小説《ザグレウスは憩う》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ザグレウス…世界の果ての恋愛小説①ブログ版
この小説から、連作の最期の物語が始まります。
このあたりになると、さすがに、ここから読み始めていただくには若干の無理が生じてきてしまうのですが…。
《私》と、《私》の妻であるベトナム人女性の《フエ》と、《ハオ》という中国人種の日本人(中国系二世)の物語です。
読んでいただいて、なにか感じていただけたら嬉しいです。
Seno-Le Ma
ザグレウスは憩う
…散文
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。
Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
《in the sea of the pluto》連作:Ⅰ
Ζαγρεύς
序
日差しとはむしろ、こうやって眼差しにふれていなければならないのだ、と。そんな、頼んでもいない諭しを自分勝手に撒き散らして仕舞うだけの、ただ呆然としてやるほかないやさしい午後の日差しがふれた。
その、まぶたを開いた瞬間に。
淡い逆光として、そして、光はすでに周囲を無造作にさわり散らしていた。目に映るもののすべて、さらには、眼差しにだけではなく肌にも、視界の外の、寝室に投げ込まれた雑多なあらゆるものすべてにも。なにもかにもが、光のなかにその形態をくまどられ、色彩を曝し、それら、瑞々しいみずからの存在を、にもかかわらずなにかを語りかけるわけでもないままに、ただ、すべてはみずからの現状を誰にでもなく見せ付けているしかない。
ベッドに横たわった私は。そして私を孕みこんで垂れ下がった蚊帳の白さは。あるいはその先の、ハンガーにかけらたままのふたりの衣類のたぐいも。壁に塗られた薄い緑色のペンキの剝き出しの沈黙。蚊帳のこまかな網目のやわらかい白濁を通して垣間見られるそれら。そして朝、私が不意に抱え込んで仕舞った前触れのない倦怠感、の、ようなそれ。それら、散乱する心の微細な惑い。開け放たれたままのドアからいつか忍び込んだ白い猫が、冬物を詰め込んだままに、床に放置されたダンボールに投げ棄てられた私のスウェットの上で憩っていた。
猫は、そこは
ここに
わたしの存在するべき場所だと
わたしは
だれにも主張しないままに、ただ、みずからが曝すすべてをただ当たり前の、当然のこととして、その承認を誰にも求めない根拠のない自覚をだけ自分勝手に見い出して。私の目醒めに気付いた猫は声を立てて、彼女は自分の毛を舐めた。雌。身を捩って、そして、かたわらのフエが目覚めて仕舞えば追い払われるに決まっていた。…大変よ。
ひどいわ。
Xấu...
猫がいるのよ。
Mèo...
…ねぇ。
...Anh à
この世の惨事を
Xấu...xấu...xấu...
呪うかのように。…なぜ?
どうして、君は猫が嫌いなの?
Tai sao
だって、…と、
Em ghết mèo ?
いつだったかフエは言った。一瞬、
Anh à...
何を言われたのかわからずに、まるで
Vì...
未知な言語にでも唐突に触れて仕舞ったような顔をして、そして
Tai sao ?
想いあぐね、眉間に
Vì là...
皺を寄せ、探し出しきれない言葉に
Mèo là
想い惑い、…猫は、
mèo
猫なのよ。
寝室のベッドの傍らに、フエは寝ていた。苦悶を曝し、もはや私の体にしがみつきもしないで身を複雑にまげて、背を向け、…苦しいの。
なにが?
ねぇ、わかって。苦しくて、
ねぇ
たまらないの。
なにが?
…そんな。言葉もない苦悶を曝す。一日に、暇さえあれば一秒でもかたっぱしから眠らなければ、あるいは、より単純に言えば、単に惰眠をむさぼらなければ気がすまない彼女は、苦悶。
苦しいの?
その、
なにが?
