多香鳥幸謌、附眞夜羽王轉生——小説28
以下、一部に暴力的な描写を含みます。ご了承の上、お読みすすめください。
夢から覚めて更にわたしは茫然とした。
夢が私の心を干からびさせてしまったようにも感じた。
以上。
今日は、以上で。
8月16日。
あなたと同じように、雨の中に目を覚ました。
今朝、なかなか起き上がれなかった。体調は悪くない。そうではなくて。
只管憂鬱で、6時に目を覚まして、それからベッドに横たわっていると、母親が現れた(——夢。夢ですよ。
判ってる。
いつか、眼をひらいたまま転寝て、そして眼差しはその奥の方に夢を見始めたのです。
夢から覚めた時の記憶さえある。
…夢。心配しないで。願う。
遠く離れすぎて何もできないけれど、あなたの心のざわめきふれて、そしてなだめてあげることさえできたら…)。
母は…多香美は。彼女、私を見た瞬間に笑った。
壁際にへばりつくように蘇生した体躯に出鱈目に生えた両腕は垂らして、なぜか汗をしたたらせつづけたまま(たらちねっていう言葉、在りますね?
あれ、思うに埀らす‐乳から來たんだと思う。
埀ら‐す、乳を、唇に。
埀ら‐乳‐根。
たらちね。——イノチを埀らすもの。
たとえばくらい水面に一滴の乳の雫が埀れて、そのただひとつの色彩をのみこみながら波紋は拡がって行くのだろう。
どこまでも…)僕を返り見た。
いつか話したでしょう。
目は只管澄んで向こうまで見渡せるはずだと思う。
けど、見得ないの。
多分、人間の視覚、乃至、人間が視覚として認識する視覚のあり様とはべつの視覚以て見出されるべきなんでしょう?
ブラックホールの事象の地平が決して見いだせず、けれどもそこに事象が存在してゐるように。
かりにそれが我々にとっては事象(即ち時間と空間の…)とはいえなくとも、そこにはなにかが発生している。
向こうになにがあるのだろう?
彼女は…多香子は、わたしにその腕を伸ばした。
ぼくは雨の打ち付けていたの気付いた。
紫陽花が匂った。
すぐ近くで。
降る雨の中で(どこだったのだろう?
降る雨以外に私には認識できないのだった。)彼女は…香香美多迦子は僕を腕に抱いた。
子供だった?
幼児だった?
あかんぼう?
それは判らない(ぼくには知覚し得なかった)。
彼女は僕は喰うのだった。
貪る?
牙を以て?
まさか。…いつくしむように。
むしろ僕を癒そうとたくらんだかのように。
あたたかさが広がる。
吹き出し、零れるように。
雨の音…
誰にも、僕にも、母にさえも、もちろんあなたには聞くすべもない雨が、ただそれ自身の必然においてみずからの音と共にあるのだった。
僕は聞かなかった(それは僕の過失だったろうか?)。
拡がるあたたかみが、それはまさに僕の喰い千切られた腕の飛び散らせた血が僕の皮膚に与え得たものだったことに気付いた。とっくに、僕はそれには気づいていたのだ。もはや僕は痛みそのものだった。
其の時には僕には痛みしか存在しなかったのだった。
鹿なのだろう。
雨に濡れた傾斜を駈ける何匹もの足跡が聞こえた。
地を蹴る。
地をわずかだけ削り取ってしまいながら(なぜ大地は沈黙をまもるのだろう?
たとえそれがもっとも淺い部分に過ぎなかったにしろ、僕らが好き放題穿ち堀り起こして仕舞ったというのに)。
僕はまばたく。
僕の身体は痙攣しているのだ。
痙攣する筋肉が、噛みつき肉をはぎ取ろうとする母の唇に困難を与え、僕はまばたく。
母の唇がいっそう無慈悲に肉を齧むのを強制する。
僕の肉体の痙攣が。
僕はすでに気付いていた。
あるべきだったものを、あるべきかたちに。
起るべきだったことを起るべきかたちに。
…多果子はていねいに直していたにちがいなかった。
多伽子の唇の先にはやわらかな齒が白く鮫のそれのように密集する。
むりだよ、と思う。
僕は。
そんな、…そんなにもやわらかな齒で。
噛み千切られた血の玉が空中を舞うのだ…と。
耳はノックの音を聞く。
誰が来たのかあやしんだ。
あなたが?
