多香鳥幸謌、附眞夜羽王轉生——小説49


以下、一部に暴力的な描写を含みます。ご了承の上、お読みすすめください。



それはむしろ暴力的な案に想われた。わたしには。蘭はたしかに整った顔はしていた。だが、私にとって何を引きつけるということも無かった。無口な…いや、詞の有無以前の、仕草を含めたその意味で無口な彼女に憐れみは感じても、その色のいかなる色、かたちの如何なるかたちに関しても、彼女は私の思う風景に相応しくも無かった。

むしろそれゆえに?

わたしはその日没の一瞬に、具体性を持ち始めた作品計画の奴隷に成り下がって仕舞ったのでした。

タオに一言相談したところ、予想通りにタオは応えた、…モデル?

——いいですよ。

綺麗に書いてあげて、…「ね?」と。

彼女は素直に笑う。私は前に一度彼女の肖像を描いた。…全身の、そして架空の花を周囲にまき散らした彼女の望んだままの繪。…聞き取りの成果では無くて、描かれる目の、ひとり霑ませた色がそれを私に見せたのだった、わたしはこんな風景の中に、私自身を見ようとした、と。

だから、その印象の儘に言ったのだろう、須臾の後、我に返った一瞬に妹への輕い嫉妬を滲ませながら。

私は絵画に取り掛かった。

最初に取り掛かったのは下塗りでした。下塗りは私にとって、笛師にとっての笛のようなものなのです。

カンバスに何重にもブラウン地をつくり、挙句黒く塗りつぶす。そうして姿をさらした光を嫌う不細工な黑、おうとつの無い黑の上に一面の白を数度。更にブラン地を重ねて再び黑、そして白を何度か。

それで出来上がった白にふたたびブラウン被膜をかぶせる。

それだけで一か月つぶれたものの、是は乾燥した夏の大気のお陰で思ったよりも数倍以上の早さでした。

その間には蘭に手取足取りとらせたポーズでのスケッチ…これはいくつもの意味で倒錯した試みでした。まず、わたしはポーズをなど描こうという気はなかった。あるひとつのポーズをとった、その限界を維持するささやかな、持続的な、やわらかい、あるかなきなきかの、それでもやはり鮮明な苦痛の中で(だれだってじっとしているのは不愉快でしょう?それも、例えばななめに腰をくねらせて左腕を水平やや上向きをいじして伸ばし右手は背中の方にやわらかく引いてなおかつ脇に畳みかけた一瞬を、しかもゆびをわずかにそれとなく開いたままに停止している、と?)見せる光の推移の中での色と形のうつろい、…を、更に、目に見えているものの(をむしろ愚弄しさえしながら)その向こうにあるべき形と色を思い描きながら、あえて単色濃淡だけのグラデーションに描く、と。

終わるたびに、実際蘭の肌はかすかに汗ばんでいた物でした。

カンバスが仕上がった時に、わたしはいよいよ私の水浴に取り掛かり始めたのでした。一か月、頭の中には無数の水浴が現れては消え、そして実際の取った絵筆は、白い絵具に染まった瞬間にも、自分が此れから何を描くのか知りはしなかったのです。

わたしがカンバスに向かったその八月の始め…ないし、七月の最後の日?

私は耳に聲を聞いたのでした。

——描ける?

それは低い、フラットなアルト。

私はその聲を言葉として認識していた。

だから、それはまさに言葉だったのだった。

私にとっても。

恠しむ以前に、わたしは振り向いたのです。

そこ、すぐ背後に、壁にもたれて蘭がいました。

無口な眼でわたしを見つめながら。

…錯覚、いや、幻聴?

わたしはわたしを憐れみました。いまこうしていてさえ過去の狂気に苛まれる…

ふたたびカンバスに向かおうとしたときに

——ほんとは、知ってるでしょ?

はっきりと、その、顯らかな日本語。

——自分が描くものの、そのかたちさえまだ見えてない…

蘭。

かたむけた眼差しの中で、慥かに話しかけているのは蘭の唇でした。

——蘭?

まるで、なにかがその唇にだけ憑依したかにも、わたしには見えた。

——なに?

蘭は云った。

そして、顏の全体で終に微笑んだのでした。

——話せるの?

——話せるよ。

蘭はささやく。

私の傍らをすべりぬけ、軈てカンバスの前に立ってその薄いブラウンに、すれすれの鼻に油の匂いを嗅いでみせながら。

——人の言葉くらい…鳥の言葉だってはなせるも…かえるの詞、…鼠、猫の?…綺夜宇は?

