小説 op.5-03《シュニトケ、その色彩》下 ⑤…オイディプス王
今回のピリオドで、《下》は終わりです。
最初に書きましたが、ソフォクレスの《オイディプス王》がモティーフになっています。
《下》の終わりで、《上》の頭にたどり着くので、最後で最初に戻る、と言う形になっています。
このあと、短いエピローグがついて、とりあえずはこの小説は終る、という形になります。
2018.07.25 Seno-Le Ma
色彩 下
…オイディプス王
Oἰδίπoυς τύραννoς
生まれた子どもが双子だったということと、Linh が朝から晩まで吐いてばかりいるということを聞かされたとき、Hiều はニャチャンの親戚のホテルを手伝わされていた。ことの始末が付くまではダラットに帰ることはできなかった。ビルに邪魔されて見えない向こうの山脈にかかった雲の上のあの朝霧に包まれる町で、病んでいく Linh を思った。筋弛緩症の、時に自由が効かなくなる手でバイクに乗って、うねった道路を崖に突っ切ったとき、Linh が見た風景はどんなものだったのか、翻った足の下にコーヒーの葉の無数の広がりを見たのか、頭の下に松の樹木の空を穢してやろうと企んだかのような、暴力的な侵略の群れを見いだしたのか。Hiều はダラットを降りるとき、周囲の岩石のあたまの遥か上にまで広がった、鋭角の抽象的な色彩の連なりを見上げた。斑な色彩が美しいとも穢らしいともいえない無機質な傍若無人さでそれ自らを曝し、草花が彼らをしずかに侵食していた。食いちぎられて砂化されられながら、そして夥しい草花は小さな花々を点在させる。
Sài Gòn から帰ってきた Hằng ハン と Sủy スイ は秘密だと言った。誰にも言ってはいけない。日本語の勉強を薦めたのは Hằng だった。二十歳になる2人は十分に美しく、一年ぶりに見る Trang が醜くはないことに Sủy は驚いた。眼ばかりぎょろつかせた、痩せた無様な少女の記憶しか彼女にはなかった。Sủy が泊まったホテルの部屋の中で彼女と話していると、ベトナム人の大柄で町を歩く中国人や韓国人のような格好をした男が入ってきて、Sủy が大袈裟にはしゃぎながら部屋を出て行った。ゴルフ場から帰ってきた日本人たちの部屋に行ったのだった。彼らとは Sài Gòn で会ったといっていた。カラオケ=ナイトクラブの客だった。金払いが悪いくせに、と、Hằng が言う、中国人のように体ばかり求めるが、時に射精もしないで萎えてしまう。声を立てて笑い、目の前に立っているベトナム人と自分が何をすればいいのか、何をすることになるのか、Trang は気付いていたが、初めて会うその男には何か見覚えがあった。Âu に告白されるまで、その男の名前は知らなかった。名前を名乗らなかった男を Trang は頭の中で、とりあえず兄の名前を援用して、Âu とだけ呼んでいたが、Hiều はそのぎらつた眼差しの少女が、何も自分に対する欲望に飢えているがためにぎらつかせているいるわけでもなくて、単に大きい眼がそんな風に見せているだけだと気付いたときには彼女の体は自分の下にあった。抱きつこうとする逃げ出し、逃げ出しても声さえ立てず、Trang は自分が何をしなければならないのか知っていて、それを受け入れるかどうか、その下されない決定の猶予を楽しんでいたのかもしれなかった。ベッドの上を撥ね、立ちそうになる笑い声を我慢し、息を乱し、自分を見つめる見開かれた彼女の眼差しを Hiều は見詰めながら、意識しないまま振り上げた Âu の指先が自分の頬を不意に強打したときに、まるでTrangはありえない暴力になぎ倒されたかのように床に倒れ伏す。何が起こったのかわからないままに Hiều は無抵抗な彼女をベッドに乗せて、Âu が自分を******。壊し、穢し、もう二度と生きられなくするために。