小説 op.4-01《永遠、死、自由 Ⅲ》①…まだ誰も見たことのない風景を、見ようよ。








永遠、死、自由 Ⅲ






殺せ、という本能的な声がした。復活してしまった Thanh タン の上半身がゆっくりともたがるのを一瞬、一度見た夢を追体験する錯覚の中に確認する。…殺してしまえ。

自分自身さえ呟いていた。声が駆り立てた。二度とふたたび、目覚めないように。荒れた地表の上に日が落ちる。向こうの山が燃えていた。誰かが火を放ったに違いない。Thanhのまぶたが瞬いて、わたしは彼女の頭に発砲した。銃声は意識の向こうで響いた。声。破壊を指示し、殺してしまえと叫び、その声を、いつか支持したあの声。どこからか、本能的な? わたしの息はあららぎ、熱い。吐かれる二酸化炭素の温度。その声を本能的なものだと錯覚することによって、わたしはわたしの倫理を無理やり構築してしまった。唾棄すべき、…思い乍ら、彼女の上半身をもう一度撃ち抜いたが、すでに死んでいる彼女はまだ死に絶えてはいない。復活する死者たち。もうずっと前から。よみがえり続ける《死者たち》。

細胞の群れの自分勝手な覚醒。頭部と、胸元から上を半ば失って、砕けた肉の残骸をぶら下げながら体を起こそうともがく彼女に、火をつけなければならなかった。細胞の群れを本質的に破壊しつくすために。わたしが集めた薪に火は放たれて、待っていて、…とわたしは言った。不在の Thanh に。もう少し。…ね。ときに口にさえ出し乍ら。燃え上がる火に。まだ、…あと、もう少し。いったい、何体の人体を焼いてきたのだろう? わたしたちは。 Thanh の両手の爪が地面を掻いた。

可能性を感じた。彼女の身体が苦痛を未だ感じている可能性を。

わたしは彼女を殺したのか? 何をもって、…つばを吐き捨てる。死と言うのか? 地雷が分断した彼女の下半身をまだ見つけていない。まだ雨は降っていなかった。髪の毛が血で濡れていた。美しかった彼女の流線型の身体は途中で分断されて、もはやその形態を、何と言えば言いのかわからない。燃え上がった櫓の炎が舞って、わたしの皮膚の至近距離を乾き切った熱気で灼いたとき、わたしは Thanh のもがき続ける身体を放り込んだ。炎上する櫓が火の粉を舞いながら崩れ、向こうに夜の空が見えた。わたしは泣き続けていた。ずっと。



穢死丸が真ん中でへし折れた樹木の先端に突き刺さっていた。鳥さえもが穢死丸を避けた。見上げられた空中で穢死丸がもがく。血が噴き出した。仰向けに見上げられた視界は空を見てさえいなかった。何も。あえがれた痛み以外をは。自分で逃げ去ることはできるはずもなかった。空は晴れていた。わたしはその光景を記憶した。頭脳に追体験された彼の痛みさえも。わたしは躊躇なく樹木に火をつける。山ごと、燃え上がってしまえばいい。わたしは殺さなければならない。穢死丸を。見上げた視線が、死に切れない穢死丸ののたうちまわる四肢を凝視する。何も、憎しみをさえ感じないままに。










