中短編小説:完全版

以下、作成順に一気読み閲覧用ファイル&ダウンロード・ファイル(《パブー》という電子書籍サイトへのリンクです。)を並べておきます。

閲覧もダウンロードも無料で可能です。

パソコンの場合、そのままPDF保存したほうがいいんじゃないの?というのが個人的な好みなのですが(笑)、

お好きな形式でどうぞ。

もっとも、ブログ形式でしか閲覧できないものもあります。(《私小説》シリーズのいくつかなど)

順次、アップしていきます。

op.1《蘭陵王》


仮面の美少年は、涙を流す。…


これは、2017年の夏に、一気に書いた、生まれて初めて書いた小説です。


雅楽の名曲、舞曲《蘭陵王》がモティーフになっています。ちなみに、わたしは趣味で龍笛を吹いたりするのですが、なんとかして、たとえば《蘭陵王》本曲の、時間がブラックホールに落ちて、不意にその流れが止まってしまったような、あの雰囲気を文章で再現できないかな、と想ったのでした。


後の作品に比べると、内容も展開も、ずいぶんとおとなしいものかも知れません。


あと5年で、物理学的に世界が崩壊してしまう。

そんな世界が舞台になっています。

単純に言うと、これは、デヴィッド・ボウイの《ジギー・スターダスト》の引用ですね…

オマージュ、あるいは、単なる《パクリ》とも言いますけどね(笑)


トランスジェンダーの、仮面の美少年。

謎めいた老人の、謎めいた死。

三重苦の《奇跡の画家》が描く海に降る雪の絵、そして、

発見されたその惨殺死体。


誰が、何のために殺したのか?


言葉の通じない、大陸の南の果て、《ベトナム》を舞台にする、

多言語文学空間。


順次、ファイルのほう、改良すると思います。

画像や、技術的な部分など、ですね。

ぜひ、一度、読んでみてください。

原稿用紙で、だいたい90枚くらいです。


気に入っていただけたら、ありがたいです。

上記の《蘭陵王》を書きながら、思いついてしまった作品が、下の二つの作品です。

そう言う意味では、派生作品、と言うべきなのでしょうか?



《乱声(らんじょ)》


陵王(りょうおう)》



乱声というのは、簡単に言うと、雅楽での、龍笛独奏による、序曲的なもの、と言えばわかりやすいでしょうか?


《序曲》と言っても、序・破・急の序であって、西欧風の序曲と本曲という感性における《序》ではありませんから、

《序》にこそすべてがある、とも言えます。


…わかりにくいですね(笑)。


もっとも、この《乱声》は、本当につぎの《陵王》を準備するための《序曲》のようにして、後から書き足されました。


《乱声》はベトナム公演のために渡越した風景が描かれ、

陵王》では、仮想通貨を利用した《仮想国家》や、そのクーデター、

一家惨殺事件などがおこり、そして、予想もつかないラストを迎えます。


じつは、このラストは、考えてもいなかったラストでした。

書きながら、あるいは、書かれながら、小説の言葉が自分で勝手に進行してしまったのでした。

もともとは、久生十蘭の《蝶の絵》という短編を原案とする、もっと短いものになるはずでした。


《乱声》は、原稿用紙にして40枚たらず、《陵王》は200枚くらいです。

op.2《サイゴンの雪》
Falling Snow ở Sài Gòn


熱帯の町に雪が降るとき、わたしたちは結ばれる。


この小説は、ベトナムに来た当初に出会ったある女の子がモデルになっています。

もっとも、小説のような展開をしたわけではなくて、ほんの小噺のような話なのですが。


ベトナム戦争にまつわる史実で、《サイゴン陥落》というのがあります。

英語で言うと、Fall of Saigon 、ベトナム語だと、もちろん《サイゴン解放》です。

この日、…1975年の4月30日ですが、このときの、米兵たちの撤退のシグナルが、

ビング・クロスビーの歌う《ホワイト・クリスマス》だったそうです。


つまり、1975年、

《春、熱帯の町に雪が降った》のです。


なんか、ときめきませんか?