——わたし?

——無理。知ってる。忘れちゃったから。もう、あなたの言葉以外、忘れたから。

——なんで…

と私が一瞬云い淀んだ時に、

——なんで?

問い返す悪戯げな蘭のまなざしに、抑々その下に続くべき詞などさいしょから持ってはいなかったことに気付くのでした。

——なに?

蘭は鼻に笑い

——なんで、話さなかったの?

——わたし?

——嘘ついてた?

——わたしが?

——だって、…みんなをだましてた?

ようやくにささやくわたしに蘭は一度、静かな言葉の無い眼差しを送り、そしてかすかに笑った息を唇に漏らしかけた一瞬に、

——そう。

と、彼女はそう言ったのでした。

——だましてた。…何でって?

惡意こめて、みんな、たぶらかそうって?

残念。ノー…ちがいます。って…ね?

だってさ。

——だって?

——みんな、俺のこと、謂うから。

頭おかしいよって。

大丈夫?…って。

かわいそうに…

かわいそうに…

此の子ったら、此の子ったら…夢と現実も区別つかないんだね…て。

——なに?…それ、…なんで?

——だって、俺が云うじゃん、俺前世覚えてるよって。

したら、さ。

…わかる?

人間の頭、かたいから。それにまだ、子供じゃん?…六才だったっけ、…かな?

から、…さ。

みんな言う、なに言ってんの?…頭おかしいの?

最終的にさ、どうなると思う?

——なに?

——俺、謂い張ると。

時々マジ切れさるからね。…笑う。

なんだそれって。なに、キレてんのって、…

——その日本語、…

——わかる?前、日本にいたから。

日野市の方。東京。…の、はずれ。

というか、多摩ってさ、それ、多摩は多摩じゃん。

あれ、東京じゃなくない?

と、云って蘭は笑った。

私は不意に呆然と、ひとり醒めた儘に意識を亡くして仕舞っていたに違いなかった。話しかけつづけた蘭の言葉を耳にさえ入れずにただ息を潜め、目を凝らしてその唇の開閉を見詰めるのだった。…と、

「ね。」

耳元にその音声がいきなり最強音で聞こえた気がした時に——聞いてる?

眼の前で、首を纔かにだけ傾けた蘭は笑った。

——俺の話、聞いてる?

——慥かに、君は、あなたは、今、話してる。

——だね。

——日本語。

——だね。

——おそらくネイティブ…わからない。本気で勉強して、しかも外国語学習の天才ででもあれば

——いや、それほどでも。

——そのくらい話せるのかもしれない、けど

——莫迦そうって?

——あたは、

——失礼だね。

——ね?

——なに?

——あなた、誰なの?

私は云った。蘭は飽きかけたようにもカンバスから身を引き離し、そしてそのまま後退して、後ろに一つだけ残されていたベッドに(すべて撤去するようにホテルに言ったのだが、収容場所がないと残されたのだ)倒れ込んだ。

——蘭。

——いまはね、…その前、…自分でいったろ、君、生まれ変わり、

——ともや、…

——ともや?

——艫也。…ふじがわ

——藤川?

——わらうよ。

——なに?

——不死。死なないって描いて、不死。それに川…で、不死川。…不死川艫也

蘭は聲を立てて笑う。そして投げつけるような聲に言うのでした。

——そんな、めずらしくないよ。珍しいけど。奈良の方に、結構いる。

——不死の川?

——…に、艫ひく也、と。笑うでしょ?そのわりにすぐ死んだ。

——すぐ?

——十六。思えばあっという間。親不孝だね。

——なんで?

——惡かったから。俺。日野の多摩川添いの土手ずっとあるいた突端にさ。あんの。

空地、みたいな。

倉庫跡地。そこに、お姉ちゃん呼び出して、…實の、じゃないよ。おれ、一人っ子だったから。

で、やっちゃった。

——やった?

——知り合いの、…同級生の、…可愛がって奴の(…て、これ、いたぶってた的な意味での可愛がりよ?)姉ちゃん。

たいしてかわいくないの。高校生。

…やすいじゃん。そんなブスの。生まれたときから値崩れ状態じゃん?

から、…さ。ねえちゃん呼び出せよって。したら、ほんと来て。で。

——なに?

——まわしちゃった。

云って笑う蘭に、…艫也に?邪気はない。







Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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