小説 op.4-01《永遠、死、自由 Ⅱ》…まだ誰も見たことのない風景を、見ようよ。
この作品に出てくるレ・チ・ゴという人物にはモデルがあって、
井川省、という、旧大日本帝国陸軍の将校です。
敗戦後、ベトナムに残留して、ベトナムで、ベトナムのために戦いました。
第二次世界大戦終戦後、日本に帰らずにベトナムに残った、
いわゆる《残留日本兵》たちの殆どが、
あの、長い長い、そして人類史上もっとも凄惨なものに数えられる
《ベトナム戦争》に、ベトナムの独立~統一のために参加し、
陸軍学校を作り、または実践参加し、と、かなり深く関係していた、
というのを知ったとき、
非常に驚き、興味を持ちました。
それぞれに、さまざまな必然性があったんだと想うんですが、
昨日まで自分が植民地支配していた、まだ《国》が成立していない荒野で、相手にして
巨大な国家を相手にして、しかも、自分のためではなくて、他人のために戦うこと。
すごいことだと想うんですね。
この人物は、《花々を埋葬する》にも出てきます。
この作品の全体の構成は、
永遠、死、自由 Ⅰ
永遠、死、自由 Ⅱ
愛する人
永遠、死、自由 Ⅲ
愛する人
永遠、死、自由 Ⅳ
永遠、死、自由 Ⅴ
真ん中の3つが、まとまった長さを持ったエピソードで、
前半、後半の2つは、全体の序曲、終曲として、機能します。
2018/05.16 Seno-Lê Ma
永遠、死、自由 Ⅱ
燃え上がった熾火を避けながら川沿いに走った。彼らが戦争をしているのは知っている。レ・チ・ゴと彼らに呼ばれた日本人が命じるままに、わたしはフランス兵の宿舎に火を放って回った。再生された左手の、未だに陽に焼けてはいない真っ白い生々しさは、それはわたしの肌の地の色に他ならなかった。外気に初めてふれる生まれたばかりの身体の一部。再生したばかりの。
貴様はどうする?
…国へ、帰るか? 井川聖が言ったとき、わたしは首を振って、いえ、ここで、と言いかけ、彼は言い終わるのさえまたない。
…わかった。
皇国が敗戦したのは知っていた。とんでもない爆弾が、そこを焼き尽くしてしまったらしい。わたしは、わたしたちが、これからどうなるのか、まだ知らなかった。殺されるのか。拘束されるのか。解放されるのか。何が起こるのか。
やがてはこのあたりがベトナムと呼ばれるのは知っている。
それは今ではない。
この土地は、今、誰のものでもない。ベトミンや、無数の革命ゲリラや、仏軍が何と言っているかに拘わらず、今、どこにも侵略者など存在せず、どこに被侵略者など存在しない。
そこは、剥き出しの単なる地表、そしてその上にはいつくばった哺乳類の群れの飢えた共食いに過ぎなかったから。
地表はいま、その裸体を曝した。にも拘らず、彼らは彼らの、彼ら自身によって制定された所有権の保護の名の下に戦う。所有権を獲得するために。
もっと大量の殺戮も可能だった。
だが、そんな暇はなかった。躍るようなフランス語の短い叫び声の連なり。彼らの一人が撃ち落としたわたしの左腕と、体半分が覚醒しない前に、一度わたしは逃げなければならない。穢死丸を探し出し、殺すために。
彼らが、わたしを殺してしまう前に。
2079年の《北京事件》。
東京上空で、北京から遅れること2時間30分後に爆発した中国製の核爆弾はいったいどれだけの鳩を巻き添えにしたのだろう?廃墟のビルの谷間を、鳩が三羽、まばらに飛んだ。廃墟と化したトウキョウ・シティは静寂の中で、朝日が差し始めた瞬間が一番美しい。そう、ハナエ=龍(ロン)は言った。
「むかし、化け物だって言われた。」
「まじ?…なんで?」
