小説《ラルゴのスケルツォ》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作:Ⅲ…世界の果ての恋愛小説⑧/オイディプス
ラルゴのスケルツォ
Scherzo; Largo
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。連作:Ⅲ
Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
Οἰδίπους ἐπὶ Κολωνῷ
背後の窓から陽光が、おだやかに差していたはずだった。
午前の、あきらかに朝のそれに過ぎない光は、ただ、かすかな冷たさを持って、外は冬だったに違いない。
ガラスを夥しい結露がぬらして、ときそれが線を引く。みち連れにされて一緒に墜落してひとつの曲がった線分になって、そして。流れ落ちるそれら水滴。
室内に付けらた暖房が、私の苦手だったその不自然な暖気が肌を煽って、私は頬をかすかに上気させてはずだ。
目を合わせたまま離そうともしない、美紗子のその沈黙に、私は耐え難さを感じながらも、十四歳の?
あるいは。
十三。
…3.5
その私はいますぐ学校に行く気にもなれないので、いたたまれなさの中に、気付かない振りをしてただ時間をやり過ごそうとする。
傍らに立ち尽くしたようにして、何を?と。
美紗子。
見ていいよ
何を考えているの?と、問いかけているに違いに美紗子の眼差しのすべてに対して、何を?と。
見たいなら
問いかけたい私の心の動揺には、美紗子は気付くことなどあったのだろうか?
嗅いでいいよ
むしろ、美紗子は加害者でさえありえずに、明らかに被害者に過ぎないことは、私はすでに知っていた。私には、結局は
嗅ぎたいなら
誰も彼もが被害者に過ぎず、そして、彼らに対する断罪はいかにしても不可能だった。
いいよ
由香は、その事に気付いていただろうか?
ふれたいなら
もはや、心の震えも、わずかのおびえも、
ふれれば
おののきも、
そっと
ためらいも、
しっかりと
逡巡も、
なすりつけるように
葛藤さえなくして、ただ
なじるように
私への懐疑と憎しみに酷似した、要するに単なる執着にまみれた、私を見つめるか、決して見つめようとはしないか、その狭間にただただゆれるしかないその存在。
言えばいいのに、と想った。
私に。例えばひざまづいて、好きです、と。愛しています。ですから、私を愛してください。せめて、哀れんで、なにか、施してください。
ください。
わたしに。
いのちを。
すべを。
なんとかいきていく、その、すべを。
結局のところは、彼女が望んでいることはそれ以外にはなくて、あるいは私にも?例えば理沙に対して。
理沙は、私に。
お願いです、と、ひざまづきさえせずに、あなたの望みをかなえるために、と、そのありもしない二人の真実を構築して、それに酔いしれさえして、浸りこんでさえいた美紗子は、留保なく容赦もない嘘つきに過ぎなかった。
彼女自身には気付かれさえしないままに、美紗子の塗れた嘘が、そして由香がそらした眼差しのそこには彼女が見つめるべきものは何もない。
由香は、何も見つめ獲ない空白の中に、そこには決していない私の存在の、その息吹を執拗に感じ取る。眼の付いてなどいない、その背後の、あるいは横面の、皮膚、あるいはかみの毛の毛先で。…ねぇ。
と、そう言ったのは、十四歳の放課後の、その智子という名の少女だった。
智子と、たしか、夕華という名前の少女と、そしてもう一人の、名前など忘れられて仕舞った、小柄で妙に丸っこい、はしゃぐしか能のない少女の、その集団に呼び出されればすぐさまに取り囲まれて仕舞って、挌技場の後ろの、山の斜面にはぬれた質感がある。
その大気には。周囲の全体には。…雨が。つまりは。
目覚めた朝からずっと午前中を通して降り続いた雨が、昼下がりには上がって仕舞って空一面を、青空へと崩壊させて仕舞った空には、雲の名残さえもないままに、大気の潤いだけがその日雨が降ったことの名残りを残したのだった。
かろうじて。
彼女たちの背後に、横を向いて、いじけたわけでもなくて、棘さえ曝しもせずに、ただただ被害者としての姿を見せつけた由香は何も言わないままに、そこに鮮明な自分の存在さえ消して仕舞おうとしていて、
「どう、想ってる?」
そう言った、智子。
苗字は忘れた。確か、原田、とか。いずれにしてもそれはいまや旧姓になって仕舞っていたに違いない。彼女が、男にありつけてさえいれば。
地味な、背が高いだけの少女。骨の太さが、透けて見えた。
由香とは殆ど、付き合いもないはずのその少女たちは、「…ね?」
言った瞬間に、私に名前を忘れられた少女が自分で鼻にちいさな笑い声を立てて、私は微笑む。
何を?と答える私に、責めるような眼差しをくれたのは夕華だったが、「…最低」さいっ、…てえー。と、その
さいっ
音声を。
…て
聴く。
ぇえー
私の眼差しは、夕華をは捉えないままに。
ちゃんと、やさしくしたげなよ、と、名前の忘れられた少女が、吐き棄てるように言って、そして笑った。
…誰も助けてくれないから、と。
由香はそう想っていたに違いなかった。誰も。
見えますか?