《新東京共同体》の会合で北浦が演説していたとき、わたしは一番後ろで彼の話を聞いていた。《旧=渋谷市街地》の廃墟の真ん中の旧駅前広場。人々が彼の周囲を埋めた。彼の演説は次第に熱狂を帯びた。彼は人間の倫理を語った。人々は家畜のような表情をさらして彼を凝視した。時に小声でささやきあい乍ら。人々の乾いた体臭が群れた。彼らの誰もがわたしのことを知っていた。わたしが殺した穢死丸が、彼らとともに共生していたからだった。興味は無かった。ハナエ=龍(ロン)が小さく息を飲んだ。ハナエ=龍の純白のアオヤイがはためく。わたしが彼女を振り向き見た瞬間に、演壇の方から小さな悲鳴と早口のささやき声の連鎖が押し寄せた。波が打たれたように。見つめ返したわたしの視線の先で、倒れた北浦は介抱されていた。人だかりが、演壇の上、彼の周囲にできていた。人々の体躯が揺れた。もはや人々は動揺をかくさなかった。傍らで四十くらいの女が演壇を見つめたまま歯を鳴らした。彼女の感情の震えが直接、わたしに触れた。ハナエ=龍がわたしの腕をつかんだ。わたしたちは人ごみを掻き分けた。足が罅割れたアスファルトを踏んだ。罅割れに植物は芽生えた。北浦のもとに向かった。さまざまな人の体臭と、彼らの体は時にわたしたちに触れ、こすれあい、ぶつかりあった。演壇の上で人々はいまや、うつぶせに倒れ伏したままの北浦の体の回りを取り囲むだけだった。だれにも手の施しようがなかった。北浦の体は内側から青い炎を立てながら燃え上がっていた。北浦を助けられるものはいなかった。「一瞬、無表情になったの。」ハナエ=龍は後で言った。「…で、一瞬、ことば、とぎれて。…あれ?って。」わたしはひきちぎった犬の肉をハナエ=龍の口に運んでやった。「え?…って思ったら」…ありがと、言ってわたしの指先ごと口に含んで、ハナエ=龍の舌は戯れるように指先をなぞった。「血、ばっ、…って、吐いて、倒れた。」一瞬のあえぐような息遣いの後で、…犬の肉は十分に火が通っていた。「前のめりに、車椅子から。…どんっ…て。」声を立てて笑い、ハナエ=龍の見つめる眼差しを見詰めかえして、わたしは微笑んでいた。あのとき、青い炎を見て、誰かが言った。

…異端種だったんだ。

それは背後でささやかれた女声だった。まだ若かった。そのとき、彼が異端種であることが秘密にされていたことを知った。


ハナエ=龍が逆光の中に微笑んだ。廃墟の町中の地下を植物たちはすでに支配していた。コンクリートとアスファルトの罅割れに無数の植物が息吹き、さまざまな種類の緑の群れは、ひ弱さの下で生得的な強靭さと強烈さをしずかに充満させていた。大気が樹木たちの呼吸に震えているはずだった。わたしの皮膚が知覚し得ない当たり前の現実として。旧=渋谷地区の中央に開けた公園跡地はいまや樹木に飲み込まれ、そこから放射状に植物の支配地域は拡大した。

疑わしかった。

樹木はすでに危機に瀕しつづけていたのではないか。自分自身の強靭さそれ自体によって。不動の強靭さそれ自体が寧ろ繁殖を制限し、土の下で沈黙のままに殺戮が行われ、生い茂った彼らの繁栄自体が、その共存し得ない密集の中で、いつでも彼らの危機そのものであったのではなかったか。どうしようもなくでたらめな暴力を内側にはらんで、破綻しながら彼等は繁殖していた。

中国で無数の核弾頭が破裂したとき、北の空が真っ黄色に染まった。4時間の間継続した色彩。何の色彩なのかわからなかった。惨めなまでに、ちっぽけで、悲しいほどに見苦しいだけの色彩だった。遅れて、チベット仏教新派の武力蜂起だったことを知った。彼らの目的は世界を通常の状態に引き戻すことだった。生まれ、生き、死んでいく、当たり前の世界に。それから、歯止めを失ったように連鎖したさまざまな地方のさまざまな理由のテロが、さまざまな国の、さまざまな核弾頭を狙った。燃え上がった同じような色彩を描いたには違いなかった。わたしがみたのは、中国のほうのそれだけだった。何十億人が死んだのか、正確には知らない。


…同じことだ。一発、爆発してしまえば。

あとは、何発吹っ飛ばそうが。



薄らんだ意識が重くかなさっていく。落下し続ける感覚に、次第に重量が生じて行った。まどろみのまま、気を失っていることには気付いていた。覚醒と失神の維持の間で、しずかな葛藤が意識の向こうで演じられ、欲望を裏切るようにして覚醒の瞬間が訪れたとき、わたしはすでに思い出していた。穢死丸がわたしの首をはねた瞬間に、壊れた叫び声を上げながら駆け寄った Thanh の足元を地雷が吹っ飛ばしていたのを。…あの時。








猿丸は見ていた。複数の神に食い散らかされた腐りかけの身体で息遣い、まだ白濁していない片方の目で、彼はわたしが穢死丸の首をはねるのを見た。猿丸が隔離されている洞穴の中に侵入した穢死丸に容赦はなかった。一瞬の迷いさえも。彼の視線は殺すべきわたし以外を見向きもしなかった。障害はことごとく排除された。何人もの従者たちの死体が周囲に転がった。穢死丸がわたしの腹に槍を突き刺したとき、わたしの視界は白熱した。燃え尽きはしなかった。燃え上がって、神経を焼き尽くしながら、そのくせ何をも傷つけようとはしない痛みの感覚が、ただ、わたしの内側を掻き毟っていた。いくつもの叫び声と、悲鳴と、うめき声が連鎖した。…自分の声。