「醜いからだよ」言って笑ったわたしの声を、芳乃も聞いた。直人も聞いていたには違いなかった。直人は美しい男だった。柔術で鍛えられた身体は、いつも猫のような優美さを持って、空間にしなった。「むかしって、いつ?」直人は笑っていた。こんなに綺麗なのに?整形した女の子みたいに。芳乃の笑い声。彼女の口元の空気を揺らすそれ。千年くらい前。人々は言ったものだった。鬼面と呼んで、わたしを忌避した。あまりにもはっきりと、眼と鼻と口を刻んだ顔。まるで人間の顔のカリカチュアのように見えたに違いなかった。あの、ちいさなひそひそ声の、いつでも飢えた滅びかけの島国の人間たち。直人はわたしの美しい顔の皮膚に唇を寄せて、いつまでわたしたちは愛し合っていられるのか、それはわたしたち自身にもわからなかった。
東京のオリンピックが終わって町中は沈静化した。
わたしは、確かに直人を愛していた。我那覇直人は二十歳だった。沖縄には行ったこともなかった。母親はもう何十年も沖縄には帰ったことがなかった。苗字は単なる苗字に過ぎなかった。美奈という名の彼の母親は刑務所の中にいた。彼女は直人と別れた後の二人目の結婚相手を殺した後、家ごと火をつけようとした。直人に害はなかった。彼はすでに家出していたから。面会に行ったとき、美奈は、ぜんぶ自分が悪いのだといった。出会った男みんながわたしを捨ててしまうのは。すぐにほかに女を作って、わたしを傷つけようとすることは。「あたま、おかしいから」直人は言った。「自分を中心に、世界が回ってると思ってる」直人は信じようとしなかったが、本当に男たちは美奈を傷つけようとしたのかも知れなかった。殺された日野辰雄という六十近い男が本当に浮気していたのかどうか、そんな事はもはや誰も知らなかった。「昔からそうだよ。生まれてこなきゃ良かったのに」直人の声には、何の神経の震えもなかった。「出来損ないの人間なんだから…」むしろ「所詮は。」彼は彼が見た事実だけを語った。彼が好きだったヴィヴァルディがいつも、いつも、彼の部屋の中で鳴っていた。爪先立ちで叩き付けるようなリズム。こすり付けられた弓が引き裂くような音を空間にたて、空気の振動が共鳴しあった。
新しい、…ね? 小島は言った。誰も見たことのない風景を見ませんか? 彼は言い、わたしはその音声の向こうにモートン・フェルドマンのひそかな音響を聞く。あまりにも饒舌な、その感情。彼の日本人の妻は、とても美しい。繊細で。その美しさを、彼女の尊厳のために尊敬した。
銃弾が空間を焦がしながら走る。
その音響が鼓膜の中と空間を切り裂く。
それが、彼を彼でなくしてしまう前に、
おれは、とどのつまりは戦争が好きだ。レ・チ・ゴ、と、ベトナム名を名のり始めた井川は言った。ベトミンに合流した将校。多くの部下が従った。ダナン=トゥーランの海外沿いをジープで走った。「貴様は?」軍服映えのしない男だった。新体詩の恋の歌でも口ずさみそうな男だった。彼のフランス語には、イタリア語のような変ななまりがあった。戦争はいい。非常にいい。健康だよ。…貴様は?
うんざりしますね。
笑うレ・チ・ゴの声を聞く。…どうでもいいんだよ。グイン・ゴック氏が滔々とおれに祖国独立の熱い胸のうちを語ったがね。民族独立。…所詮、国体の話だぜ? …国体? 犬しか食わんよ。国体のないやつらの憧憬に過ぎない。日本人を見てみろ。国体に飽きて、米軍にしっぽ振ってるそうじゃないか。レ・チ・ゴがわたしに笛を吹け、と言った。龍笛、…な。あれを吹け。…な。
ここで?
…何でもいい。眠くならないのを吹いてくれ。
海が彼の肩越しに夕焼けに染まり、レ・チ・ゴの変声期前の少年のような甲高い声が聞こえた。言った。戦争のとき、すべてが健康だ。すくすくしてる。見事なまでに。おれは好きだな。おれは戦地から離れ難い。
もし、ここが平和になったらどうするんですか?