曝されたままの褐色の素肌にもわずかのくまなく、通風孔から差し込んだ光はその色彩を好き放題に目醒めさせて、やわらかい翳りにくまどられたその素肌のつくりだすかすかな隆起と陥没の中に、そして、フエはひとりで寝ている。
見た
私は瞬く。
夢の中に
横たわったまま
笑ったきみを
見あげられた眼差しの、空間の
いつだったか
その真ん中に、私は
ひとりで
しずかに血を流す。
光の中に、それだけが自分勝手に翳り、なにに対しても無関係に、もはや人体の形態をさえとどめられないままに、浮んだ空中にそのかたちを投げ棄てて、それ。一度も見た記憶がない、その老人らしき形態の、それ、崩れた、形態の残骸にすぎない単なる翳り。
開かれた穴ぼこのどこが口で、どこが目でなのかは知らない。色彩のない翳りは三つの穴ぼこからあざやかにすぎた鮮血を垂れ流すのだが、しずかに流れ出す色彩。…美しい、と、そう言ってやらなければ仕方がない。色彩。どうしようもなく、ただ、その赤い色彩の、色彩そのものの鮮度をしか感じさせない、それ。…私。それは、あるいは、私の魂。…光。
光がすべてのものを孕みこんで、私たちのすべてをあまねく救済しようとしていた。私は、その、いつでもあふれかえっていた光にさえ倦んで、神々の光。
寝返りを打っても離れはしないその救済の光の無残な横溢に、もはや最初から遁れ獲るすべはない。私はフエの髪をなぜた。私には、決して共有することの出来ないフエの眠り。固有の。彼女の、彼女のためだけの、そして、意識されない限り、彼女自身には決して知られることのない、彼女の眠り。やがて
苦しいの?
そらされた眼差しの捉えない至近距離の空間に、
きみは
私が血を
なにが
流し続けていることは
苦しいの?
知っている。私、あるいは、
きみは
フエ、
ここに
わたしたち、それ、
わたしは
色彩をなくした翳りは、
ここに
私たちを見つめ続けた。その、
言葉さえ
なにものをも
なく
見出せはしない眼差しのうちに。私は
なにを
その髪をなぜる。フエの。その
見ているの?
指先が
なにを
フエの頬にふれた瞬間に、
見てるの?
フエはなじるような音声を、喉に
何が
立てた。…やめて。
見えたの?
まだ、
きみは
私は眠っているのよ。
ただ、容赦もない苦悶を曝し、一瞬でもはやく、その無際限な苦悶それ自体からの解放をだけ願っていることが、もはや彼女の存在理由にほかならない、そんな気配をあからさまに全身に顕しながら。
午前6時。空はすでにその夜の明けのあざやかな崩壊の色彩を刻み獲ずに、もはやなしくずしの、昼間の時間へとしずかに空の色彩固有の時間に従って、留めようもない雪崩れとしてその色彩を青く破壊させていくしかない悲惨さをだけさらしていたに違いない。いずれにせよ、昨日の朝、老人が死んだ。
フエの、父方の祖父にあたる人間だった。九十歳をこえていた。正確な年齢など、もはや家族のだれもが数えるのを忘れて仕舞っていた。長老の死は、穏かなものだったと家族の人間たちは、そのだれもが言っていたらしかった。フエに。一匹の蚊が彼の身体に注ぎ込んだ出血熱の高熱と、容赦のない身体破壊が、彼の長い生を終には破綻させた。病院に担ぎ込まれて無数の注射と点滴だけを打たれながら、ほんの三日ばかりで老人は死んでいった。Vũヴーというその老人には、私だって親しくはしていた。
言葉も通じない異国の人間だからと言うわけではなくて、私には悲しいという心情もなかった。老人の死は、結局はいつか当然のことにはすぎなかった。それは薄情なのか、世の中のどうしようもない道理を知っているということなのか。とはいえ、喪失感のようなものに、フエが鮮明に襲われているに違いない事はたやすく見て取れた。
私は彼女を慰めた。昨日の夜に。いつもの愛し合う時間のまえにも、その最中にさえも。何の言葉をかけたわけでも、何の仕草さをしたわけでさえもなかったにしても。日本語学校の授業が終って、家に帰ったとき、フエはもう会社から帰っていた。夜の九時半すぎ、開け放たれたままのシャッターをくぐると、ふたつめの居間で洗濯機を回していて、目が合った瞬間に、
なに?
言った。…死んだわ。
と
誰が?
私の
おじいさん。
心は
私を見つめる彼女の眼差しに、
つぶやいた
あきらかに戸惑いがあった。一瞬呆気に取られて、そしてすぐさまそれを羞じた、…と。
そんな。
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