小説《堕ちる天使》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作:Ⅱ…世界の果ての恋愛小説⑤
堕ちる天使
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。連作:Ⅱ
Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
Οἰδίπους ἐπὶ Κολωνῷ
まま、と、不意に繰り返して、振り向き見た私を見ようともせずに、おかーさま、その、ママ。無為にすぐされているに過ぎない活けられた花の形態にだけ注がれた眼差しは、りー、ざ。何を捉えていたのだろう?
その時には。
だれ?
りー、ざ。
おかあさん?
りーざ、さん。「りー、」と、
りー、
「…ざ」繰り返した私の「りー、…」
「…ざ。」唇の動きを、理沙は諦めたような眼差しに、見つめていた。理沙、という彼女の名前の必然性が、なんとなくわかったような気がした。
「お母さんの趣味が、生け花だったんだよ。」言って、そして、殺された母親。十二歳のときに、と言った。十六歳で、フィリピンで理沙を、あるいは Lisa を生んでから、二十歳すぎた頃にその日本人やくざのお目に留まって、日本につれてこられて、そして広島のフィリピンパブで、田舎のお金持ちたちを食い物にしてやりながらも、二十八歳のときに真鍋悠太という名の当時45歳だった独身男に絞殺、遺棄されて仕舞うその。
発覚後に、撮り貯めされた十本近いリーザとの行為のVHSヴィデオは押収されて、その販売用のダビングテープは段ボール箱2箱ぶんくらいだった。
真鍋の実家は岡山市にあったから、会社のある福山市内の独身者用アパートを借りて住み込んでいた。
真鍋は独身で、女っけもなければ奥手だったが、そんな事件を起こすようには思えなかったと、その、地方の戸建て分譲会社の同僚や、学校時代の同窓生は語った。
店で口説いて連れ出して、両者承諾の上で何度も行為に及び、リーザは馬鹿な客だと同僚に言って笑っていたらしい。
面白いほどにお金をくれるのだ、と。ろくに、お金持ちでさえないくせに。
明日の金にも不自由するくせに。
真鍋の言うところに寄れば、真鍋以外の男にも肌を許したことをリーザがほのめかした瞬間に、激高して仕舞ったらしかった。
首を絞めて殺した、そのあと、復活しないために、もう一度ビニール紐で、喉の骨が複雑骨折を起こしていたほどに何度も締めた。
リーザはキリスト教徒だったから、復活するかも知れないと想った。そう語った。
離れて遺棄するのは忍び難かったので、近くの、広島城の中の茂みを深夜掘り起こして、埋めた。
発見されたとき、死体は死後二週間立っていた。土は、まだその肉体を十分には土に返していなかった。
掘り起こされたその遺体は、解剖にかけられた。彼女の身寄りは、理沙しかなかった。
店の従業員がそれを拒否したため、遺体確認は子供がした、と言っていた、だから、それは、理沙に違いなかった。
記憶の中に在った。
子供の頃、当時の報道番組で毎日繰り返し放送されていた、その《福山市フィリピン人バラバラ事件》の詳細は。
なんとなくの記憶に過ぎないにはしても。
涙の向こうに震えて、その形態を乱して仕舞う理沙の形姿を、私の眼差しが追う。やがては諦めたようにバスタブから身を出して、理沙の前にひざまづく。私は、そしてはっきりとは見定められないその、目の前で、白くくらんであざやかに乱れるむちゃくちゃな形態としてのそれは、そこで相変わらず荒く息遣ってばかりで、目を見開いてむき出したままに、突き上げた顎が上向かせるがままの、その、うつろな視界を震わせているに違いない。
顎先がのけぞるように尖らされて、下唇が痙攣する。
私は彼女を羽交い絞めして抱きかかえ、キスをくれた。長い長い、そして、こまかく痙攣してばかりで、何の反応さえも示そうとはしない理沙に。
くれる。
涙を。涙にくれて。
私は。
その。
涙。
あるいは、滂沱の。
ながれるがままに。
*
* *
フエの、床の上にそのまま横たわった身体に、開け放たれたシャッターを通過した、その朝の光が触れて、やわらかい陰影の中に、空間はその形態をうがたれる。
あるいは空虚な拡がりの中に。
視界のに、まったき、取り返しもつかない存在そのものとして。
何度も通り過ぎたバイクは、だれもこちらに目線を合わせようとはしない。あるいは、あわせているのかもしれない。それに、私たちが気付くことが出来ないだけだったのかも知れない。
いくつかの、バイクの騒音。エンジンの。そして。
かったるくまわる車輪の。
いずれにしても、目を閉じるとさえなくフエは向こうの狭い通りにそのまま目線を投げ捨てて、にも拘らず、彼女がかならずしも何かを見ているわけではないことなど、すでに、気付いている。
見る。庭先に、その道路をまでも、散った庭先のブーゲンビリアのむささきがかった紅が、ただ色彩として乱れ、日に当っていた。
その光に、きらめきさえさせられながら。
まばたき、あざやかな…と。
なんという、鮮やかな、と、私は想う、
フエの頭を、見向きもしないままに探り当てて、終ったあとで、何も言わなくなって仕舞った彼女の額に、指の腹を当てる。
…いずれにしても。
そう想った。
理沙が血を吐いたときに。浴槽の中、転寝を始めた理沙の頭を、取り立てて意味があるわけでもなく撫ぜてやり、そして、やわらかくて、執拗な眠気が眼球の奥のほうの至近距離から進入してきて、あとは為すすべもなくて、目舞う。
なにが、目舞ったでもなくて、そのにぶくて甘い感覚に対する抵抗力が終に奪われようとした瞬間に、不意に屠殺された動物のような唸り声を喉に立てて、理沙が吐いた血は私の胸元から、やがて腹部に、たれ堕ちて下腹部をぬらし、吐く。
血を吐いて、身を曲げ、えづき、目を剥く。
反対側にのけぞって、ときに、そして髪の毛が乱れる。
死んだら?
