小説《散り逝く花々のために》⑦…どうして、あなたを愛したのだろう?

もう一つの一晩が過ぎて、もう一度日が暮れて、そして、朝日が昇った。どうして?と男は想った、わたしは、に他ならない、知っていた、ことなど、犯罪、自分がしていることは。瞬き、わたしは自分がしていることは犯罪に他ならないことなど知っていた。見詰めた。ベッドに腰掛けたまま、まだ目を覚まさない理沙を。





無傷に済ませてしまうべき時間は取り逃がされてしまった。何も起きないですぎて行く気がした。このままずっと。そんな事などありえないことなど、よくわかっていた。時間は燃え尽きた。浪費され、無駄にされ、濫費され、世界は崩壊していた。もう、わたしたちに未来などないのだから。つぶやく。


心の中でだけ、彼女を目覚めさせないように。抱きしめながら、天使を、いつのまにか、堕ちて行った、知っている、ぼくは、悲しみを、抱きしめながた、知った、犯罪に、ぼくたちは、ことを。悲しみを知った天使を抱きしめながらいつのまにか僕たちは犯罪に堕ちて行ったことをぼくは知っている。

…僕達は、犯罪者だ。

境界線?

あの、無駄な言葉と、無意味な笑い声と、吐息の中に、いつの間にか濫費されたにすぎないもはや幸せとさえもいえない鮮やかな幸福が、それだ。


…おなか、すいた。

言った。その声を聞いて、そして、耳に感じられるのその音の感覚をなぞり、そして、理沙。想った。理沙の、聞く。…声。

…ね?…わたしは、すかない?きみの、おなか、声を、すかないの?聞いた。…ね、

名前、なに?

「…え?」と言って振り向き見た男を、理沙は後ろから抱きしめて、声を立てて笑いながら、「ひどい」はしゃぎ、「…ね、」飛び跳ねてみせ、「…ねぇ、」重なる、「教えたよ、前に。」自分たちの「忘れたの?」笑い声と「…ね、ひどい。」乱れた「ほんとに、」息遣いが、「…ね?」重なって、「ほんと?」反響したのを、「…ねぇ!」聞いた。

―…Ngọc, Lê Vạn Ngọc…

「ゴック?レ・バン・ゴック?」

―…Không !, Không phải …Ngọc, Lê Vạn Ngọc…

「ゴッ?レ・バン・ゴッ?」

―…Không !, Không phải …Ngọc, Lê Vạn Ngọc…

「ゴオ?レ・ヴァン・ゴオー?」

―…Không !, Không phải …Ngọc, Lê Vạn Ngọc…

「んゴッ?レ・ヴァンんゴッ?」ごーさん。…ね?と理沙が言った。「あなたの名前は、…ね?ごーさん?」…ね?理沙が微笑み、Ngọcはその頬に、自らの頬を当てて、彼が感じたのはその温度だった。暖かい、至近距離に存在する、腕の中の小さな発熱体。「おなかすいたね?」

「…ね?」と、不意に小さく、耐え切れなくなった理沙が声を立てて笑うのを、Ngọcは聞く。「…なに?」


…なんでもない。「どうしたの?」だから、と、「なんで、笑うの?」なんでもないよ。理沙の「…ね?」笑い声は「…なに?」止め処もなくて、「…ねぇ、リー。」抱きしめられたままに「リーちゃん、…」Ngọcの「…ね、…」胸元の匂いを嗅ぐ。


もはや何も、まともな記憶を残していない麻里亜は、車椅子の上にいつものようにからだを投げ出して、見とれるしかない。空の割れる、その光の巨大な荘厳さ。こんなにも、…と想った。こんなにも、空が、大きかったなんて。息つく間もない光の奔流が自分に、今、…触れた。

その瞬間、燃え上がった大気が一気にすべてを焼き尽くし、…あ。と。

ただ、その、自分が無意味に漏らしてしまった音声だけが聞こえた気がした。光。

こんな光に照らされたなら、沖縄の海にさえも、明日、雪が降りしきるに違いない。

最早完全に消滅した意識の残骸のどこかで、響き渡った轟音の凄馬じい音圧を感じた気がした。













二人で、窓越しの夕暮れを見た。

鮮やかな紅が、さまざまな色彩のグラデーションを曝しながら、結局のところ、それは赤だとでも言う以外にすべなどなかった。

駆け抜けるような足音が立って、ドアの向こう、誰かのささやき声がした瞬間に、怒号と音響が、部屋中の空気を震わせた。

何度もたたきつけられる安っぽい鉄板のドアの向こうで複数名の男声の怒声が巻き上がっていて、何を言っているのか、聞きとろうとするまでもなく、「…パパ」理沙が言った。

音響。それらを彼女も聞いているはずだった。

何も聞こえてさえいないようにしか、Ngọcには見えなかった。

…ね?

理沙。

…ん?