彼は自分の全てを駄目にするため****、そのたびに自分ひとりが破壊された。その実感が、見開い眼差しの内側に目覚めていて、Trang は自分がしていることを信じられなかった。つまらない女だった。頭がおかしいのに違いないと Hiều は思ったが次の日、町を案内してやった日本人が彼にわたした一枚だけの一万円紙幣がたかが数枚の50万ドンにしかならなかったときに、うしろを見られた気がした Hiều は自分でも気が遠くなりそうなほどに激怒した。Ma が帰ってこない内に、Âuに連絡された Trang はバイクを走らせる。海岸から離れた安いいホテルの部屋で彼が Trang を呼んでいることは知っている。夕方の日差しが街の空を斑の紅に染めて、その見苦しいむごたらしさは Trang を惨めな気持ちにさせた。長くなった影が止めたバイクのそれと重なって、アスファルトに這う。階段を上がって、受付には誰も居なかった。部屋番号は知っていた。三階まで上がって、その部屋をノックするまでもなく、開け放たれたドアの向こうにはÂuが上半身裸でテレビを見ている。付けっぱなしのテレビの音声が耳の中に木魂し続けて、自分をだけ裸にしてしまった Âu にドアを閉めるように言ったが、誰も来はしない。誰も居ないから。この階には、そんな事は Trang も知っていたが、飲んだビールが自分を上気させているのに Hiều は気付いている。目を閉じた彼女のまぶたに顔を覆い被せて、汗ばんだ彼女とその乱れた髪の毛の匂いを家具が、彼女の名前などまだ知らない。いつの間にか巻きつけられた手のひらが自分の首を絞め、時にじかに触れられる頚動脈が悲鳴を上げそうになる。何度も息を切らしながら腰を振って、誰も帰ってこない内に終わらせてしまおうとするが開け放たれたままのドアの向こうに見える通路に人影などまだない。飲みすぎたアルコールが明らかに Hiều の**を阻害して、**しそうになっては息絶えたようにしそこなう。何度も繰り返させるその感覚を、何どめかに感じようとした瞬間に気が遠のいて、視界は白濁することなく色彩を失う。酒臭い失心した Âu を押し倒して仰向けにひっくり返したとき、Trang は首を絞めて殺してしまったに違いないと確信したが、匂いをかぐために近付けられた鼻先が彼の息遣いを捉える。殺す気はなかった。彼は死んで居なかった。自分がまだ誰も殺しては居なかったことにおののいた。一瞬、何を迷うでもなく迷った透明な無色の時間がすぎて、気が付いたときには彼女は Âu の首を絞めている。息絶えたことを確認してさえも、その後数回首を絞めた。生き返られることが不安だった。明らかに死んでいるに違いなかったが、失心した内に死んでしまった Âu の死体を殺したという実感を、なかなか得ることができなかった。Âu の告白を聞きながら、自分のやったことを了解しなければならないのだが、Trang はそれが億劫で仕方なかった。考えられるべき未整理な部分があまりに多く、Trang をただ憂鬱にさせた。橋の下に、バイクの群れが止まって、何か彼らは一気に離し始めた。同じベトナム人の、人より年上の集団だった。ふとっていて、明らかに自分よりその美醜において劣っていたことを確認した。Maが帰ってこない日に、部屋を抜け出して、そのまま転寝するテレビの前の Thiên の横を通り過ぎる。Âu たちの部屋に行って、彼の間に寝転がり、裸のままで眠っていた二人を起こす。Âu に絡まりついて、Mỹ が自分の尻を引っぱたいたことに気付いていた。萎え切って、かさかさする Âu のそれが、彼女たちがもう終わっていたことをふたたび感づかせた。部屋に入った瞬間から、そんな事はすでに気付いていた。かたわらでThanhが笑いながらベッドから這い出して、壁際に座り込み、Trang に笑いかけた。