小説《散り逝く花々のために》④…どうして、あなたを愛したのだろう?
和晃も、麻利亜もいなかった日曜日の午前に、死んだ人ゲームをした。
それは、美沙のお気に入りだったが、好きじゃないから、と、いつものように断ろうとした、…なんで?理沙を、…ねぇ。なんで?見詰める美沙が、涙ぐんでいたので、理沙は美沙の目の前で、死んだ。
夏の初めの、やわらかい日差しが、斜めに差し込んだ。
カーテンの、風に瞬いた切れ目から。
床の上にその光が反射し、いつでも、まばたく。光は、理沙はじかに触れては、ベッドの上、その、横を向いて、触ったものの、色彩を目を破壊する。見開いたまま、光こそが、死んでいた。色彩を…ねぇ。生んだのだというのに。…どうして?
「どうして、おねぇさま、死んでしまったの?」
美沙がしがみついて、体をゆすり、泣きじゃくってみせる。わざとがやがて本当の涙になり、ついには本当に悲しくなってしまう。おねぇさまが、…と、本当に死んでしまったら?「ねぇさま、…わたしのねぇさま」どうするの?「どうして、ねぇ」もしも本当に「どうしてなの?」やがてはいつか、こんな風に「こんなにかなしい」死んでしまったら?「トランシルヴァニアの森の中に」ねぇ、ひとりになって「死んでしまったなんて」そうしたらもう、「…ねぇさま、ねぇ」会えないね。もう、永遠に。「わたしをたったひとりで」死ぬまでずっと、でも「ねぇさま、ねぇ、」たぶん、死んでも、ずっと「いかないで、ねぇさま」だって、死んだら「だれか、ねぇさまを…」
「ママ、殺しちゃおっか?」不意に跳ね起きて、理沙が言ったので、美沙は一瞬で泣きやんで、何を考えるわけでもなく、「いいね。殺しちゃお、」叫ぶ。理沙が言い終わらないうちに。笑いながら。そして、二人のくすくす笑いの音は耳元で重なり合って、
美沙。…この子はいつも、何の嘘もなく笑う。
理沙は思った。
日差し。
窓の。
その、切れ目。カーテンの、その、切れ目の。
光。
そして、…ね。風が、ね。
やさしく吹くの。
風が、…ね。理沙ちゃん、
…大丈夫。自分に、言う。
大丈夫。…ね?
理沙ちゃん。
…ね。大丈夫。嘘のない。笑顔。
美沙。
何も考えないで笑うから。
この世界には、悲しみも、痛みも、何もないことを、ちゃんと知っているから。
ちゃんと、しっかり、知っているから。わたしも「知ってるよ」
「なにを?」知ってる。ちゃんと、
「知ってるよ。わたし」
「…ねぇ、なに?」秘密だっただけ。
「わたしも。」
「何を?理沙ちゃん、なにを?」秘密に…
いままで、秘密にしてただけ。「…じゃ、美沙が死んで。美沙が、ママだから。」
ママを、葬送する。悲しいママを。ベッドの上のママは、死んでさえいても、まるで、世界には、なんの悲しみも、痛みも存在しないように、あどけない笑顔さえ浮かべて眠っている。
安らかに、ママ。
理沙は、本当に悲しいとき、涙さえ溢れないことを知った。
悲しみが、ただ、音も、気配もなく体の内側をつかんで、自分が生きている実感さえ、もはや、なかった。…あ、と。理沙は思った。…死んでる。わたし、…死んだ。
体を曲げ、ママの匂いをかいだ、子どもの体の、いい匂い。ママの、小さな半開きの唇に、口付けた。
理沙は十一歳だった。
背中に初めてのアイロンのやけど痕ができて、一ヶ月ほどたっていた。奥歯は二本、なかった。
散り行く花々のために
ぼくたちが できること。
誰にも気付かれないように
覚えておいてあげること。
散り行く花々のために
ぼくたちが できること。
色あせて穢くなる前に
握りつぶして棄てること。
散り行く花々のために、と、口の奥でだけつぶやいて、後ろ頭を殴打した和晃の拳に目舞う。…言わない。なにも。意識の爆発。
一瞬で白濁し、なにも言わない。そのまま、…痛い、と思った。
声はなかった。息遣いの音だけが重なって、ぼくたちが、できること。
花が不意に涙したなら
火をつけて燃やしてあげること。床の上に嘔吐する。耐えられないほどに煮えたぎった不快感だけが喉の奥で、放熱していた。
吐く。くの字にからだをまげ、汗をだらだらかいて、四肢を震わせ、穢い、…思った。自分でも。穢い。事実、そうだった。
吐寫物にまみれる。
それが、さらに、和晃の怒りに火を注ぎ、麻利亜は思わず吹き出した。嘲笑。なんで、…と、笑った自分を一瞬咎め、なんで、…ね?、耐えられずに、再び笑ってしまって、この子、なんで、こんなに、なんで、…馬鹿なの?
吐いちゃえば、もっと殴られるなんて、バカでも分かるのに?
恨めしげな上目遣いなんてすれば、もっと憎まれるなんて、バカでも分かるのに?
親にさえ愛されないのに?…もう、と、麻利亜は、…死んだら?
…ねぇ、なんで?
散り行く花々のために
ぼくたちが できもしなかったこと
花を殺してあげること。
花を生かしてあげること。好き?
…好き?
声。その、頭の上の方から、堕ちてくる、それ。
その、声。…好き?
…ですか?、と、言われた。
理沙は振り向き見て、「好きですか?」
男を見た。調った顔立ちの男。花屋の中だった。
駅前にあって、中学校への通い道の、ちょうど真ん中だった。何が?
何も言わない少女を、男は見詰めた。微笑んだまま。…何が?
