小説《堕ちる天使》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作:Ⅳ…世界の果ての恋愛小説④
堕ちる天使
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。連作:Ⅳ
Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
Οἰδίπους ἐπὶ Κολωνῷ
私は、グラスの破片を片付けて仕舞おうとしたのだった。理沙のために。彼女の柔らかいはずの足の裏の皮膚を、食い込まれたガラスの先端によって、傷つけられないですむように。
ベッドの脇に立ちずさんで、そらされた眼差しは、普通より大きく一面に開かれた、窓の向こうの渋谷の、その果ての、新宿の、それらの風景を見る。
はっきりと、眼差しは捉えながらも、その、鮮明に見えているはずの形態と色彩は、結局はそれが明確ななんであるのか、樹木だとか、ビルだとか、そんな、もはやなにも言っていないに等しい言葉に堕して仕舞うよりほかない。
穢い。
理沙は言った。身じろぎさえしないままに。
聴く。私は、彼女の口から吐れる言葉。…なんか、…。
ね。…
「穢いんだよ」
なにが?
声にはしなかったはずの、その、私の言葉は彼女に聞き取れただろうか?
単純に、空気の震えのような、気配そのものとして。
「どうしようもなく穢い」…んー
美しい。身を横たえて、完全に
…ね。「毎日、なんか」うまく、
理沙。何の力さえ入れられることさえできなくて
うまく、さ。「時間が、」なんか、「…埋まらないから」…言えないけど
身を投げ出して、理沙は。
「…埋まるけど」うまく、
美しい。あるいは、綺麗、…と?
「結局は埋まるけど、でも、」
ただただ綺麗だと、そういえばいいのだろうか?
うまく、…は。…言えない、「…けど、ね?」
私は、半ば息をひそめて
「毎日、時間を」
盗み見しようとしたかのように彼女を、
「埋めるために店、」…ね?「行くじゃない?」
理沙。その皮膚に息遣われる、あきらかな
…じゃん?「…で。」…てか、
理沙の生存の痕跡。いまも、目覚め続けて、
「シャワー、浴びたい」…でも、ね?
冴えきっている、その、存在。目の前に。
「穢いんだよね。」…んっ、「結局は」…と。
見つめた。私は。そして、彼女の
じゃない?(…違う?)「でも、実際遣ってるときは、」
理沙の吐き捨てる、ささやく声を
「そんな風じゃない」…ん、(…と。)
耳を澄まして聴くが、やがては
だ、…よ。「そんな風じゃなくて…」
そのベッドの脇にひざまづいて。
そう…「なんか、情が?」ん?…笑っちゃうよ
聞き耳を立てる。耳を
なんか、…「入ってみたり、」ねぇ、…「さ、」
澄まし。
「微妙に。」ほんとに、
空間に、やわらかく、冴えた
微妙に…「でも、」…ってか、
痕跡を残して、すぐさま
「はっきりとね、」…かな?「やっぱ」
消えていくその、
「感じてるから。」ね?…
音声。理沙の
「こころ…?」う、「って、」…ん「言うの?」
アルト。なんども
なんか、「…そういうの。」…ん、
聴き取られてきたその音色。無数の
「そういう、…」さ。…わかるでしょ。
記憶さえもされずに
「けど」…さ。
棄てられて仕舞ったそれら
ほら。…「なんか、咥えてたり」
音色の実在。
「入れさせてあげたり」ご希望に、…さ。
わからないのは、ただ
そって、「こすったげたり」…さ。
彼女の感情だった。なにを
「チュって」ね?…ほら
感じているのか、なにを
「入れてあげたり、…さ。」
感情は描こうとしているのか、そして
わかる?「そういうときって」…んー
私のそれも同じように、形には
「所詮、…さ。」じゃ、…ない?
なりもしないままに
やっぱね「…ふれあい?」
揺らぎ
「体と体がふれ合うと、」てか笑う「やっぱ」
集中して
んー…でも「心も触れ合うのね」
拡散して
でもでもでも「何のかんの言って」…てかでも
聴く。理沙の
ね、…妬ける?「笑う。」…ね?むしろ
声を。
なんか、…ね「笑っちゃうけど、…想う。」妬ける?
なんども繰り返した気がした。
実際、…「いいヤツじゃんって。」…かな?
同じ会話。
「所詮、」…って、
何度も、初めて聴く
クラって…「本当に、」ふいに
理沙のその声に。
「クラって、」…入るの。
すでに、なんども、明日。
「心に入るんだよね」すこんっ、…
花はどうなって仕舞うだろう?
てか、わ、「…心?」
背後のそこに
「みたいな?」心が、
活けられたまま、ただ
入るって、ん…言うか。「…けどね」でも。
そこに捨て行かれている花は。
…すこん、…って。「帰るじゃん。」…最後。
かれるのか。あるいは
ね?…あとで。…の、あとで。「洗ってやるじゃん。」
その色彩。咲き誇られた
「体。」一緒に、…さ。
純白を。その
また、「客の…で、」
花びらの色彩。それ。
またねって「確かにカスもいるし、カスは」…ね?