いつもこの少年は自分たちを見ていた、と Trang はいまさら、何度目かに気付く。自分たちのすべてを知っているのはあるいは彼かもしれない気がしたが、日差しに眼を奪われる。晴れてしまえば直接、熱帯近くの鮮烈な日光が肌に、目に、髪に、それが触れ獲るあらゆるものに素手で触れる。幸せではないが、破綻など何もなかった。なにものも破綻しえないのかもしれなかった。Thiên も Tuyết も何かの努力をしようとしていた。それをÂuは知っていた。いつもお互いの眼差しがあった。何かを支えようと努力しあっていたが、そんな必要など最早無いことにも気付いていた。Âu も Mỹ も Trang も、何かに満足しているわけでもなく、何かに飢えているわけでもなかった。外国人にたぶらかされた Trang の将来だけが心配だったが、自分たちにまともな将来がないことも事実である気がした。
夜の七時、Âu が帰ってきた時カフェはすでにしまっていて、Thiên はリビングスペースとガレージを兼ねた空間に、寝転がっていた。テレビはつけっぱなしだった。Tuyết が応接椅子に座って果物を剥いていた。その横に Mỹ が顔を上げ、Âu の帰宅を確認した。奥に入って手を洗い、顔を洗った。髪をかきなぐった。ヘルメットの押しつぶされたそれが不快だった。リビングに戻ろうとしたとき、Mỹ とすれ違いそうになり、不意に彼女を抱いた。誰も見てはいなかった。壁の向こうだった。なぜ、隠されなければ為らないのか、疑問が芽生え、突き刺さった。自分たちの問題が、彼らの問題でなどあり獲るはずがなかった。そのまま Mỹ を羽交い絞めにして、彼女の少しの抵抗に、なにを?と Mỹ は思う。今ではない、と思った。いずれにしても今日ではない。Âu の腕の中でもがいている Mỹ を彼らは見いだし、眼差しは彼らを見上げ、Mỹ は気づかれた、と思った。見られた彼らに逃げ場所はなかった。声はなかった。重なる息遣いだけが交錯した。Thiên の眼差しが、そして、Âu が Mỹ の体を明らかに男としてまさぐって、彼女に口付けた時に、彼はなぜ Âu がそれを知っているのか疑問に思ったその刹那に、確信されたのは Mỹ の裏切りだった。彼女が密告したに違いなく、女としても娘としても、Thiên は今彼女に裏切られていた。いくつもの感情が絡まりあって、同時に彼を鼓舞したが、手に奪った果物ナイフを Tuyết が奪い返そうとしたときに、悲鳴がたった。誰もが、刃物が Tuyết の腕を傷つけてしまったのを知った。感情が髪の毛をかすかに震わせることを Mỹ は初めて知った。手遅れだった。Thiên は彼女を刺してしまったことに気付いた瞬間に、寧ろとめどなく全てに崩壊されてしまう前に、Thiên が Tuyết の腹を刺したのを Mỹ は見詰める。間違っている、と思う。あなたが彼女を殺しても仕方がない。誰にも、何の意味もない。Mỹ の視界の先で Tuyết が身をよじるが、声さえ立てられないまま、もうすでに、と Mỹ は思い出す。彼らは死んでしまっていた。私が、殺してしまったから。思いあぐねた数秒の後、握られたままの刃物を自分の喉につきたてた Thiên に、浅すぎる、と Âu は思う。その、死に切れない浅さが寧ろ Âu をおののかせる。あなたが、Âu は、私に殺されたいなら、思った。ナイフを手にとって、陸に上がった魚のような Thiên の口は、今、呼吸するのを忘れている。眼差しに直視されたまま Thiên の喉に刃を立てる。望んだことを、そのままに、あなたに。Thiên の口が、そして Âu はわたしに?私にも、私の望みを。父親を殺す。自分の血にまみれる。なぜ?知ったから。大切な何かを知ったから。すべて、とはいかにしても言えない小さな過去に過ぎないにも拘らず、無意味な宝物としていじりぬいてやがて壊し腐らせてしまうに過ぎないだけのもの。