この、小学校のときに社会科かなにかで、先生から教わったイメージが鮮烈に残っていて、

サイゴン(現・ホーチミン市)と言われればすぐに連想するのは、わたしにとっては、雪なのです。


内面的に傷付いているベトナムの少女と、未来を失った日本人の男が、

サイゴン(近くのビンジュン市)で、出会う。

言葉も通じない二人は愛し合うようになる。

二人とも、ふたりが幸せに離れないし、いつか引き裂かれることにも気付いている。

そんな中、謎めいた美青年が近づいてくるのだが…という物語です。


両性具有とか、同性愛とか、その他、いろいろ、

意外にぐじゃっと詰め込まれています。


もっとも、ラストシーンが、それまで構築されてきたもろもろを全部、

ぶち壊し、なぎ倒し、崩壊させて終わる、という小説です。


実は、もっと、シンプルで単純な恋愛小説だったはずなのですが、

書いていて、勝手にこうなってしまったのでした。


ヴォリュームは、これが一番長くて、原稿用紙にして、だいたい220枚くらいです。


下のリンクですが、技術的に、もっと読みやすくして、修正しました。

気に入っていただけたら、嬉しいです。



2018.05.28 Seno-Le Ma

op.3《flowers》


僕たちが、破壊したもの…


この小説は三連作になっています。


順に、


・《花々を埋葬する/波紋(カノン)》

・《ブーゲンビリアの花簪》

・《月の船、星の林に》


の三作品によって構成されますが、近未来から現在を通り抜けて過去に遡行する形になっています。

それぞれに完結してはいますので、どれから読んでも作品単体で理解できます。

転生と、少年犯罪、同性愛、トランスジェンダー、遺伝子操作、およびベトナムにまつわる近代史など、

多様なジャンルを横断します。


広範に進めば進むほど、破壊性および暴力性が増すような気がしますが、

ここで問うているのは、むしろ倫理そのものなのです。

これは、倫理をめぐる思考小説であり、そして、恋愛小説でもあります。

《花々を埋葬する/波紋(カノン)》 flowers 1. canon

意外に忘れている人が多いのですが、ベトナムも太平洋戦争時、日本の殖民地でした。

フランス(統治のヴィシー政権)と共同統治していたのです。

ですから、終戦を、大量の日本兵がベトナムで迎えます。

そのなかで、いわゆるベトナム戦争、…独立戦争から統一戦争に至る何十年にもわたる戦争、

その戦争に、積極的に参加したいわゆる《残留日本兵》たちがいました。

実際、クアン・ガイというベトナム中部に作られた、ベトミンによる陸軍学校の教員たちも、

開校当時、全員日本人だったようです。


その史実と、ベトナムの生活の印象の複合体として生まれたのが、この小説です。

三連作の中では一番おとなしく、そして、一番悲しげな作品かも知れません。

ある破滅的な事件によって滅びようとしている世界、そこに生きる《わたし》の視界は、

日に日に純白に染まって行く。崩壊を刻印するように。

妻が雨に濡れながら花をいじっている。

「どうしたの?何をしてるの?」

「花を埋葬してるのよ。

 花が死んで仕舞ったのに、だれも埋葬してあげないものだから…」


そして、記憶と現在が錯綜します。

ヴォリュームは、原稿用紙90枚くらいです。



《ブーゲンビリアの花簪》 flowers 2. fall

まず、説明が必要です。


最初、冒頭部、詩的といえば詩的、意味不明といえば意味不明の言葉が群がります。

それらの中から、やがて、意味を読み取れる文列が不意に生起し初めて、小説は物語を物語り始めるのですが、

つまり、常に《話者》が正気であるとは限らない、と言うことです。


不意の、狂気。

精神疾患という、非=正気のカテゴリーの中に綺麗に分類されてしまうようなそれではなくて、

不意に落ち込むような狂気。

私たちが、日常的にまみれているもの。

例えば、青空を見上げた瞬間に、不意に泣き出してしまいそうになるような、

…美しい、と、ただ、無意味にそうつぶやいてしまわざるを獲ないような瞬間。

むしろ、私たちの日常は、そうした、ざらっとした《正気とはいえないもの》にまみれているはずです。


また、この小説は、80年代末期に起きた、

いわゆる《女子高生コンクリート詰め殺人事件》の記憶にインスパイアされています。

取材はしていません。故に、直接的な関係はなにもありません。

あくまで、勝手な想像力の産物に過ぎません。

当時、同時代だった私も、この「戦慄的」な事件に「戦慄」しましたが、

その「戦慄」はむしろ、かりに、自分の身近でこの事件が起こった場合、

はたして私自身は加害者にならないですむのか、その確信が獲られなかったことでした。

無軌道で、反抗的な少年でしたし、どちらかと言えばむしろ犯罪や暴力のほうが身近だった事実もありますが、

そうではなくて、《倫理的な一般人》としてのわたしたちは、本当にこの事件を、阻止できるだろうか?

わたしには、自分のそのあやふやな《倫理》感の、あやふやさに怯えたのでした。

執拗で、曖昧な怯え。


あの事件の犠牲者の少女は、死体解剖の結果、初期の受胎が確認されたそうです。

もしも、その命が生まれていたなら?

彼はどんな風景を見るのか?

彼が見る風景はどんなものなのか?