純白を、その息吹を、くすませて、
「結局カスなんだけど」
刻み始めるのだろうか?はっきりと
まじで、なんか…「なるよ。普通」
すでに刻まれていたに違いない色彩の破滅の
ふ、「ちょっと、…さ。」…ふうーって。
その明らかな
「いじらしいかなって。」て「…でもね」
顕在。
自然に。…「擬似恋愛とか」て?「まで」
破滅していく花。破滅の
「そこまで行かないけどさ」どう、しよう、も、なく、
色彩。それら。
…さ。「なっちゃうよ」ね「で、」
曝されて仕舞うのだろうか?
「想うの」い。…ぃ、いつも。
その
「結局は、…ね?」
純白の、鮮やかな
でも、さ。「後で、自分の体洗ってるとき」笑う。
鮮度、そして、鮮明さそれ自体の上に
んだけどきたっ、きたなっ「…穢って。」
それ自体にかぶさりさえして
笑っちゃうよ。き、…「やばっ」
滅びていく
「穢っ」…って、き。
色彩。
ね?「…て、なんかね。そう…」
いつ?
「そう想ったりして」
明日。その
で…「繰り返す。何回も」
目覚められた朝には?ならば
「一日に」…でしょ?
いますぐ棄てて仕舞うべきだったのだろうか?
「もう、あんなのに」…でも、「触れたくないって」
その、花々は
いっつも「匂い…あるじゃん」
今、まだ
「嗅ぎたくもないって」っつ、いっつもだよ。いっつ…
理沙を、
洗う。「味とか」口の中。…も。
悲しませてはいない
も、…ね。「もう。も、嫌だって」吐きそう。
まさにその
まじで「でも、」…笑うよ。「次、くるじゃん」
今のうちに。
「客。」すぐに、…さ。
彼女には隠し通して。
「やっぱ、ふれ合うの。」
天使が
すぐに。…「心?」
そらから堕ちてきた天使が、ふいに
「的な?」…また。
持って行って仕舞った、と。
「どう?…なんか」
そんな、笑うしかない
どう?…「ね?」
嘘でも?
き…「穢くない?」じゃない?…でしょ?「決定的に…」そう言った、理沙は表情さえ変えない。
私はひざまづいたまま、その、だらしなく、開かれた足を広げて、身をくの字にまげて、その、理沙をびっくりさせないようにそっと、ゆっくりと、そして、ひそかに、それに口付けるのだった。
そこに。
あるいは、つまりは、許しの口付け。…ね。と。
ね。
大丈夫。君は、…ね。
ね?
許されたから、と。
…ね?
誰に?…何の権限があって?…誰かを、許すべき権限も、許し獲る権威さえないままに、許すしかなく、許されるしかなく、許しあうしかなく、ならば、明らかに何の意味さえない行為に過ぎないそれを、それらを、そして、私は彼女を許した。
理沙を。
イエス・キリストかなにかであるわけでもない私の
唇に触感がある。
それはあるいは、許しの
体温と。
口付けなどではありえずに、たんなる
嗅ぎ取られる、生命体の、生き生きとした、生の証明。
いつもの前戯。
嗅ぎ取られるのだろうか?
ただの
私も。私が決しては感じ取りはしない、わたしのそれら、痕跡の群れを。何の許可もなく、誰の承認もなく、ただ、撒き散らさざるを獲ないその。
単なる、その
痕跡。
発情したにすぎない男たちがかわるがわる
痕跡どころか、これからも、いのちの崩壊のとき、それをさえ通り抜けて、こまかな分子に解体されて仕舞うまでの、生の長さを、死との接触をさえ通り抜けて、ここに、存在しなければならない痕跡。
彼女に与えたと同じ
私はここにいいた。理沙と同じ空間の中に。
…単なる
為すすべもない。
なにも、結局は許されもしないままに
許しあうしかなかった
私たちは
ね。
ほら。…と。
不意の甲高い、はしゃぎ声を立てて理沙は上半身を起こすのだが、「…ね。」
自分のそれを、指先に開いて見せた。
「ほら」…なにが?
「ね?」
…ん?「ほら。…」
笑う。理沙は、声を立てて、微笑んだ私の顔をのぞきこみ、「…じゃない?」
…ね。と、理沙は言う。
私も、…笑う?
…ね。
笑う。
答えて、ん?と、つぶやかれたその。
私の鼻が立てた声は、何だったのか。
何かを肯定したのか。疑問に伏したのか。
笑い、瞬く。
声を立てて。
聴いた。
私たちの声が、空間に響きさえもせずに、微妙に触れ合って、消え去っていくのを。
*
* *
いつものように、そして時間は消えていく。
大量にあったとしても、持て余されて濫費されるに過ぎないに違いないそれらは結局のところただそこにあるだけで、きらめきさえもし獲ずに消え去るにまかされるほかないのだが、色彩を濃くしていく午後の光が、私たちを追い詰めていく。
いずれにしても、夜が来れば、理沙は彼女の部屋から出て行って、そして、いつも彼女の《穢い》仕事にふけるしかなく、時間を持て余すいまの私たちは、さらに、時間を濫費するしかない。
追い詰められていく時間の経過の中に、そして、やがては夜が明けることなど知っているし、にも拘らず私たちがどうしようもない、泣き伏したくなるほどのいたたまれなさばかりを感じて仕舞ったのは、なぜなのか。
うつむいて、自分のそれを覗き込むようにして、不意に、声を立てて笑い、理沙は、何か企んだ笑みをにじませて、私に眼差しをくれて、何も言わないままに、
…なに?