クーデターでも起こして、内乱でも始めるさ。わたしは声を立てて笑った。懐から取り出されたピストルの銃口がわたしの額に触れた。銃口の向こうでレ・チ・ゴは屈託もなく笑っていた。敗戦してよかったな。俺もお前も、好き勝手に戦争できる。糞の役にも立たない大義にも関係なく。家畜みたいだったよ。皇国の軍人でいると言うことは。リボルヴァー式の拳銃の引き金にゆっくりと力を込め、わたしはその無音の音の気配に耳を澄ました。戦争を始めよう。…永遠に。
我らの健康を祝して。言った瞬間に、空に向けられた銃口が火を噴き、立った銃声が空間に広がった一瞬の後、消滅した。いい音だ。レ・チ・ゴは言った。硝煙の臭いが鼻を衝いた。わたしは蘭陵王を吹いた。レ・チ・ゴのために。
彼は葬られることを望んでいた。それが、彼を彼でなくしてしまう前に。神々の群れに食い尽くされる。人麻呂と呼ばれたあの猿丸と言う名の男は、流された島で自殺したと聞いた。不思議な男だった、詩の才能にあれほど恵まれ、天皇の病的な嫌悪と背中合わせの寵愛をさえ受けながら、すべての人々は彼を忌み、おそれた。呪符が張られた牢獄の檻の中にかくまわれ、彼は言われるままに歌い、誰かが筆記した。神(モノ)に支配された彼の身体は腐敗の度を増し、朽ちるに任せていく。やがて《らい》と呼ばれ、ついにはハンセン氏病として知られるに至るそれらの実態は、今、神の不意の直接的な接触以外ではない。
誰も彼に触れてはならない。触れることさえできない。
あなたのような神に附かれなくてよかったと彼は言った。なぜなら、いつか死ぬことができるから。例えそれがどれだけ屈辱に満ちたものであっても。神々に辱められた彼の身体は、もはや痛みさえ感じてはいなかった。痛みは与えられた瞬間に神々が食い散らして仕舞った。彼に来るべき死。放置された合併症の連鎖の果ての。…死んでしまえるから。わたしは、あなたと違って。
朝廷の命じるままに、彼は彼の牢獄を移されていく、何度も。術師が朝廷のための彼が存在すべき新しい方位を指示するたびに。神々を鎮め続けるために。神々に触れられないで済ますために。
一つの島が海に飲まれた。ほとんどの島民が死に、地震が地表を割った。土砂降りの雨に山が崩れて、人々はその土地を、埋まった死者ごと捨てた。人麻呂の崩壊しかけた手のほどこしようのない身体。苦痛から解放された、その。誰もそれに触れはしなかった。
振り下ろされた穢死丸の刀が、そのまま口蓋の骨格ごと刺し貫いて、わたしは地面に貼り付けにされたが、すぐ近くの滝の音だけが鮮明に耳を打つ。こまかな音の繊細さが群がって、それらはもはや轟音に過ぎない。ただ、耳は聾された。たしかに、それ以外には今何も聞こえないのだから、わたしには今何も聞こえてなどいない。悲鳴が、内側から神経を食い破るような苦痛に支配され、片腕から血を噴出し乍ら穢死丸はわたしに火をつけた。
香水の臭いがするな。レ・チ・ゴは言った。林に身を潜め、仏軍の小隊の寄宿舎の周囲を囲んだ。ベトナム兵たちにフランス語で指示を出す。背後の痩せた男が、一瞬、歯軋りした。熱帯の日に灼けた、その皮膚。…ベトナム人たち。唇が震える。生まれて初めての発砲の瞬間を前に。さぁ、ボンジュール、と、言ってやれ。笑い、レ・チ・ゴが発砲を指示した瞬間に、無数の銃弾がムッシュウたちを打ち抜いた。白い肌の、遠い国から来たまだ若い男たちを。
なんで、そんなに、お綺麗なんでしょう? ハナが言った。彼女の島田に結った髪に陽光が刺し、確かに彼女は美しい。彼女は《花》には違いないが、なぜかそれを恥じた。お花のハナではありませんの。うそをつく。伏せられた目で。恥らわれるべき《花》の意味はなんだったのか。遠くに詩吟が聞こえ、疎らな物音が、しかし、それらはわたしの彼女への見つめる眼差しを留めることなどできない。うぶな上気した肌で、冗談のように笑いながら、おうつくしすぎて、まあ、夢みたような、とハナが言葉半ばに言い捨ててしまうのを、紅葉にはまだ遠い。なぜなら、今はまだ夏だから。