…ねぇ。花の匂いが、…何が?氾濫している。四方に。逃げ場所もないほどに。「好き。」…水仙。理沙は、ようやく言って、うつむき、男に惹かれたわけではない。…百合。恥ずかしかっただけだ。
自分が恥ずかしがっていることに気付いたとき…何で?…薔薇。理沙は自分の顔がどうしようもなく上気して行くのを、さらに、恥じた。男。…霞想(かすみそう)。明らかに、日本人ではなかった。
その、褐色の肌。…木蓮。日差しの匂いがする気さえした。もはや、…華婦人(カトレア)。花の匂いしか、感じることなどできないくせに。
調った顔立ちの調い方が、日本人のそれとは違って、調い方にも国籍があることに気付いく。それは、一瞬、理沙を笑わせてしまわずにおかなかったが、…福寿草。どうしたの?
男が笑ったまま、いま、戸惑いさえしていることを、知ってる。…わかる、と明散縁(アスチルベ)。想った。
その気持ち、分かる。「何?」言った。男は、そう言った。
「どうしたの?」どうして?…ねぇ、「何?…どうして?」理沙は、…天凛女(アマリリス)。男を見上げて、「どうしたの?」男の、その声。やわらかい、…恥知花(オシロイバナ)。聞く。
目を閉じているようだ、と想った。
まるで…だって、…乙女添(オミナエシ)。いま、何も、見えてなどいないから。「好き。」理沙は言った。…桔梗。その瞬間、耐えられずに、理沙は吹き出して笑った。
顔。
褐色の肌に、ななめにやわらかい光が差して、影が生じるとその影は、彼の顔立ちの堀の深さを、沈黙の中に際立たせる。
しずかな顔。
表情豊かな、けれども、確実に表情を伝えていない気がする。どんなときも。それが、自分の思い違いに過ぎないことは、分かっている。彼は、単純に、本当の表情を曝しているだけだ。なのに、なぜ?と、ときに理沙は自分の心を疑う。
ざわめく。
なにも、語りきらない、そんな気がしているから、何も語りかけないに等しいしずかなその顔を見ていると、言葉がざわめく。
笑えば、笑うほど、表情が翳りを帯びるのは、なぜ?
そして、なぜ、答えてくれないの?
なにも、わたしが問いかけないから?
想う。なにかを想っていることは、理沙も知っていた、なにを想っているのか、わからなかった。たぶん、なにも想っていないから。
温度を持った霧のようなおぼろげな塊りが、消え去りもしないままに、喉の奥に靄ついて、想う。
想い続けていた。
自分が、何をしているのかさえ、もはや、わからない。十三歳の理沙を、だれもが美しいと言った。自分が美しいことも知っていた。そして、その美しさには、たぶん、何の意味もないことも予感していた。
美しさが誰かに愛され、大切にされるためのものならば、確実に、それがかなえられることなどありえなかった。
握りつぶされるに違いない。…誰に?…だれかに。答えようとすると、頭の中が熱くなる。
冷たい温度で、発熱する。答えてはいけないことを知っている。だから、答えようがない。
誰もが想っていることを、知ってた。理沙は、誰もが、彼女ほど幸せな少女などいない、と。
同級生の少女たちさえ、まるで下僕のようだった。彼女たちは知っていた。理沙が、自分たちとは違うということを。その差異が絶対的な事実として、目の前に突きつけられているとき、もはや、彼女たちはそれにあがなおうとはしない。
疎外するに等しい尊重と敬愛。
希薄なやさしさと、希薄な友情。
だれも、たぶん、愛してはいないのだと想った。自分のことなど。ただ、見惚れ、讃えるだけで。
彼女たちにとって、自分は違う世界の人間にすぎない。
豊かすぎるほどの、なにか手入されているわけでもない漆黒の髪の毛が、暗闇の中の漆のような光沢を持って、滑らかな反射光を何重にも重ねた。
見ているものの、来世の、その来世の、その先の来世をまで見詰めているような、深い眼差しが笑みに崩れると、頬に一瞬だけ深いえくぼがためらいがちに浮かんで消える。
常に潤んだ眼差しが、何重にも謎をかけて、結局は答えなど見つけられないままに、人々は微笑み返すしかない。
華奢な体に不意に生じた目舞うような曲線が、誰かを煽情するでもなく、目で穢してしまうことを詫びなければならない気にさせる。そのシルエットは、理沙が身動きするたびに、嘲笑うように自由な美しさを、かたちづくった。
むごたらしいまでに、愛してるよ、美しい。って、吐く。言っていいのかな?麻利亜に見詰められるたびに、好きだよって、泣きそうになる。本当に?悲しくないのに。言っていいのかな?制御できない涙がわたしなんかがって、一粒でもこぼれてしまえば、時々、まぶたは思ったりするけど、決壊する。…生きてられないと思う。止め処もない、もしも、きみがいなくなったら。滂沱の涙が、ただ、わたしなんかでいいのかな?頬を熱く濡らしてきみの、砕け散る。運命の人が。振り向きざまに、わたしなんかでいいのかな?麻利亜にひっぱたかれたときに。きみの、何でよ、と、幸せそのものが。麻利亜がなじっているのを知っている。出会わなければよかったなんて思わない。わかっていた。生まれてこなければ。当たり前のこと。誰も傷つかなかったのに。意味もなく、生まれないまま、顔を見た瞬間に泣き出すなんて。生まれないまま、きみを、ママが怒るに決まってる。生まれないまま、きみを、愛することができたら、ママは間違ってない。生まれないまま、きみを、愛することができたら、よかったのに。そんな事は知っていた。消して。今すぐ。涙が止まらなかった。今すぐ、消して。吐く。頬が痛みを感じた瞬間に。壊れる。
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