耳元にささやかれた、Ngọcのその音声を聞くと、理沙は一度まばたいて、…ね?言った。聞いた。

その音声を、Ngọcは、そして見た。かすかに微笑んでいた理沙を。その、瞳の潤みに映えた光の反射の白の点在を。

「…かえるね。」言った。帰るのか、変えるのか、その中間の発音のその言葉の意味を、Ngọcは探ろうとした。


理沙がドアを開けた瞬間、この部屋には鍵さえかけられていなかったことに、和晃は気付いた。

自分の手ではないそれがいきなり理沙の首元をつかんで叩き付けるように引きずり出す。それが圭輔であることは知っていた。村井優輝が部屋に乗り込んで、和晃は…温度。見た。温度が、部屋の中にたつ。立ち尽くした何人かの、アジア人が…わたしたちの、無意味に…わたし以外の。彼らを見ていたのを。知ってた?優輝が馬乗りになってNgọcを殴打する。

自分の体温って、自分じゃ、感じられないんだな。

背後の悲鳴は、理沙のそれだ。誰かを呼ぼうとしたのではない。ただ、立てられただけだ。羽交い絞めにされて、顔を押し付けられ、コンクリートの砂を舐める。…まみれだ。想う。暴力まみれだ、と、和晃は想って、許せなかった。

なぜ。これほどまでに、まみれ続けるのか?Ngọcが壁にたたきつけられ、なぜ。噴き出した息に鼻血が散った。これほどまでに、見た。まるで、そうでなければならないかのように。


見つけたのは優輝だった。カフェでTwitterを見ていたときに、顔を上げたその前を、一人のアジア人と、日本人の幼い少女がもつれるようにじゃれあいながら歩いて行った。

少女は和晃の娘に違いなかった。

何と言うわけでもなく、写真を撮って、アップした。《不良アジア人やりたい放題。日本人の未成年だまして淫行条例完全無視実行中。これ、犯罪でしょ?》#未青年 その瞬間、#淫行条例 確かに、#アジア人 自分は、#国に帰れ 彼らを許しては #犯罪者 いけないのだという事実を #頭おかしい 改めて #日本政府もこいつら国外追放しなくていいの? 確信した。#こいつら普通におかしいから 事実、目の前のアジア人は明らかに犯罪者に違いない。

彼らの後をつけ、すぐ裏の築の古い、安っぽいレオパレスに住んでいることを確認した。

圭輔に連絡して、和晃を呼び出した。駅前の交差点で待ち合わせた和晃は、顔色が青かった。

怒り?…そうではなくて、と、優輝は想った。…悲しみ?

壊れそうだ、今、お前は。優輝は、そして和晃の肩をなぜ、「行こう、」あの、言う。穢らしい「…いこうぜ、」アジア人が、「俺たちの子ども、」俺たちを「…な、」壊してしまう前に、「取り戻そうぜ、…」壊さなければならない。「…な」彼らを。…でも、わたしたちは。カスだよな。その、圭輔の声を、「理沙ちゃんも」聞いて、「なんでそんな」しかし、和晃は「アジア人なんかとくっつくの?」振り向きもしなかった。「言ってさ、あいつら、下等人種には違いないわけじゃない?」やめろ、と、和晃は想う。


音響が響く。やめてくれ。暴力の。目の前に、そして背後に、あれた、息遣い、そして、からだがもがき、何かにぶつかり、音を立て、熱をはなち、痙攣していた。…理沙。振り向き見たそこで、穢く鼻血を流しながら、顔をゆがめて砂に穢す。…やめろ。

すべての、暴力を。


疲れ果てた顔をして、和晃は理沙の首根っこをつかむと、階段にほうり投げ、肉体は後ろ向きにコンクリートの段差を撥ねる落ちる。派手な音を立てながら。息が詰められ、Ngọcが駆け寄ろうとした瞬間に、優輝が再びその後頭部を殴打した。

ぐ、という、そのアジア人が喉を鳴らした音を、和晃は一瞬、穢く想った記憶がある。

階段を下りる。

階段半ばでさかさまに、理沙は、…痛い。逃げようとするのか、…ねぇ。身を起こそうとしたのか、…痛いの。からだを…ぜんぶ、持ち上げかけて、…痛い。ずり落ちながら…どこも、頭部からの出血は、…なにも、コンクリートを…痛いの。穢した。ふらつきながら立ち上がり、和晃をむしろ先導するようにゆっくりと、ときに振り向き見なが、二、三歩歩いたかと想うと、見上げた。不意に、空。想った。理沙は、…綺麗。

いきなり走り出し、ふらつき、飛び出したその少女を、主管道路を走るドライヴァーはかわせなかった。4トンの運送トラックは前のめりに倒れこんだ少女の頭部を轢き、いかにも穢らしい血と肉黒ずんだ赤が線を引く。飛び散り、血溜りをつくり、匂い。…生暖かな匂いがした、と、和晃は想った。…疲れた。言った。口先だけで独り語散られた言葉をだれも聞かなかった。

どうやって、…なにを?どうして?どうやって、…麻利亜に、なにを説明すればいいのだろう?

なにを?

なにが起きたのか、自分でさえわからないのに。駆け寄るNgọcを最早誰も止めない。ドライヴァーが駆け寄って、すぐに誰かを呼びに駆けた。…混乱。人々が集まる。

声。誰も叫ばない。…ささやき声の群れ。

彼女を抱きしめようとしたNgọcは、その肉体の残骸に戸惑い、背を向け、眼を逸らし、なにをも抱きしめることが出来なかった腕が空中で震えた。…空。色彩が、温度さえなく燃え上がる。その紅蓮。ずっと、さっきから横目に刺していた夕方の空の夕暮れを、…美しい、と、仰ぎ見てNgọc は、美しい、…なんて、…なんで、…これほどまでに?

つぶやく。













2018.4.21.-27.

ある魂のために

Seno-Lê Ma





Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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