中論 Mūlamadhyamaka-kārikā 觀本住品・龍樹 Nāgārjuna の偈を、青目 Piṅgala が釈し、三蔵法師鳩摩羅什 Kumārajīva が訳す・漢訳原文と書き下し(13)


中論卷の第二

  龍樹菩薩造

  梵志靑目釋

  姚秦三藏鳩摩羅什譯す



■中論觀本住品第九、十二偈

問曰。有人言。

問へらく〔曰〕、

「有る人の言はく、

 眼耳等諸根  苦樂等諸法

 誰有如是事  是則名本住

 若無有本住  誰有眼等法

 以是故當知  先已有本住

眼耳鼻舌身命等諸根。名為眼耳等根。苦受樂受不苦不樂受。想思憶念等心心數法。名爲苦樂等法。有論師言。先未有眼等法。應有本住。因是本住。眼等諸根得增長。若無本住。身及眼等諸根。爲因何生而得增長。答曰。

≪眼耳等の諸根

  苦樂等の諸法

 誰か是の如きの事を有す

  是れぞ〔=則〕本住と名づく

 若し本住有ること無くば

  誰か眼等の法を有す

 是れを以ての故に當に知るべし

  先きに已に本住有りと≫

 眼・耳・鼻・舌・身・命等の諸根、名づけ眼耳等の根とす〔=爲〕。

 苦受・樂受・不苦不樂受・想・思・憶念等の心・心數法を名づけ苦樂等の法とす〔=爲〕。

 論師有り、言さく、

 『先きに未だ眼等の法有らざれば應に本住有るべし。

  是の本住に因り眼等の諸根、その增長を得たり』と。

 若し本住無くば、身及び眼等の諸根、何に因り生じ〔=而〕その增長を得たる〔=爲〕」と。

答へらく〔曰〕、


 若離眼等根  及苦樂等法

 先有本住者  以何而可知

若離眼耳等根苦樂等法。先有本住者。以何可說以何可知。如外法瓶衣等。以眼等根得知。內法以苦樂等根得知。如經中說。可壞是色相。能受是受相。能識是識相。汝說離眼耳苦樂等先有本住者。以何可知說有是法。問曰。有論師言。出入息視眴壽命思惟苦樂憎愛動發等是神相。若無有神。云何有出入息等相。是故當知。離眼耳等根苦樂等法。先有本住。

≪若し眼等の根

  及び苦樂等の法を離れ

 本住、先有ならば〔=者〕

  何を以て(而)か知らる可き≫

 若し眼耳等の根・苦樂等の法を離れ先きに本住有らば〔=者〕何を以てか說く可き。

 何を以てか知る可き。

 外法たる瓶・衣等の如き、眼等の根を以て知り得たり。

 內法、苦樂等の根を以て知り得たり。

 經中に說けるが如し。

 ≪可壞は是れ色相。

  能受は是れ受相。

  能識は是れ識相≫と。

 汝、『眼耳・苦樂等を離れその本住先有なり』と說かば〔=者〕、何を以て可く是の法有るを知りて說きたる」と。

問へらく〔曰〕、

「論師有り、言さく、

 『出入息・視・眴・壽命・思惟・苦樂・憎愛・動發等、是れ神の相なり。

  若し神有ること無くば云何んが出入息等の相有らん』と。

 是の故に當に知るべし、眼耳等の根・苦樂等の法を離れ、本住、先有なりと」と。


答曰。是神若有。應在身內如壁中有柱。若在身外。如人被鎧。若在身內。身則不可壞。神常在內故。是故言神在身內。但有言說虛妄無實。若在身外覆身如鎧者。身應不可見。神細密覆故。亦應不可壞而今實見身壞。是故當知。離苦樂等先無餘法。若謂斷臂時神縮在內不可斷者。斷頭時亦應縮在內不應死。而實有死。是故知離苦樂等先有神者。但有言說虛妄無實。復次若言身大則神大。身小則神小。如燈大則明大燈小則明小者。如是神則隨身不應常。若隨身者。身無則神無。如燈滅則明滅。若神無常。則與眼耳苦樂等同。是故當知。離眼耳等先無別神。復次如風狂病人。不得自在。不應作而作。若有神是諸作主者。云何言不得自在。若風狂病不惱神者應離神別有所作。如是種種推求離眼耳等根苦樂等法。先無本住。若必謂離眼耳等根苦樂等法有本住者。無有是事。何以故。