不意を衝かれた穢死丸が背後からわたしの太刀を頭に浴びたとき、失心しそうなわたしの意識が、甲高い声を立てた猿丸の後ろ姿を捕らえた。彼にとってわたしたちは見世物に過ぎなかった。はしゃいだ。

無際限の痛みの連鎖の中で、血にまみれていた。切り落とされた穢死丸の腕が泥の上に痙攣した。血のにおいに穢れた。再生しかけたその腕を叩き潰したときに飛び散った血痕の、奥波(おきつなみ)わたし自身が吐いた血、噴き出した血の、彼の飛びちった脳と血の、それら。来依荒磯乎(きよするありそを) 臭気を体中に浴びる。色妙乃(しきたへの) 猿丸は微笑んでいるように見えた。枕等巻而(まくらとまきて) 目を背けもせずに。奈世流君香聞(なせるきみかも) …人麻呂。猿丸は人々に人麻呂と呼ばれた。柿本人麻呂。柿は呪術師がつけた封印だった。柿。渋く、人が口にすることがついにできない果実。皮ごと日干しにされて、皮の中で渋みを蒸発し、やがては腐ったような単なる甘みだけに朽ちてしまうもの。つまり、彼は無害なものに過ぎない、と。たとえ、この、知性のかけらさえない猿丸が狂ったように美しい言葉の群れをその口から吐いたとしても。うねるような、畳み掛けるような鮮やかさを持って。枕詞は踊り、言葉がとめどなく乱舞した。天皇は彼女を賛美した彼の歌を、何重にも封印させて護符とした。だれにも、その歌を歌うことを禁じた。敬し、忌んで、女帝はその歌を聞きもせず、見もせず、触れもしなかった。彼は封印されなければならなかった。らいを始めとしたさまざまな神(モノ)に食い散らされながら生きている、もはや神(モノ)の側の生物に対して、彼らはそれでも彼を人であって、人の側のものに過ぎないとして封印しようとした。人麻呂という名前によって。この神(モノ)は、人に他ならず。彼らは彼をそう呼び通さなければならなかった。

複合的な疾患は、もはや猿丸の身体の外観から人間である必然をさえ奪っていた。腐った肉の塊りに過ぎなかった。まともな知性など維持されようもなかった。にもかかわらず、彼はかろうじて生きていた。彼は見ていた。苦痛にのたうちまわるわたしを見、痛いのか、と彼が言ったとき、わたしは私の叫び声を意識の背後に聞いていた。無際限の、無数の苦痛。もはや痛みを感じない人麻呂は、記憶を探った。神経が神(モノ)に食い尽くされる前の、痛みが彼の身体に、確かに存在していたときの記憶を。…痛み。人麻呂が泣いているに気づいた。懐かしさに涙したのか、彼が見たわたしたちへの嫌悪なのか、神(モノ)に食い尽くされた彼の身体の、汗を流すような単なる必然だったのか、なにか。彼は手を差し伸べて、わたしの手に握られていた小刀を取った。触れた。人麻呂の指先の皮膚には乾き切った、かさついた、ざらついた触感があった。彼が痛みもなく、自分の耳を切り取ったとき、噴出した血が岩をぬらした。取り落とした小刀は岩肌に撥ね、音を立て、指先で、彼は自分の血に触れた刹那の瞬間に恍惚とした。わたしは鎮守の熾火から薪をひろい、彼の耳に押し付けた。新鮮な肉と血が焼けた臭気が鼻を突いた。わたしはまだ生きているのか? 人麻呂の声に、わたしはこたえた。…生きている。俺は生きている。振り向きもせずに。

おまえじゃない。わたしは生きているか?

衝動的な不快感に駆られるままに、わたしは穢死丸の取り落とした太刀を拾い上げ、人麻呂の頭に翳した。人麻呂を殺した者はすべからく重罪だった。触れることさえも。この者に触れることも、この者を殺すことも、神(モノ)にだけ許されているに過ぎなかった。

死んだら恐怖を感じるだろうか? 人麻呂が言った。無数の腐敗臭を束ねた命の熟(な)れの果て。…恐怖を? わたしの言葉を人麻呂は聞かなかった。心の中に呟かれたにすぎなかったから。いま、おまえは何を感じる? 翳された太刀の落とした誰かの血のしずくを頭に浴び乍ら。恐怖を?

