届を出してきた日に発覚したことだった。隆文は告白した。ルシアとの関係を、そして、彼女のほうではかならずしも再婚の意思などないことを。
ルシアは、夫を愛していたし、精神に翳りのある娘の育児に忙しかった。自傷を繰り返す娘。毎月、すくなくとも一回は手首にかみそりを入れる。その日、ルシアは詫びを入れたいといった。顔を合わせる気にもなれなかった扶美香は電話で断ったが、電話を切った数分後に、家のドアを叩き鳴らしつづける執拗なノックをされて仕舞えば、扶美香は彼女を家に上げるしかなかった。
その家は、隆文が買った家だった。隆文は千葉の実家に帰っていた。夜の7時だった。家には茂史だけがいた。あっちへ行っていろ、と、当たり散らす扶美香に茂史は従わなかった。居間のダイニング・テーブルに茂史は座って、テレビの前の床にいきなり土下座して座ったフィリピン人を見ていた。
人種的な造型の差異以前に、かならずしも彼女は美しいとは言獲なかった。顔のつくりのいたるところに過剰なアクセントがあって、全体として調和を欠いていた。とはいえ、人間の女の顔として、あざやかすぎるほどにあざやかなのは事実だった。母親の顔は、あまりにも何もなかった。ルシアに比べれば、扶美香の顔は眼も鼻も口もないに等しかった。鮮明な顔、…と。
そう茂史は想った。美醜はともかくとして。
ジャンシタ=悠美の顔には、その片鱗さえも残ってはいなかった。薄っぺらい顔。
あきらかに、東アジアの卵に線を引いただけのような、そんな取り付く島のない顔の形態は、茂史が行ったこともない熱帯の島国のその気配を肌にだけ染み付かせて、あまりにもあざやかに褐色に輝いていた。まるで何かの意味不明な仮装じみて見えた。
いまや、その咽喉の奥にだけ声もなく泣き叫び、おののき、おびえ、恐怖し、罵り、そして後悔し、悔いながら。
ジャンシタ=悠美はその、茂史ら4人の行為の間中、ひとことの声をさえたてなかった。
呼び出しベルを押したジャンシタ=悠美が、開かれたドアの中ににいきなり見い出したのは、そこにいるはずのハオ、…大切な、と。
「お前にしか、言えない、大切な、話し、あるから」
…ね?
「来て。…独りで、…」
まじ、…なんか
「…頼む。」そう、電話の先で言ったハオとは明らかに別人の、意味のわからない大陸系の、けばけばしい装飾のほどこされた仮面を、顔に押さえつけて片手で手招きする小柄な男だった。
木彫りのその仮面の向こうで、男の素顔は間違いなく声を立てて笑っていた。呆然としたジャンシタ=悠美にその声は聴き取れなかったが、あきらかに、その気配は頭の中に直接響いていた。
聴いていた。影に隠れた、あるいは、他の部屋にいるらしい数人の少年たちの隠す気もない笑い声。階段にハオがいた。彼は見上げた階段の最下段に腰をかけていて、そしてジャンシタ=悠美を、おそらくは待っていて、…何やってんの?
と、「もう…」
ちょっと、…ね。
「なんなの?」そうわめき散らしながらキッチンの奥から出て来たハオの母親に、ハオは、声を立てて笑いながら耳打ちした。そして、いかにもわがままにハオに文句を言いながら、奥に入って行ったその後姿に、ジャンシタ=悠美は自分の望みの一切がすべて、断ち切られて仕舞ったことを確信した。
日曜日だった。ハオの母親も、父親さえもがダイニングにいた。そして、ハオは彼らの相手を数分だけしてやった。すれ違って行った背後に、ジャンシタ=悠美が、自分を先導する仮面の、おちゃらけた白田貢にしたがって、階段を上がり、ハオの部屋に入って行ったことには気付いていた。
開かれたままのドアをくぐって、ハオの部屋に入ったとき、ジャンシタ=悠美の頭部をいきなり殴打したのは茂史だった。そこに、なんの憎悪もなかった。
終に獲物が懸かったことへの緊張と、歓喜があった。なぜ、彼女がそれをされなければならないのか、もはや、理由など忘れられていた。叫んだ。
ジャンシタ=悠美は喉が引き裂かれて血が吹き出して仕舞いそうなまでに、自分が叫んでいることを自覚しながら、訝る。その部屋、眼名指しが捉えた空間の中が、あまりにもしずかで、自分の上に乗った男たちの息遣いしか聴こえていないことに。
