小説 op.5-(intermezzo)《龍声》…③花と、龍と、そして雨。









龍声









Nhgĩa-義人は、皆が寝静まった後に、道場を抜け出して、バイクに乗った。それは YAMAHA のスクーターに過ぎない。買い出し用に用意された、メーターが140キロまでしか刻まれていないものだった。故国に残した SUZUKI のバイクは、妹が、たぶん、乗り回しているに違いない。

いつでも40キロ以下の低速で。

野猿街道を走った。

疎らな車の群れを、おもしろいように追い越していく。100キロを超えてしまえば、それ以上など代わり映えのしない風景に過ぎない。エンジンが覚醒して、背後に騒音を消え去らせていく。戯れに対向車線にはみ出して、衝突すれすれ迂回する。クラクションがかき鳴らされるが、もはや手遅れに過ぎない。撚れたハンドルは車体をガードレールにぶつけそうになったに違いない。









十二時を回っていた。

街頭の群れが路面をオレンジがかって照らし出し、ヘッドライトが見向きもされないわずか前方を光に染めているには違いない。エンジンが落ちる堕ちる寸前のスピードを維持し、濡れた路面と戦う。

ハンドルと、タイヤがわずかに連動しない不意の瞬間が、車体に緊張を走らせた。感覚にすべてが速度に一致し、その一方で吹き荒れる風圧になぎ倒されそうになる車体と戦った。

眼の端に流れ去る流線型の、風景の残像がある。ブレもしない、そして永遠にたどり着けない正面の一点は揺るがない。

もっと。

Nhgĩa-義人はグリップをまわす。

早く。もっと。その瞬間、ビニール袋らしい何かを巻き込んだ車輪が一瞬自由を失い、水を撥ねながらタイヤがすべる。もはや自由はない。固まったハンドルが Nhgĩa-義人を拒絶し、Nhgĩa-義人は中に舞った。

雨が打ち付けていた。ガードレールにぶつかって、ガードレールごと大破したスクーターの前輪だけが、未だに惰性の回転をやめていないことには、気付いていた。背中に、そして肩に強烈な痛みがある。やがては、体中が、骨格さえも含めて、鮮明な苦痛に満たされていることに気付いた。

あの瞬間、最早運転を諦めた Nhgĩa-義人はスクーターを蹴って、路面に受身を当てたのだった。一瞬の、わずかなぶれがあった。それには自覚があった。ともかく、Nhgĩa-義人の身体は綺麗に路面を転がってみせ、もちろん、体中に細かな傷をきざみつけながら、その速度と力を分散させた。

一瞬に過ぎなかったが、Nhgĩa-義人はそこに、すさまじい闘争の現実を実感した。路面に回転しながら、肉体は何かと戦っていた。一瞬たりとも気を抜けない、わずかな失敗がすべてを破壊するに違いない、その闘争を。

肉体は、やがて路面に静止した。

路面に転がって、Nhgĩa-義人は十秒以下の、数秒の間、息遣い、鼓動を確認し、整えようとし、やがて、四肢をゆっくりと伸ばした。仰向けの体中を雨に、曝した。

眼は開けなかった。

何キロだったろう?大した速度ではない。120キロか、それを、すこし上回ったくらいか。

雨のなかに、ガソリンの匂いをたてながら、スクーターがその残骸を曝す。

俺は生きている。Nhgĩa-義人は想った。俺の肉体を、壊すことは出来なかった。それに、Nhgĩa-義人は満足した。

向うから来た車が、ハンドルを切り損ねてガードレールにすれ、スクーターを蹴散らす。悲鳴のような叫び声を立てながら、男が飛び出してきた。死んだように目を閉じて、肉体の苦痛を、寧ろ快く味わっていた Nhgĩa-義人を、揺り起こしていいものかどうか、触れることさえためらいながら、彼は救急車を呼んだ。