答へらく〔曰〕、

「是の神、若し有らば應に身內に在るべし。

 壁中に柱有るが如くに。

 若しは身外に在らんや。

 人、鎧を被るが如くに。

 若し身內に在らばその身は〔=則〕不可壞。

 神常に內に在らば〔=故〕。

 是の故、『神、身內に在る』と言ふは但に言說のみ有り。

 虛妄なり。

 無實なり。

 若し身外に在り身を鎧の如くに覆ひたれば〔=者〕その身應に不可見。

 神、細密に覆ひたれば〔=故〕。

 亦應に不可壞なるべきに〔=而〕今實見には身は壞す。

 是の故に當に知るべし、苦樂等を離れ先きに餘法無しと。

 若し『臂を斷ずる時、神縮みて內に在らば斷つ可くもなかりき』と謂はば〔=者〕、頭を斷つ時亦應に縮みて內に在り應に死ぬべからず。

 而れど實には死、有り。

 是の故に知れ、苦樂等を離れ先きに神有るとは〔=者〕但に言說のみ有りと。

 虛妄なりと。

 無實なりと。

 復、次に若し『その身、大なれば〔=則〕神も大なり。

 その身、小なれば〔=則〕神も小なり。

 燈、大なれば〔=則〕明かり大なりて燈、小なれば〔=則〕明かり小なるが如くに』と言はば〔=者〕、是の如き神は〔=則〕その身の隨なり。

 應に常なるべからず。

 若しその身の隨なれば〔=者〕、その身無くば〔=則〕神も無し。

 燈滅しせば〔=則〕明かり滅するが如くに。

 若し神無常なれば〔=則〕眼・耳・苦樂等と〔=與〕同じき。

 是の故に當に知るべし、眼・耳等を離れ先きに別に神は無しと。

 復、次に風狂の病人の如きは自在を得ず。

 應に作すべからざるを、(而)作したり。

 若し神有り、是れ諸作の主ならば〔=者〕云何んが『自在を得ず』と言ふ。

 若し風狂の病、神を惱まさずば〔=者〕應に神を離れ別に所作有るべし。

 是の如く種種に推求するに眼耳等の根・苦樂等の法を離れ、先きに本住無し。

 若し、しかれども〔=必〕『眼耳等の根・苦樂等の法離れ本住有り』と謂はば〔=者〕是の事有ること無し。

 何を以ての故に。


 若離眼耳等  而有本住者

 亦應離本住  而有眼耳等

若本住離眼耳等根苦樂等法先有者。今眼耳等根苦樂等法。亦應離本住而有。問曰。二事相離可爾但使有本住。答曰。

≪若し眼耳等を離れ

  而も本住有らば〔=者〕

 亦應に本住を離れ

  而も眼耳等有るべし≫

 若し本住、眼耳等の根、苦樂等の法を離れ先きに有らば〔=者〕今、眼耳等の根、苦樂等の法も亦、應に本住を離れ而も有るべし。」

問うて曰はく、

「二事相ひ離るるは爾る可くも、それ但、本住を有らしめ〔=使〕たるのみ。」

答へて曰はく、


 以法知有人  以人知有法

 離法何有人  離人何有法

法者眼耳苦樂等。人者是本住。汝謂以有法故知有人。以有人故知有法。今離眼耳等法何有人。離人何有眼耳等法。復次。

≪法を以て人有るを知る

  人を以て法有るを知る

 法を離れ何んが人有る

  人を離れ何んが法有る≫

「法とは〔=者〕眼耳・苦樂等なり。

 人とは〔=者〕是れ本住なり。

 汝、『法有るを以ての故に人有るを知り、人有るを以ての故に法有るを知る』と謂はば今、眼耳等の法を離れ何んが人有る。

 人を離れ何んが眼耳等の法有る。

 復、次に、


 一切眼等根  實無有本住

 眼耳等諸根  異相而分別

眼耳等諸根苦樂等諸法。實無有本住。因眼緣色生眼識。以和合因緣。知有眼耳等諸根。不以本住故知。是故偈中說一切眼等根實無有本住。眼耳等諸根各自能分別。問曰。

≪一切眼等の根

  實には本住有ること無し

 眼耳等の諸根

  異相なりて〔=而〕分別す≫

 眼耳等の諸根、苦樂等の諸法、實に本住有ること無し。

 眼に因り色に緣じ眼識は生ず。

 和合因緣を以て眼耳等の諸根有るを知る。

 本住を以ての故に知るにあらず。

 是の故、偈中に說けらく、≪一切眼等の根、實には本住有ること無し≫と。

 かくて眼耳等の諸根、各自に能く分別したり」と。

問へらく〔曰〕、


 若眼等諸根  無有本住者

 眼等一一根  云何能知塵

若一切眼耳等諸根。苦樂等諸法。無本住者。今一一根。云何能知塵。眼耳等諸根無思惟。不應有知。而實知塵。當知離眼耳等諸根。更有能知塵者。答曰。若爾者。爲一一根中各有知者。爲一知者在諸根中。二俱有過。何以故。