私はつぶやく。頭の中で。死ぬしかないよ。
…違う?
指は震えている。
彼女の、細い。
フエの指先は
行き場所などない。
そしてかすかなふるえを見せながら
すでに、ここが終着点だから。あるいは、…。
床の御影石の上を掻いた
…違う?
そのときに、私が
それを過ぎた場所。
たてた笑い声を彼女はたぶん
…だろ?
聴く
あるいは。…大丈夫?
…と。「大丈夫?」とだけ口に中で私が…ねぇ。つぶやいたとき、その「お前、ほんとに…」呟きを耳にした私は、私が「だいじょうぶ?」久しぶりに声を発したような気がした。まともな、人間らしい声を?
だい、じょ、…ぶ。
理沙は、そして。
…じゃ、ない。…かな?笑う。
彼女も、声を立てて笑った。
「死んじゃうかな?」
光
「いつ?」
まばたかれるしかない
「死んだら、」
その
「お前、」
光
「…ね。」
直視されずに
「いつ、」
いつも
「わたし、死んだら、さ。」
だって
「死ぬの?」
直視できないから
「誰が、するんだろ?」
まぶしくて
「いつ、」
斜めに
「葬式。」
若干の
「死にたい?」
その
「誰が私の葬式…ってか」
傾きの中に
「雨の日?」
光
「墓、」
見留められた
「晴れの日?」
光は
「つくるの?」
そして
「台風?」
ふれていたのは
「死体の始末するの?」
皮膚
「いつがいい?」
私たちの
「山の中に棄てちゃうと犯罪だよね?」
曝した
「俺、」
あるいは
「やばくない?」
空間の中に
「雨の日がいい」
曝された
「死にたくない」
与えられる
「…春。」
温度
「なんか、」
その
「桜とか、」
感じ取られた質感に
「死にたくない。」
想い出されたのは
「咲く前。」
いつかの夢
「生きてる限り、死ななきゃいけないんだけどさ」
浅い眠りの
「まだ、」
その中で
「やばいよ、」
朝に
「寒い頃」
崩壊していく
「やばい。」
その
「冬の終わり」
知覚されなかった
「死んだら。」
空間の中に
「雨の中で」
下から上に
「まじで、」
吹き上げられていく
「…朝。…朝がいい。」
静かな
「…ね。」
上昇
「今、しねない」
音もなく
「まじで、」
無数の花々が
「春じゃないから。春はもう、」
ただ、散乱する
「行き場所なくなっちゃうよ。」
色彩の
「終っちゃったから」
氾濫として
「…ね?」…違う?
いつでも。
いつでも、理沙は留保なきまでに綺麗な笑顔として笑うので、いつも、彼女が本当に笑っているのだとしか想えなくなる。
花々は
あるいは、本当に笑っていたのだとしても。
無際限なその空間の中にただ
上昇していくばかりで美しいとも、あるいは綺麗とも
想わないままの私はそれを
見つめるしかない
激しい嘔吐のために、目に涙を一杯にためて、ときにこぼして仕舞いさえしながらも、華奢な体を骨格ごと揺らしながら声を立てて笑う。日差しが差す。昼間しか会わない。
夜と早朝はいつも、他の男のそれをくわえこみに出勤するのだから。
店がはねたらときに外で待ち合わせて、渋谷のクラブを回ってみる。
時間が過ぎて行く。
渋谷。…早朝が好きだった。夜の時間の留保なき終焉の、あまりにも明晰な兆しが、路面から始まって大気中を満たしていた。希薄なままに。
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