友達も、だれも、結局は誰もたすけてはくれないと。
わたしが
いま、この瞬間にも。寧ろ自分自身に対する屈折した屈辱に塗れて。
あなたが傷つけた
その痛さが、私には手に取るようにわかり、それはいつかの
わたしが
私の実感に他ならなかったようにさえ思われたが、笑う。
声を立てて笑う笑う私に、智子が聴き取れないほどの舌打ちをくれて、「…ねぇ、」…なんでさぁ。
聴こえますか?
何?
わたしの声が
言って、彼女を正面から見つめた私に視線からは、
泣き叫ぶしかない
智子は目をそらした。その瞬間、私は彼女がいだいていた私への気持ちに気付いた。嫉妬と、
わたしの
自己破壊欲に近い、追い詰められた憎しみの手前のどこかで透明な、しらけた感情にみたされて、智子はその関係がいますぐに綺麗に破綻することだけを期待し、確信し、求めながら、
声帯さえ
私と由香とをくっつけて仕舞おうとしていた。
掻き切られた
その不意の呼び出しは、
わたしの
由香が求めたのではなくて、智子が、むしろ強制したものなのかもしれなかった。…話、つけちゃいなよ。と、たとえば。
そのときには、まだしも他よりはかわいらしく、どこか大人びて想われた由香の顔や身体の佇まいは、いま、そのままに眼差しにふれたなら、私にどんな印象を残すのだろう?
泥臭いだけの、田舎の単なるガキ、なのだろうか?
持て余したように、夕華がイラついた気配を撒き散らした瞬間に、「二人で話させてよ」と私は言ったが、そもそも、二人に何ら、関係などなかった。
ただの戯れが、不意に交錯して仕舞った瞬間があったに過ぎず、たぶん、由香はそれがそうであることを、認めようとはしていないのだった。為されて仕舞えば、偶然は必然でなければならない。
由香は何も言わずに、向こうのほうだけを、かすかに瞳孔を開かせた眼差しに捉え続けていたが、明らかに、それを拒絶したがっている智子は、むしろ何も言わずに、ややあって、…いいよ。
「けど、…さ」何を見ていたのだろう?
由香の眼差しは、その、そらされ放置された眼差しで、ぬれた草の山際の斜面の、「…なにを、…ね?」その水分の停滞し続ける潤いの気配を?「なに、はなすの?」立ち去り際に振り向いて、言った智子には焦燥があった。なぜ?
私は想う。
どんなに求めても、自分のものにはならないのに、そんな事自分でも分かってさえいるはずなのに、なぜ、求めあぐねて焦燥するの?
…容赦もないほどに。
好き
むしろ、死んじゃえよ、と、想った私は、つぶやく。「…ありがと」
お願い
微笑んで。
好き
…なにが?智子が言った。泣くにさえ至らない、その。あるいは絶望。
大好き
「いろいろしてくれて、ありがと…って」
死ぬほど
悲しみの執拗さに、顔さえもしかめず無表情を曝して、一瞬私を抱け見つめた後に、立ち去る智子は
好き
何をするのだろう?
お願い
一人になったときに。
好き
わたしを想いながら?
結果として自分が、穢らしい同級生にくれて遣って仕舞うことになったのかも知れない私の、次の日に自分が見出さなければならないかもしれない十数時間後の未来におびえながら。…いいのに。と。
壊れて仕舞えばいいのに、と、私はその静かな、無言の、何事もない、灼けつくような焦燥にだけ駆られた少女の後姿に、すでに壊れているなら。
好き
壊れて仕舞えばいいのに。
大好き
想う。…なぜ。と、私は自分自身に戸惑いながら、フォークをはねつけて、不意に立ち上がって、そして食卓を出て行こうとする私を、美紗子は無言のままに咎めた。
手もつけられていない目玉焼きが醒めかかって、もはや湯気さえ立てないで、匂う。
油の。…どうしたの?と、そう言っているに違いないのに、美沙子の私を見つめる眼差しはただ私を見つめるばかりで、その、咎めだてる表情には、何を訴えかける色彩さえない。
振り向いて、美紗子を見つめても、その、何の反応をも示さない眼差しに、戸惑う。
私は。
いらない、と、言おうとした。
ふたたび指先が目玉焼きの、その平皿の縁に触れて、数ミリだけ動かしたが、それは拒否の意を伝える用をは足したのか?
それとも、まったく無意味だったのか。
いきなり、彼女を見つめなおした私を、美紗子はひっぱたいたのだった。「何がしたいの?」
言った私に、由香は反応を示さない。
あえて、ではなくて、目の前の、震えることさえ出来ない被害者は、反応を示し獲るいかなる可能性さえ、もはや持ってはいないのだった。
ひざまづけばいいのに。
「…やめて」
どうしても欲しいなら。
なに?…そう、振り向きもせずに、接近しようとしてもいなかった私を押し留めようとするに由香に、「なに?」
こないで。
由香は言った。
「なんで?」
こないで。
何が欲しいの?言ったとき、私は侮蔑じみた笑い顔を、彼女に曝していたに違いなかった。「頭、おかしいの?」
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