≪若し眼等の諸根

  本住有ること無くば〔=者〕

 眼等、一一の根

  云何んが能く塵を知る≫

「若し一切の眼耳等の諸根・苦樂等の諸法、本住無くば〔=者〕今、一一の根、云何んが能く塵を知る。

 眼耳等の諸根に思惟無し。

 應に知り得べからず。

 而れど實には塵を知りたり。

 當に知るべし、眼・耳等の諸根を離れ更らに能く塵を知る者有りと」と。

答へらく〔曰〕、

「若し爾らば〔=者〕一一根中に各に知る者有りとせ〔=爲〕ん。

 一の知者、諸根中に在りとせ〔=爲〕ん。

 二俱に過有り。

 何を以ての故に。


 見者即聞者  聞者即受者

 如是等諸根  則應有本住

若見者即是聞者。聞者即是受者。則是一神。如是眼等諸根。應先有本住。色聲香等無有定知者。或可以眼聞聲。如人有六向隨意見聞。若聞者見者是一。於眼等根隨意見聞。但是事不然。

≪見者即ち聞者

  聞者即ち受者

 是の如き等の諸根は

  〔=則〕應に本住有らん≫

 若し見者即是に聞者、聞者即是に受者ならば〔=則〕是れ一神なり。

 是の如き眼等の諸根、應に先きに本住有るべし。

 色・聲・香等に、定んでその知者有ること無し。

 或は眼を以て聲を聞く可し。

 人の、六向に有りて隨意に見聞するが如くに。

 若し聞者、見者是れ一ならば、眼等の根に〔=於〕隨意に見聞せん。

 但に是の事然らず。


 若見聞各異  受者亦各異

 見時亦應聞  如是則神多

若見者聞者受者各異。則見時亦應聞。何以故。離見者有聞者故。如是鼻舌身中。神應一時行。若爾者。人一而神多。以一切根一時知諸塵。而實不爾。是故見者聞者受者。不應俱用。復次。

≪若し見聞、各に異なり

  受者も〔=亦〕各に異なり

 見時も亦應に聞くべし

  是の如き、則ち神、多なり≫

 若し見者・聞者・受者、各に異ならば〔=則〕見時にも〔=亦〕應に聞くべし。

 何を以ての故に。

 見者を離れ聞者有るが故に。

 是の如き鼻・舌・身中に神應に一時に行ずべし。

 若し爾らば〔=者〕人は一にして〔=而〕その神は多なり。

 一切根を以て一時に諸塵を知れば。

 而れど實には爾らず。

 是の故、見者・聞者・受者、應に俱に用ふべからず。

 復、次に、


 眼耳等諸根  苦樂等諸法

 所從生諸大  彼大亦無神

若人言離眼耳等諸根苦樂等諸法別有本住。是事已破。今於眼耳等所因四大。是四大中亦無本住。問曰。若眼耳等諸根。苦樂等諸法。無有本住可爾。眼耳等諸根。苦樂等諸法應有。答曰。

≪眼耳等の諸根

  苦樂等の諸法

 從ひ生ずる〔=所從生〕諸大

  彼の大にも〔=亦〕神無し≫

 若し人、『眼耳等の諸根、苦樂等の諸法を離れ別に本住有り』と言はば是の事、已に破したり。

 今、眼耳等、所因の四大に於き、是の四大中にも〔=亦〕本住無し」と。

問へらく〔曰〕、

「(若)眼耳等の諸根・苦樂等の諸法、本住有ること無きは爾る可けん。

 しかれど眼耳等の諸根・苦樂等の諸法は應に有るべし」と。

答へらく〔曰〕、


 若眼耳等根  苦樂等諸法

 無有本住者  眼等亦應無

若眼耳苦樂等諸法。無有本住者。誰有此眼耳等。何緣而有。是故眼耳等亦無。復次。

≪若し眼耳等の根

  苦樂等の諸法

 本住有ること無くば〔=者〕

  眼等も〔=亦〕應に無し≫

「若し眼耳苦樂等の諸法、本住有ること無くば〔=者〕誰か此の眼耳等を有す。

 何に緣じ〔=而〕有る。

 是の故、眼耳等も〔=亦〕無し。

 復、次に、


 眼等無本住  今後亦復無

 以三世無故  無有無分別

思惟推求本住。於眼等先無。今後亦無。若三世無。即是無生寂滅不應有難。若無本住。云何有眼等。如是問答戲論則滅。戲論滅故。諸法則空。

≪眼等の本住無し

  今も後も亦復に無し

 三世に無きを以ての故

  有無の分別も無し≫

 本住を思惟し推求するに眼等は〔=於〕先きにも無し。

 今にも、後にも〔=亦〕無し。

 若し三世に無くば即是に生も寂も滅も無く、應に難有るべからず。

 若し本住無くば云何んが眼等有る。

 是の如き問答、戲論、則ち滅す。

 戲論滅すれば〔=故〕諸法、則ち空なり」と。







Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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