蒲原芳乃、という名前だった。その女の頭を撫ぜてやって、直人はわたしに笑いかけた。芳乃は病院で働きながら、直人の生活のすべてを支えた。無職の直人は、まるで簒奪者のように、彼女と生きた。彼女だけではなく、多くの女たちと。女は、いつでも彼にとって、自分に奉仕するために生きていいる社会的分子に過ぎなかった。
壊れそうに幸せな笑顔で、芳乃は直人を見上げた。
二十代後半の、背の高い女。あいつが死んだとき、と、やがて、直人は言った。これって、幸せな死にかただなって、そう思った。美しい髪の毛がたれかかり、ななめの日差しがその流れるような皮膚の凹凸に影をやわらかく飾った。芳乃は乳癌を主とした癌で死んだ。すでにほかの女が直人をやしなっていたが、最期の時期に付き添った病院の中で、…幸せ? 直人が言った。
「なぜ?」
「だって、幸せそうだったから。…鼻からチューブ刺されて、でも、幸せそうなの。もう、笑顔も作れないけど。」しあわせ、と、芳乃の唇がかすかに動こうとしているのがわかった。その瞬間、直人の眼から零れ落ちた涙が、芳乃の頬に触れた。あいつ、幸せだったよ。直人が言った。だって、俺に泣いてもらいながら死ねたんだぜ。
本気だった?「…え?」
「本気で泣いたの?」わたしの言葉に答える代わりに、直人はわたしの性器に舌を這わし、皮膚感覚だけに研ぎ澄まそうとした。わたしたちは、意識のすべてを。女など、愛したことがあるはずがなかった。美しく、いつでも素敵で、いつでも魅力的な我那覇直人は。生まれてから一瞬たりとも。母親さえも?
…もちろん。
「…本気だったよ。…本物の涙。…だって、」…悲しかったから。直人が思い出したように言った。
身を潜ませた仏軍の弾丸が木立に向こうからわたしたちに降り注いだとき、ややあって、友軍のジープはすべて逃げおおせたが、わたしの砕けた左足はすでに再生している。接近した兵士たちのフランス語は聞こえるが、わたしには解せない。レ・チ・ゴが生きてさえいれば。彼は十分、話せたのに。彼の呼吸は永遠に止まる寸前の、途切れ途切れの喘息のような息をうち、彼はすぐに、死んでしまうのだった。この、林の中の、しずかな空間の中で。周囲には、蝉の音さえして。足音が地面に聞こえた。目を開けなかった。耳だけを澄ました。木漏れ日がまぶたの向こうに触れ、背中に土の執拗なやわらかさがあった。
その、夏の温度と。
見つけ出した穢死丸を背後から槍で突き刺したとき、樹木に貼り付けにされた彼を、しかし、火の気がない。無様に、彼はもがくより他にすべはない。火をつけることの出来ないもどかしさに、しかし、諦めるしかないのだった、今は。背後で、わたしを見つめ乍ら優花が言った。「手伝おっか?」聞く。
その、うつろな声。かすかに震える、あらゆるものに嘘をつきとうそうとしている声。
「いいよ」わたしは振り向きもせずに答え、優花にできるはずがなかった。穢死丸の四肢をぶった切ってばらばらにすることなど。とりあえず、いま、彼が追ってはこないように。それが、彼の更なる繁殖を意味しようとも。周囲に飛び散った血が、匂った気がした。優花のこころを壊してしまう前に。わたしはあせった。髪が長い女だった。花の内側、花弁に根もとに鼻をつけたときに漂うような臭いが、髪の毛にした。いま、失禁した彼女の汗まみれの体が匂った。
朝廷が命じるままに、わたしは人麻呂の世話をした。神に食われた《不死の人》だったから。彼等はわたしが白い頭巾をかぶることを求めた。でたらめに、後頭部にでたらめな人の顔が描かれた頭巾を。何の意味があるのかは術師しか知らない。彼等は身を寄せ合って、まるで家畜のように笑い、集団で、ささやくような早口でしゃべった。