在り獲なかった。
自分の喉がこれほどまでに血にまみれてわめき、どなり、叫び、悲鳴を上げているのに空間には一切の音響がない。そんな事実など、在り獲ない。
茂史は軽蔑せざるを獲ない。最初から最後まで、ジャンシタ=悠美が声一つ立てずに、むしろおののきながら気弱に、周囲を気遣った眼差しを曝して、つぎつぎに彼女が男たちを受け入れて行く事に。…**、と。
*******、と、茂史は彼女を嫌悪した。ジャンシタ=悠美は、彼等は自分がしていることの意味さも知らないのだという、その言葉の意味が判った。おそろしいほどの鮮明さで、そして、その言葉の伝える事実には、眼を追うばかりの苦痛が目醒めていた。ジャンシタ=悠美がずっと、《お》のかたちに口を広げていたので、ハオはひざまづくようにして、彼女の上で行為を続ける山口和晃の頬に、その頬を接近させながら、そしてジャンシタ=悠美の口を手のひらで覆った。
彼女が吐き捨てる、乱れた、鋭い、規則的な、テンポの遅い呼吸が、その、人体の湿気としてハオの手のひらを濡らした気がした。
喉さえ、乾いているに違いない、と、ハオは想った。こんなにも、自分の身体の水分を、自分に触れた大気に時間に発散しているのなら。彼女の体内はすでに干からび切っているに違いない、と、微笑んで見遣ったハオの眼差しに至近距離に見詰められた和晃は羞じた。タオの服を脱がせた。…ね?
と。
「…ね。」
そう言った、身を起こした瞬間のハオの眼差しに、タオはその音声の意味を探した。
傍らに、中庭に囲まれて当たり障りなく屹立した樹木は、人々が滅びたあとも、その固有の時間を、ここに生き続けてあるに違いない。たぶん、細胞への放射能の軽度かつ深刻な影響など勝手に図太く処理して仕舞って。不意にそんな事実にハオは気付いて、鳥が一匹だけ、みっつの死体の一番上、あの、二十歳くらいの女の後ろ向きの頭の上で、背中の皮膚のどこかを物色した。
まだ、目立つほどには彼女たちの皮膚はくちばしに荒れてはおらず、そしてまばらに、数えるほど点在したくちばしの抉った傷痕は、その白い皮膚の上にあまりにも痛々しく目立った。…ね。
その、吐きかけられたような息が耳にかかったので、タオは瞬く。そんなはずはない。
耳元に、吐かれた息など届きはしない、ほんのわずかな眼の前のそこに、眼を開いて、すわりこんで、かすかに背を曲げて、自分を見ているハオがいた。ハオの伸ばされた指先が自分の頬にふれたので、タオはそれを赦すことにした。
窓越しの日差しの中に、指先がその、幼い皮膚の触感を這う。指の腹に、かすかにおさえられてやわらかい皮膚がちいさな窪みを走らせる。
その、指の腹の下に。
もう一羽舞い降りた鳥が、中庭の光の空間に、翳りとさえも言えないわずかな陰影をわななかせた気がした。
地面に降りてくるために、短く鋭く羽撃かれた羽根が投げたそれ。
気付いたときには、気付いたところには、その痕跡さえもが残っていない。一体、…と。
どれだけの時間がかかるのだろう?
鳥たち、…だれにも飼い馴らされてはいない以上、あきらかに野生の鳥たちの、その瀟洒な体躯に比べて、こんなにも巨大な肉の塊りを、彼らの小さな、瀟洒な、暴力的なくちばしがついばんで完全に消し去って仕舞うためには。
一体どれだけの彼らを繁殖させて止まないのだろう。もしも、すべてが腐敗せずに彼等に与えられるのであれば。
Tシャツの下に手を入れて、ハオの指先はタオの身体を確認した。その触感と、体温と。
ハオは、噴き出して仕舞いそうなのを、必死に我慢していた。眼の前の少女、タオはすでに、とっくに堪え続けていた笑い声に、ときに我慢できずに、難く閉じてふるえる唇に笑い声の混ざった乱れた息を、もうなんどかこぼして仕舞っていたから。
指先が、膨らみかかる寸前の胸の、贅肉のやわらかく息づいた存在感をなぜて、そして、乳首にふれてみせた。タオはかたく眼を閉じ、まぶたを震わせて、…鳥たち。
もうすぐ、彼等の時間は終るに違いない。
もっと大きな、カラスたちが黒い翼を広げて舞い降りてくるに違いないから。
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