まさか。
ドアを開けたそこにあなたが微笑んで居ればよかった。
そうすればすべては救われるのだ。…そう思った。かつて、僕が裏切って、そして捨てて仕舞ったあなたも(本意ではなかった。
あれ以上、あなたを傷つけるわけにはいかなかった。いまや、國さえ捨てて仕舞った…)其の時はじめて僕を赦すだろう。
僕は、僕を赦すのだろう。
ベッドから立ち上がってドアの前に立った。
ノックの音が聞こえた。そのやさしい、伺うように不安げなそれは、僕の耳にだけ叩きならす轟音として聞き取られていた。本当はあなたの事など考えてはいなかった。
僕はそこに母がいるのだと思っていた。
ドアを開けたら、タオが蘭を連れて、そして私を見た瞬間に微笑んだ。
おはよう。
鼻水を鼻の奥で噛みながら話す、そんな甘ったれた高音を耳は聞いた。僕は已に知っていた。夢から覺めたのだと。
ぼくはタオを、そして蘭を招き入れた。
今日もタオの髪はうすく濡れていた。
蘭の髮はあえて見なかった。
僕の耳はそれ以上ノックの音がないことを確認しつづけていた。
それから、ぼくは一日中なにもやる気が起きなかった。
あの時、僕が多香子を殺したのではなくて、多伽子こそがぼくをころしたのだと。
僕は多迦子を罰したのではなくて、多伽子こそが僕を罰したのだと。
僕にはそんな印象が残った(でも、知ってたんだ。
それは愚劣な、無意識的な意識操作だとね。僕は僕を無罪化しようとしていた…)。
一日中、窓の外を見やる蘭の横顔を眺めて暮らした。
不意に想った——いつ?
何のきっかっけで?
わからない。僕のその思い付きは契機が存在してゐない…なぜ?
蘭を書くだろう、と。
今に始まった思いっではなかった。
そのときにも、「あらたに」思い附いたのだ…僕は何度目かに、「思いつき」の時間の中に存在したのだろうか?
蘭は降る雨を見て飽きなかった。
僕は彼女の横顏に、彼女の目を通して一面の降雨に濡れる海を見ていた(これは実感として、まざまざと現実的に見たのだ)。
美しい風景だった。
絶望的なまでに、人の眼の存在しない風景だった。
ただ、無慈悲なまでに美しいのだ。
夕方タオが迎えに来た。
ほんのすこし、部屋で時間をすごした。
彼女の心の震えは僕にはあきらかに感じられていた。
何に怯えているのでもない。何にも。
また何を案じているのではない。何にも。
懊悩?
逡巡?
不安?
悲哀?
…何にも。又は、何をも。
ただ、心がかたちもなくに、そのくせ音をだに立てて震える…わかるでしょう?(戀したとがあれば。判るでしょう?あなたの心はたしかにふるえた。
生まれて初めて。
僕を知った時に)
帰り際に、彼女は開いたドアに手を添えて言った。
——あしたは、休みだからね。
下を向いて、決して私を見ずに。
——休み?
——会社、休みだからね。だからね、
と。彼女は自分がわたしに何をも伝えられていないことにさえ気づいていないのだった。だから、彼女の爲にわたしはささやいた。
彼女にだけ。
——明日は、來ないの?
聲を、タオは耳に聞く。
そしてその聲の脳裏に残した聲を、彼女はもう一度聞いた。
——休みだからね。
其の時に彼女の頬が赤らんだ気がした。
——きてよ。
わたしの唇はそうささやいていたのだった(——なぜ?
と。なぜ、彼女を呼ぶの?…そう問いただす間さえもなく)
——なんで?
ようやくにタオは私をみるのだった。
顎を上げ、上目に。
背後の照明を、わたしはタオの前に覆っていた。
だからかのじょは私の作った翳りの内側にいた。
彼女には見えていた筈だった。…あわい逆光の中に微笑むひと。
——描いていい?
ささやく聲。それはわたし。
——なに?
——タオを、描きたい。
わたしは云った。その時にわたしは気付いた。水浴に、その女の中に、タオも居たことを。
——わたしを描くの?
——いいでしょ?
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