「革命って、いいね」直人が言った。直人はわたしの背中が好きだった。直人が愛した後背位での性交。彼は好きだった。私の筋肉の筋が、背中の皮膚の下に軋むのが。「…なんか、惹かれる」
「革命?」…ねぇ、
「チェ・ゲバラとか。…知ってる?」愛し合うときって、…さ。結局、黙り込むでしょ? 見詰め合って、「戦争って、もう、できないよね、」まさぐりあって、沈黙する。あー、あー、んんー、いー、うー、…それだけ。…ね?「20世紀みたいな戦争ってもうできない。けど、」言葉って、たぶん、人を完璧に殺しちゃうための道具なんだぜ。…完璧な殺戮のための道具。「革命やクーデターだったら、ありなんじゃない?」ね? …じゃない?「愛する人の前では言葉は沈黙する。誰かを殺させようとしたり、殺した後で正当化したり、戦争や大量殺戮を鼓舞しようとしたときにだけ、言葉ってどうしようもなく美しくなる。」私が笑う声を耳元で聞いて、伝えた。彼の呼吸を。直人の、私の背中に押し詰められた胸と腹部の皮膚が。心臓の鼓動さえ聞こえるかもしれない気がし、耳を澄ましたが、わたしに聞こえるのは耳元の、彼が息遣う声だけだった。「いつするの?」
「なにを?」
「革命。」
「かくめい?」…いいね。直人の笑い声はいつも、空気がこすれあったような渇いた感触を耳に残す。「あした、やろうよ。」
…なんか、理由探して。
芳乃は言った。二人の関係って、知ってるけど。…言いあぐねて、でも、…さ。そういう気持ちも、あるのかなって。男の人って。ときどき、…「理解する。…してる、よ。」…わたしは。芳乃はベランダに花を育てた。いっぱい、傷ついた気持ち、あるじゃない? 直人にも。なんか、…花の名前は知らない。そう言うものなのかなって。色彩。白とピンク、青みがかった紫。白いプラスティックの鉢の中に。…いやだけど。笑う。いやだけどさ。実際は、…けど、さ。ね?…でも、…理解してあげたいじゃん。「無理やり?」わたしを見つめた黒目の色彩。無数のグラデーションの氾濫。わたしは、…理解してる。
…知っているか? ぶった切られた頭部が再生するとき、見えてもいないはずの光の束が遠くに、内側をすら通り過ぎた在り得ないほどの至近距離で見える。まさに空間が引き裂かれた苦痛を感じているのを知っているが、それを知覚することさえ出来ない。何を記憶していて、何が失われてしまったのかさえ、わたしには既にわからないのだろう。降りしきる雨が、いまだに雨とは知覚されない触感の現実となって、残存する皮膚の下の、残存する神経系を打ちのめす。しずかに、
「芳乃、死んだよ」
「いつ?」
「いま。」病院から出てきた直人を出迎えたとき、わたしは表情を失った彼の顔を見た。バイクに乗ったまま、わたしは彼を見つめるしかない。その、あまりにも健康的な、ほのかに赤らんだ白澄んだ皮膚に、たしかに執拗な焦燥の翳が落ちていた。「だいじょうぶ?」
「おれ?」わたしを振り向いて「だいじょうぶ。けど、さ。」
「なに?」
「生き返らせてやりたいな。できるなら。いくらなんでも」…あんな死に方はないよ、直人はもう一度、その言葉を繰り返すだろうか? 60年代に、アフリカを中心に拡がり始めた《死者たち》の復活の以降にさえも。やがてイブと呼ばれるようになった、最初にリベリアで発見されたそれはあくまでもオカルトに過ぎなかった。70年代に《復活》が急激に拡大してからは、埋葬と同じ死にまつわる当たり前の日常に過ぎなくなった。まともな知性もなく、人に襲い掛かるわけでもなく、ただ、体を動かし、あるいは痙攣させながら、やがて腐っていく《死者たち》。人体の総体としての死と、細胞固体の死が乖離したのだ、とあるベルギー人の女性研究者が言った。総体としての《彼》、いわば《人格》としての《彼》は死んだが、その破綻を《彼》を構成した細胞のすべてが受け入れなければならない必然性は、本来、ない。彼女はベトナム移民の4世だった。すでに人々の大半は《不死》を獲得しようとしていた。日本出身の小島という男が残した研究に基づいた、コジマ・生体-地政学とよばれたノンコーディングDNAの書き換えの技術が、中国で、やがて、本当に彼らを不死にしようとしていた。