そう言った私には、言葉も返さない。
ね。…笑う。
なんか、…さ。
…ん?「笑っちゃう」言った。
理沙は。
想う。私は。
明確な意味を結んだ言葉はいつでもいかがわしく、そして、意味さえ結ぼうとしない野放図に濫費された言葉らしきもの、それは
言葉など
単なる息遣われたノイズに過ぎない。
たぶん、そのどちらをも、私は愛することなど出来ないのだった。
明確に意味を持った言葉など
理沙の指先で、気まぐれにいじられるそれの、その、形態。美しいとは言えず、何度見ても、見飽きこそしろ、
まったく無意味だった
見慣れることのないそれ。
私が異性だったからなのだろうか。それとも、
ふたつのものが愛し合うさなかには
そんなものなのだろうか?同じようないびつさを晒しているに違いない唇は、すでに見尽くされて、ときにピンク色や、赤で、あるいはもっと濃い黒ずみさえ持った色彩によって、意図的に彩られなければならなかったというのに。
むき出しの色彩をだけ曝すしかなくて、…ね。
と、そう、何かの同意を求めながら理沙は、そして彼女自身、それが何の同意を求めたそれなのか、知りもしないことなど明白であるにもかかわらず、声。
なにか言いかけて、発話されて、あ、と、わ、と、ん、の、その中間にたゆたうしかなかった音声を、鼻に、理沙は発して仕舞った後に、見あげられた上目使いの眼差しの、そのまぶたに唇をくれた。
ほんの数秒だけ。
短く。
私のそれにふれて、戯れ、理沙は見る。ゆっくりと、それが侵入していくのを。
それが、どんなに過剰な比喩を用いても、一つになるということをは決して意味し獲ないことは、誰でもすでに、気付いて知っている。
たんなる交錯にすぎないそれ。
ただふれ合って、そして、にもかかわらず絡まりあいもしない。腕と腕のようには。唇と唇のようには。
そうなるようになっているから、そうなるに過ぎないもの。口が言葉を吐くように。口が物を入れて、噛み砕き、舌が味覚を感じ、喉は飲み込んで、胃は消化して、肛門は排泄する。それら、そうなるからそうなるに過ぎないもの。口は息を吸い込めるようになっている。
吐き出せるようにも。
口は異物を嘔吐するようになっている。
異物を飲み込むようにも。
煙を吸い込むようにも、白い薬物を舐めてみるようにも。
咳き込み、そして、あるいは唾を吐き捨てるようになっている。包み込まれるように。一方的に毛羽立った、白いほうが、褐色の、つるつるしたほうに。
いつもの。
そして、それが愛の行為だというのなら、…なんなのだろう?むなしいとさえ言い獲ない。
私と理沙の、いたずらじみて微笑みあうしかない眼差しの先の、いつも、それ。理沙が終に、声を立てて笑って仕舞ったので、私も、声をさえ立てて。
笑う。理沙のかみの毛を撫ぜた。かすかに目を閉じて、まぶたを閉じたその無防備を装った表情を、理沙は、曝した。
光の色彩。
斜めの。
…青。
細かく言えばきりもないが、…ようするに、青。
もうすぐその色彩は、ひょっとしたら紅蓮の、破滅的な色彩に染まって、一気にその鮮やかさを失っていくに違いない。
理沙の、不意に伸ばされた指先が、私の腹部を撫ぜた。
堕ちる天使
見て。
そう、不意に、何かに気付いて首を上げた理沙が言った。結局のところ、ふたたび、なしくずしに始まったそれが、やがては終って仕舞ったそのあとの、二時間近い、長い、ながい時間の浪費の、その尽きかけた時間に。
私のからだの上で。わたしは見た。横に無理してねじられた理沙の、その横顔。
「…綺麗だよ」
言う。つぶやくのではなくて、はっきりと。そこにはいない誰かにまで、聴こえることが望まれていたかのように。
はっきりと、あきらかに。そして、私にはわかっていた。理沙が何の説明もくださないうちに、彼女がその眼差し一杯に、捕らえているものの、その色彩。
夕焼ける、もはや紅蓮の空。夕暮れの時間の最期に、燃え上がるように空の一部が曝した、その。
理沙の、窓のほうを向いた横顔が、正面からその窓越しの光に染まっていた。
褐色の肌はオレンジ色に染まり、かすかに首を動かすたびに推移する影との複雑な、ときほぐし難いグラデーションを、私に捉えられた眼差しの中に曝して仕舞い、振り返って私を見て、何か言いそうになった理沙の頭を羽交い絞めにして、奪うように私は口付けた。
彼女が何か言い出す、その言葉が生れ堕ちる前に破壊して仕舞う、ただ、それだけのために。
2018.08.20.
Seno-Lê Ma
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