より正確な死をその身体に刻んでやるために、誰のために?誰かのために、自分以外の、自分をも含めた誰かの、そして、Âu が見いだしたのは血にまみれた自分と Thiên の死体だった。Tuyết はすでに死んでいた。自分が彼女をは殺せなかったことに気付いた。Mỹ を振り向き見た。声はなかった、テレビの音響だけが空間にあって、開け放たれたガレージのシャッターにもたれかかった Thanh が彼を見ていた。手に持った Bún ブン の袋に、彼が夕飯を買いに行っていたことを知った。あっちへ逃げろ、と、Âu の手の掌がしぐさするのを Thanh は見る。Mỹの息遣いがあった。二階に上がっていろ、と Âu は言い、彼女は従うが、なんの動揺もなかった。すべて、彼女に許された気がした。誰か一人にでも許されたなら、それは許されえない過ちとはいえないのだと、Âu は思い直す。シャワールームで体を洗う。あっけなく洗い流される血に、そんなものだ、と思った。何ほどのことでもない。どこにも悲劇など存在しなかったし、痛みも、苦痛も、苦悩も、絶望も、何も、そんなものは何も、思いつくかぎりの一切、何もなかった。彩られた花が咲く。無数に咲き、それらが色彩を鼓舞する。蝶が飛ぶ。空に色彩はない。なにが奪ってしまったのだろう?、と、そう思った瞬間に、もとから、そうだったことに気付いた。あるいは、まだ与えられていなかったのかも知れない。不意に正気に返って、水を止めて体を拭いた。先に使った Tuyết の体臭がある。女性のそれだった。Mỹ のそれではなかった。いや、と思った。青かった。確かに、空は原色の赤にぎらついていた。ベッドルームで Mỹ は寝た振りをしていた。死んだフリかも知れなかった。聞きただす気は最早なかった。不意に見開いたその眼差しが天井を一度見詰めた後で、流れるように崩れて彼を捕らえた。彼女を求めていたわけではなかった。Mỹ を脱がして、彼女を抱いた。そうするしかない気がした。最後に、結ばれなければ、一度結ばれたことに意味はない。自分たちはこうして終わってしまうのだ、と Mỹ は思った。死のう、と言ったのは Âu だった。 Mỹ は自分がまだ生きていることを思い出し、その遅さにおののきさえ感じた。彼に刺されることを望んだ Mỹ のまぶたの閉じられた顔を直視できないままに、寧ろ、Mỹ が破壊されている必要があった。そうでなければ、Âu は自分が愛したものを破壊することになって仕舞う。そんなことを望んだのではなった。自分を殴打する Âu の暴力に時に白眼さえ剥きながら、やがて失心が彼女の覚醒を中断するまでの十数秒に、意識の一番低いところで Mỹ は自分の血管があたまの中に鼓動の音を立て続けていたのを聞いていた。Trang は?木の上で、自分を刺し殺す瞬間に彼女を思い出した Âu は、失ってしまった、と、喪失の実感に苛まれた瞬間を、やがて鮮烈な痛みが全てを白銀に白濁させる。殺した。と、誰を?あるいは、自分自身を。気付いた。Trang は彼らの惨状を見いだした瞬間に、確かに、自分が父親と馬交(まぐわ)り、彼を殺してしまっていたことに気付いた。頭の中で弾けた小さな閃光が、彼女を包んだ挙句、その視覚を奪う。息さえできない、と Trang は思い、もはや、生きてはいけない。生きているはずがない、と、見渡した周囲の中に、あの日本人が彼女を振り向き見る。知った。生きている。わたしは、と、そしてまだ、わたしは生きていた。
十月(かみなづき)(神無月)
四具礼乃雨降(しぐれのあめふり)
山霧(やまぎりの)
煙寸吾胸(いぶせきあがむね)
誰乎見者将息(たをみばやまむ)
2018.02.20-26.
Seno-Le Ma
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