「どんな風だった?…苦しんだの?」
「いや。…ぜんぜん。…眠るみたいに。」
培養された書き換え済みDNA[コジマDNA]によるクローン体作成の技術。急激な成長と強靭な再生能力を誇るクローン体に、移植された人体頭部は、脳と神経系以外の細胞が書き換え済み細胞に、その新陳代謝における優位性による淘汰によって食い尽くされた挙句に、完全に、半=不死の身体を獲得することができた。倫理問題は紛糾したが、中国に、世界中からその異端的な技術に対するオーダーは既に殺到していた。王硯民が筋弛緩症に蝕まれたウクライナの少年への施術を決断したとき、公式発表さえなかった手術の前日に王はその家族全員とともに自宅で射殺された。軍用機関銃だった。明らかに、政治的な団体の犯行に他ならなかった。白人たちの世界はむしろ、その術式の容認に世論を移した。ウクライナの少年は王射殺の三週間後に死んだ。「どんな風だった?」風が吹いて、「…苦しんだの?」直人の髪の毛が乱れるのをわたしは見た。悲しげな色彩さえ浮かばない、ただ、翳った直人の無表情な眼差しの先に、アスファルトのざらついた表面にできた、斑でこまかな影と光だけがあることには気付いていた。「いや。…」言う。わたしはその「ぜんぜん。」声を聞く。信じられないよ「…眠るみたいに。」信じられないくらいに、眠るみたいに、直人の声は、…死んでくんだね。震えさえしない。…ヒトって。ささやく。口先でだけ。
…ひからびて、眠るみたいに死んだ。
音さえ立てない。
もう、生きてたくない。言った優花から眼を背けた。なんど彼女は手首を切れば気が済むのだろう?本気で死ぬ気などないくせに。「無理。…もう」狂言? だれに、「もう、…」ついたの?
うそを? きみは、きみの、それを?
生きたい? 死にたい? 自分に聞いてみる。
どう?
窓越しの逆光の中、窓の向こうで鳥が飛んでいた。鳩が?
灰褐色の翼。
優花の恍惚とした眼差しに、他人を哀れんだ無際限に優しい色彩が浮かんでは消え残る。
切って仕舞えば、いつも。血の、繊細なしたたり。
しずかに、ただ、
しずかにしろ、とレ・チ・ゴがいい、林の向こうに銃口を向ける。わたしは思い出す。やがて、わたしは知っていた、2029年の北朝鮮の軍事クーデターの勃発に伴う環太平洋核ベルト構想の実行さなかに、優花と言う名前の女が自殺した。たしかにわたしは彼女を愛してもいたし、彼女は私を愛したに違いない。彼女はビルの屋上から飛び降りながら、鳥になるにはどうすればいい? 彼女は、かつて、言ったものだった。意味もない、悲しげな表情で、彼女がただ何かを悲しんでいたのは知っていた。なにを? それは精神科医の領域であって、わたしの領域ではなかった。結局のところ、わたしは彼女について何も知らなかったに等しい。あれほど、ときに、彼女を抱きしめ、彼女はわたしに口づけ、あれほど、知ってる? 優花は言った。…愛し合ってさえいたのに? もうすぐ、と、そして、歴史的には、武力均衡の名の下に、沖縄の自衛隊基地という名の名目の、実質米軍基地に核兵器が配備されたときに、我那覇直人という名の男を首謀者とする自衛隊《恒久平和派》の武装蜂起が遠く東京の政府を占拠した。嘘のように成功したクーデター。そして生誕した《琉球国》の不安定な絶対中立=絶対独立をうたう政権が、ことごとく、かつて日本と呼ばれた国の経済を中心に、世界経済を破綻させていく、混乱期の来る寸前の、あの空の色彩は?
どうだった?
しばらくふみ迷ったあとにけりだして空中に飛び出してしまった君の見た、空の、色彩は?