そう考えたときに、出来上がったのが、この小説です。


いろいろと、過激な描写もありますが、それが目的ではありません。

あくまで、問題にしているのは、わたしたちが《倫理的》に生きるとはどういうことなのかということ。

《倫理的》であること、その可能性と限界を思考しようとしました。


これは、わたしにとって、《倫理小説》なのです。


2018.05.14. Seno-Lê Ma



決して読みやすいとはいえないし、すがすがしい読後感が得られるわけでもありませんが、

わたしは、もっとも大切にしている作品です。

原稿用紙換算で、大体180枚くらいだと思います。


実は、いま、さらに手を加えようとしているのですが、…どうなるのでしょう?


全体の構成それ自体を変えようともしています。


レオナルドの《モナ・リザ》のように、一生書き続けるかもしれません。…


2018.05.23. Seno-Lê Ma



《月の船、星の林に》 flowers 3. colors

これは、いくつか説明が必要です。


まず、この作品は先の《ブーゲンビリアの花簪》で扱った、例の事件が直接出てきます。

事情は同じです。ですから、繰り返しません。


次に、最初から面食らう書き方で始まって、読んでくださる人にとっては、

この小説はどうなってるんだという感じだと想うのですが、

いまさら《前衛小説》《実験小説》を書きたいのではなくて、

単純に敏感な表現様式を求めたらこうなった、ということなのです。


たとえば、言うに言われない微妙な心のひだとか、ちょっとした、うまくいえないけど、ほんのちょっとした、何か、…

そんな、微妙で微細で繊細で震える感情の触れ合う寸前の気配のようなもの


それを追いかけようとしたら、こうなったんです、という、作者としては開き直るしかない理由があるので(笑)

開き直るしかありません(笑)


最初に書いたヴァージョンと、明らかに様式が違いすぎてきたので、別枠でアップしています。


実は、この連作の中で、一番先に書いたのが、これです。

次に《ブーゲンビリアの花簪》、最後に《花々を埋葬する》だった気がします。


この複雑なテクストの読み方ですが、何も考えずに、

細かいこと気にせずに自由に読んで行くと、

言葉相互がなんとなく触れ合いそうで触れ合わなかったり、

邪魔しあっていたり、意外に想ってもいない効果を挙げたりと、

いろいろな風景を見せてくれるはずです。

(僕のコントロールがうまく行っていれば、ですが…)

なにも、極端に細かな意味論上の操作をしているわけではありません。

一字でも意味を取り違えたらわからなくなる系の、めんどくさいヤツですね。

好きなように、読んでください。


最初に言ったように、はっきりと言いきることのできない、

心のひだの、さらに息遣いのようなもの、を、捉えようとしたのです。


もっとも、いきなりそれから始まるのか、と、あきれる方もいるかもしれない場面から始まりますが、

文字どおり、そんな、生々しくて露骨な場面の、さまざまな《息遣い》から、はじめたかったのです。


実際、誰だって、その時、本当に繊細な心の動きを、誰もがしているものだ、と想うのですが、


…どうでしょうか?



* *


ところで、最近書いているのは、基本的にこれらのような、

《前衛風》といえばそうなのかもしれない感じのものなのですが、

《ナーヴァスな音色》という、これの続編、のようなものを書いてしまって。

それで、書き直しちゃった、と言うのが、改稿の理由でもあります。


もうちょっと、膨らませたら、新しい形でアップしようと思います。


ヴォリュームは、原稿用紙で、180枚~二百数十枚くらいだと思います。

…たぶん。


2018.05.28. Seno-Le Ma



op.4《永遠、死、自由》


時間さえもが燃え尽きるまで…


この作品は、もしも細胞の再生能力に限界がなかったら?という発想から生まれています。


例えば、トカゲの尻尾は切断されても生えてきますし、

樹木も枝をぶった切れば新しい枝が、むしろ、それこそ鬱蒼と生い茂ってくるわけですが、

本体だけではなくて、切り落とされたほうもその本体を再生してしまったら?と。


もちろんその存在は不死の生命ということになりますし、

哺乳類=植物的繁殖モデル、つまり交配からの受精、というシステムですね、

それに寄らずに、むしろ殺戮しあうことによって繁殖することになるのではないか。


お互いに殺し合い、切り刻むことによって繁殖して行く超=生命体。


しかし、理論的にはありえなくはない。

そこで、考えたのが、この小説です。


主人公の不死の生命体には《穢死丸》という名前が与えられています。

これは、op.3《ブーゲンビリアの花簪》に出てくるペルソナの流用です。


全体の構成は


・《永遠、死、自由》Ⅰ (短編)

・《永遠、死、自由》Ⅱ (短編)

・《愛する人》 (中篇)

・《永遠、死、自由》Ⅲ (中編)

・《廃墟の花》 (中篇)

・《永遠、死、自由》Ⅳ (短編)

・《永遠、死、自由》Ⅴ (短編)


の7つのパートから出来ています。

《永遠、死、自由》Ⅰ・Ⅱ…まだ、見たことのない風景を見ようよ

《穢死丸》の、現在・過去・未来、時代を飛び越える短編。

全体の序章のようなものです。


柿本人麻呂も出てきます。

わたしが、もっとも影響を受けた、…なんというのでしょう?