なぜ?

存在が恐怖を感じたことなど一度もない。なぜ? …恐怖。それは人間たちが見たこともない風景に立てた仮説のようなものに過ぎない。恐怖を、人間ごときが感じることなどできない。

お前は? 感じたことが?

ない。見た気がする。感じたことはない。

…死んだら、人麻呂が言った。恐怖を感じるだろうか? 遠有而(とほくありて)

雲居迩所見(くもいにみゆる)

妹家迩(いもがいへに)

早将至(はやくいたらむ)

歩黒駒(あゆめくろこま) わたしはいつか、この気狂いを殺そうと、自分の心の中でだけ誓った。








土砂降りの中に河の水際に辿り着く。ぬかるんだ地を這って、泥が口の周りをさえ汚した。時に口蓋をさえも。その臭気と味と舌触りがあった。鼻腔にさえも。背後に立ち尽くした穢死丸がわたしの背骨ごと鉄杭で貫いたとき、誰かの悲鳴と共に…わたしの?視界が白熱した。雨の音は最早聞こえはしない。その叩き付けるこまかな触感さえもすでに。



不意に雨の気配がした。それが向こうから一気に空間を飲み込む。もはやすべては水の中で濡れていた。わたしの体中が、そのなまぬるい冷たさ、その、暖かさが喪失されたかすかで執拗な温度に打たれた。生体の温度を奪い乍ら、その雨の、燃え上がった炎を鎮火していく無慈悲なやさしい音響に耳を澄ます。匂いをかぐ。水の臭気。皮膚を水滴が伝う。水の流れ。鎮火した薪の下で Thanh の身体がふたたび動いているのに気づいていた。わたしは目を背けながら銃口を口に咥えた。引き金を引いたとたんに発砲された銃弾が顎から下を吹き飛ばしたが、頭脳は保持されていた。失敗だった。わたしが泣きじゃくっていたから。嗚咽で震えた指先がしくじった。記憶さえ失われないままに、吹き飛んだわたしの身体が再生する。発狂しそうな、もはや熱気でしかない痛みがわたしを失心させては、同じ痛みが無理やり意識を覚醒させる。背中にぶら下がった頭部の残骸として、わたしはひっくり返った地球に雨が上昇していくのを見る。新たに再生された頭部がわたしを引きちぎる。最早わたしのものではない身体が、幼児以下の知能で地面を這って逃れていく。雨が撃ちつける。声を上げている。悲鳴をさえ。意識の向こうで、わたし自身、そして複数のわたしが。



おれも、だよ。北浦泰隆の言う声をわたしは耳に聞いた。端整な顔立ちの、三十代に見える、若々しい男。未だ人間たちの世界は崩壊していなかった。すくなくとも決定的には。左手を失っているわたしは、その灼け付く苦痛に歯をかみ合わせるばかりで、それを何度も繰りかえす彼の声にようやく気付く。おれも、お前と一緒。穢死丸の気配がする。どこかに潜んでいる。彼も傷ついていた。わたしほどではなかった。左足は既に再生していた。破棄された工場跡地の、罅割れたコンクリートスラグが血に染まっていた。それはわたしの血だった。背骨がへし折れそうな痛みにむせ返る。震える。冷たく汗ばむ。いつものことだ。泰隆はいちど目を閉じて、ふいに笑った。見て。言った。わたしの太刀で自分の小指を切り落としたとき、泰隆は悲鳴を上げた。切り落とされた小指は死んでいた。汗にまみれながら泰隆が指を押さえていた。おれも、おんなじ。言った。わたしには彼の指先の苦痛を想像してやる余地などのこされていなかった。自分の痛みにだけむせ返った。鼻血まじりの鼻水が唇をぬらす。二人の人間が苦痛に耐える身体の温度が、ただっ広い廃墟の空間の中、わたしたちの周囲だけに密集していた。わたしが、呼吸を整え乍ら生えきった右腕を自分に翳してみたとき、ほら、と泰隆が言う。彼の指先は再生していた。《異端種》なの?言うわたしに、いまだ息を乱したまま泰隆が遅れてうなづいたときに、背後の割れたガラスの向こうに、目線があった。穢死丸に違いなかった。泰隆がわたしに笑いかけた瞬間に、穢死丸の投げた手榴弾が彼を吹き飛ばした。わたしの半身ごと。





Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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