慌てふためくその男を、この日本を占拠する、日本人という名のまがい物たちに共通の家畜根性だと、Nhgĩa-義人はその口元にちいさく罵った。


雨の中に行われた訓練は、Nhgĩa-義人が想ったとおり、皇紀を追い込むだけ追い込んでいた。

入院さえしなかった Nhgĩa-義人は、午前のうちに病院を出て高尾山に向かったが、軽傷の祝福をくれる会員たちの向うの木陰に、皇紀の残骸が、転がっていた。

失心しかかった皇紀を正気づかせるために、何度も水が掛けられたに違いなかった。バケツは皇紀の頭の先に転がって、雨をため始めていた。

皇紀は何かの発作を起こしたかのように荒く息遣いながら、仰向けで、雨に打たれるだけ打たれていた。









自衛隊員たちは、片言の日本語で会員たちと歓談し、午後の訓練に備えた。

制裁は、Nhgĩa-義人の仕事だった。失神と覚醒を繰返す皇紀を無理やり立たせて、濁った緑色の訓練着の上半身を剥く。隊員たちは見なかった振りをした。それはいつものことだった。皇紀の厳重なさらしが巻かれた素肌が雨にじかに濡れた。後頭部に、後ろ手に組んだ皇紀が、ふらつきながら一度 Nhgĩa-義人を見て、そのまま、背中を向けた。Nhgĩa-義人の木刀が、一振りごとに容赦なく皇紀の肉体をへし折って、泥水に投げつけた。肉体は悲鳴さえ立てない。Nhgĩa-義人の肉体には、まだ昨日の痛みが鮮明に宿る。顔まで泥につけた皇紀の髪をつかんで、立てあがらせ、倒れようとする瞬間に、次の一振りをくれる。息を詰めたまま、呼吸困難に陥って、皇紀の身体がえびぞりのまま痙攣を見せた。Nhgĩa-義人の肉体も、苦痛に塗れているのは事実だった。その一挙手、一投足のたびにティン・ニュンによって、もはや空中に投げだ捨てるようにして立ちあがらされた皇紀の、立ち上がれもしない身体を、上から打ちのめす。傷付いた筋肉が軋んだ。泥を喰った皇紀の喉が、泥水の中に咳き込んだ。会則どおりの、30振りの木刀を喰った皇紀の、突き上げられた尻が、泥のなかに痙攣した。腹を蹴り上げて仰向かせた皇紀の口が、泥水を吐いた。Nhgĩa-義人は皇紀を抱きかかえ、義人…皇紀がつぶやいた気がした。「いま、わかったぞ」…え?と、問い返す声をさえたてずに Nhgĩa-義人は聴いた。「殉死とは、生き残った恥ずべき人間が、あえて無駄死にを曝して、ふたたび、生き恥に塗れるということだ。」耳元に掛かる「その、鮮烈な死の瞬間の只中で」熱を帯び、舌をもつらせたささやき声を聞き、何を言っているのかはわからないままに、皇紀の頬に手を当てるが、その、Nhgĩa-義人を見上げた、上気した明らかに女の眼差しに、彼は眼をそらした。









氷川神社のあの広くはない一室に五人ばかりたむろした日本人の女たちのたてた匂いが篭った。体臭抑制のスプレーのけばけばしい乾いた芳香が、夏の汗の匂いに混ざり合って、台湾人の呉麗華は Nhgĩa-義人に目配せをくれた。微笑み返し、その眼差しの意味をは、Nhgĩa-義人にはわからなかった。

目の前で、桜子は花の向うに隠れて、彼女の手の上で花々はかたちを整えられた。

日本人女たちのひそめられた私語が Nhgĩa-義人の耳に障り、桜子の着付けが匂いを立てていいた。静かな匂いだった。絹の、その否定し得ない存在だけをむしろ鮮やかに主張する、つつましさが、その匂いにはあった。

地味な、薄い青地に白を主体にした、あくまでもその存在を主張しきろうとはしない色彩が、ただ、華やぐわけでもなく戯れて、音を立てない桜子の身体に引きずられながら衣擦れの音を鳴らすのだが、そのたびに、色彩の、うつろう形態をただ、空間に遊ばせる。

それは単なる、子どもじみた戯れに見えた。そして、彩のない和室の地味な色彩の中で、着付けは一切の派手振りを否定して、眼差しの中に沈み込むように存在したが、見つめる Nhgĩa-義人の視線は、いつか、そこに生き生きとした色彩の息吹を気付かずにはいられなかった。

着付けと、それをまとった女と、花と、それらが存在した空間が、いま、完全に戯れあいながら、そこに、自らの存在を主張することなく、むしろ沈黙のうちに、それぞれの存在を自覚していた。

日本人女たちの薬品くさい臭気の中に在ってさえ、それらはただ、美しかった。

桜子の手に触れた鋏が、花を、葉を、断っていった。そのたびに、そこに留保無き破壊と、死が、これ以上ない明確さで刻まれていくのを、Nhgĩa-義人の眼は確認した。

はさみの音が耳に残った。

女が持ったから、はさみは美しいのか。はさみを持ったから、女が美しいのか。それには答えようとする色気さえ持たずに、ただ、はさみは無慈悲なまでの殺戮を、そこに刻んむ。

桜子がはさみを置いて、ややあって、その花をこちらに向けたときに、そこには確かに美、…そう呼ばざるを得ないものが、無造作に撃ち棄てられていた。

右側にだけ、乱れがあった。乱調に他ならないふてくされたような暴力が、白く小さい無数の花々を空間に散乱され、為すすべもない破綻の中に、それら、白と緑のグラデーションは沈黙した。むしろ、鮮やか過ぎる沈黙が、不愉快なまでの感興をそそるのだが、それが背後に流れていきながら、左側には凛として超絶した、緑と白百合の孤独が華やいだ。華やぎきったそのれらの色彩と形態の私語の群れは、何をも語りかけようとしないから、それはまさに、描かれた静寂に他ならなかった。

風景の向うに、女がいた。

桜子だった。

桜子は目を上げなかった。

蝉が鳴った。その音響が連なりあって、背後、神社の裏庭には、夏の昼下がりの日差しの白い反射光が、あふれかえっているに違いなかった。

あきらかに時間は停滞していた。

何のきっかけがあったと言うわけでもない。

ややあって、ようやく目を上げて、誰にと言うわけでもなく桜子が微笑んで見せたとき、日本人女たちは毛羽立った声を上げた。桜子を賞賛しいているに違いなかった。ささやきあうそれらの声の大音響は、Nhgĩa-義人には聞き取れなかった。

流された眼差しが、花の風景の向うで、Nhgĩa-義人の眼差しと触れ合ったときに、Nhgĩa-義人は、あふれそうになっていた涙が、ついにこぼれたのを自覚した。

その、いたたまれずにたてた瞬きの瞬間に。





2018.06.18

Seno-Le Ma





Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

0コメント

  • 1000 / 1000