優花、…光の。死にたいのなら、
真夜中。六本木。ビルの屋上で、彼女は声を立てて笑った。優花がわたしの手を振りほどいたとき、それは戯れだ、と思った。ただの冗談。
いつもの。
彼女の身体は車道に叩き付けられ、タクシーが撥ねた。六本木の交差点のガードが向こうに見えた。それは薄汚れていた。喚声がわきおこっているのに気付いた。心臓が鼓動していた。わたしのそれが。血は流れなかった。優花の身体がアスファルトの上、茶色く染まっていた。生きている存在の色彩ではあり獲なかった。静かな雨が彼女の衣服を濡らし、その美しい流線型をいつの間にか浮かび上がらせていた。
わたしの手に、彼女が残した飲みかけのオレンジ・ジュースの缶が残った。
今なら死ねる、と想った。《重度汚染地区》のはずれ、旧日本国領土地区旧海底部旧東京湾区域A-01-23区の罅割れた地面の上で、はるか向こうに沈む日の光を見乍ら。今なら、いつでも。放射能に汚染された死の空間。北京の上空で中国所有の無数の核爆弾が炸裂したとき、北の空が黄ばんで小さなグラデーションを作った。空の向こうで、小さなしみのように。惨めなほどの破滅の色彩。何億人もの人間を焼き尽くし、吹き飛ばした小さな空のしみ。干上がった海底からせり上がった、広大な干潟。たとえばここで、《防御スーツ》を脱ぎ去ればいいだけなのだった。死、それは既に、いつでもた易くわたしの手のひらの上に載っていた。わたしだけのための、わたしの死。
いつか、小島が夢見ていたように、国家は形骸化して行った。あまりにも洗練された軍事技術が戦争行為を不可能にし始めたからなのか、インターネットを介した通貨システムが通貨の国家管理システムを形骸化したからなのか。あるいは人々が新しい不死のヒューマニズムに目覚めたからなのか。たんに国家という統治形態に基づいた既存政治システムに飽きたからなのか。国家が単なるライフラインと保険のファンド組織に過ぎなくなったとき、ときに、突発的に、人々は民族と言う名の価値観に熱狂した。《琉球国》で2057年に起きた朝鮮民族大量虐殺を、小島はどんな風にみただろう? 彼が生きていたなら、小島も殺されたのだろうか? 金という苗字を捨ててしまった、在日本朝鮮人だった小島も? 千葉市の海岸線に山のように詰まれた朝鮮人たちの《第一級処分》された遺体の群れと、《コジマDNA》によって、死に得なくなった人々の拘束体の群れのとのごちゃまぜの共存に、日本人たちは眉をひそめた。暴れまわる生ける者たちと、《死者再覚醒》しかけた遺体の群れの痙攣に手間取りながら、火を放つ。黒煙とその臭気が、大気を満たした。
レ・チ・ゴが愛したランボォ。義理の父にフランスかぶれの赤い将校と陰口を叩かれた彼は、わたしは再び見つけた、戦争の中でしかもう、と彼が言った。生きて行けない気さえする。なにを?
永遠を、ベトミンに加担したいわけではないが、ここには戦場がある。太陽とともに去った、「貴様は?」…海を。わたしは? …アメリカに征服された国なんかで、生きていけるのものか? 同じことだがね。日本なんかに征服された国で生きていくことも。家畜であるという意味においては同じだよ。貴様はどうだ? レ・チ・ゴとベトミンの兵士とは協調しあい、同じ戦場に生き、同じ火薬の匂いに晒されながら、しかし、見ていた風景は明らかに違った。彼は裏切り者だっただろうか? 常に。どこでも。一度たりとも、その言葉の本当の意味では、彼らとともに戦いなどしなかったのだから。彼の祖国、いまや崩壊したかつての皇国に対しても、いまだ為らず、いまだ未生のベトナム国に対しても。彼らに新しいベトナム人と呼ばれさえしながら。日に灼けた顔の群れが、笑顔を並べる。
あたらしいベトナム語名さえ、それは単なる音のつらないに過ぎなかったのか? 彼にとっては。彼の倫理として、常に裏切り者であろうとする限りにおいて。
石見の国で、手の施しようもなくなったあの神つきの詩聖が殺されたのを知ったのは百年近く経った後だった。殺されたのか、安楽死と呼ばれるものだったのか、それをはわたしは知りえない。
2018.11.19.
Seno-Lê Ma
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