日本語使用者というか(笑)、ようするに、詩人です。


枕詞が刻む、うねるようなリズムといい、飛躍するイメージといい、

ものすごい重層性といい、これ以上の日本語を読んだことがありません。


基本的に明滅的な断片が、交互に交錯しあいます。


ついでに言っておけば、《わたし》が常に同じ《穢死丸》である必然性はありません。

同じ一つの固体が、分化して出来た集団なのです。

誰も彼もが《穢死丸》で、そして、それぞれの固有性において、存在しているのです。


ヴォリューム的には、あわせて、原稿用紙換算40枚ちょっと、なのではないでしょうか?



《愛する人》…君の革命、僕の涙。

基本的には恋愛小説です。

主人公が見詰められ、そして、自殺するところから始まります。

《愛する》という動詞をめぐる物語です。


ちなみに、《好き》と《愛する》のもっとも明確な、意味論的な、ではなく単に文法的な差異は、

《好き》が形容詞、《愛する》が動詞だと言うことです。


一般的に、日本語の場合、形容詞は存在論的な事実として扱われます。

あつい、さむい、など、自分の意志に関わらず、そうであるよりほかにすべのない状態。

こうやって、以下のように並べるとわかりやすいと思います。

《わたしは、「日本人」です》

《わたしは、「悲しい」です》

《わたしは、「あなたが好き」です》

このとき、《わたし》に自由な選択の余地はありません。《わたし》とは、《あなたが好き》そのものなのです。


動詞には二つあります。

自動詞と他動詞です。

自動詞は、《雨が降る》、つまり、わたしの意志によらず、そうなるもの。自動的なもの。

他動詞は、例えば、《呪術師が雨を降らせる》、意志のある、動詞です。


《~なる》は自動詞。春に、なる。あたたかく、なる。

《~する》は他動詞。衣替えを、する。花見を、する。


《愛》の場合、《愛になる》とは言いません。

《愛する》です。つまり、完璧な他動詞なのです。


そうやって考えると、《好き》と《愛してる》の違いが明確になります。

誰かを好きになることには、意志などない。故に、決断も決意も伴わない。

誰かを愛するとは、文字通り意志ある行為であり、決断と決意の産物である。


だから、結婚式のとき、

《わたしは彼女を永遠に愛することを誓います》とは言っても、

《わたしは彼女を永遠に好きなことを誓います》とは言わない。


《愛する》とは、その人を《愛する》ことを選び、決断し、決意すること。

意志に基づく行為なのです。


LGBT、右翼少年、切腹、クーデター画策、進化、その他、さまざまな要素が入り乱れますが、

これはあくまでも、《愛する》という決意ある動詞をめぐる物語なのです。


原稿用紙換算で、180枚くらいです。

文字数は、もっと、多いです(笑)。



《永遠、死、自由》Ⅲ…人間たち、その終焉の風景

穢死丸の物語に帰ります。

これも、断片的に書かれています。とはいえ、かならずしも難解でも読みにくくもありません。

単純なエンターテイメント小説としても読めると思います。

もっとも、ライトノベルのようには読めませんが。


基本的には、核爆発によって滅び始めた人間たちの最期の時期をめぐっての物語です。

アジア人ハーフで、タトゥーだらけ、褐色の肌のハナエ=龍(ロン)という人物が出てきますが、

個人的には好みのデザインです。もっとも、個人的な趣向ですが。


人間と共生しようとする穢死丸も出てきます。

また、ここでも、さまざまなかたちで、…その多くは残酷なかたちで、

《愛する》ことが問われます。


ゾンビ化した妻を《愛し》つづける男、

自分のせいで、悲惨な《奇形生命》を《愛する人》に生ませてしまった《新種人類》の男、

廃墟のビルに押しつぶされて死んで行く女の、さまざまな《愛し》かた。


廃墟の中で見いだされた、いくつもの《愛》の物語です。


原稿用紙換算で、180枚くらいです。



《廃墟の花》…純白の風景の中で、羽撃いた者たち。

ゾンビがはびこる世界。

といっても、細胞をめぐる物語なので、そこにオカルト性はありません。


そんな世界の中で、記憶喪失の傷付いた男が、記憶を取り戻したとき、彼はどうするのか?

ゾンビの少女は、そして、純白の花々を撒き散らす。…


ほとんどの人類が滅びた後、という設定になっています。

アウトラインを書くと、なんかとんでもない設定になっていますが、実際に読んでいただければ、

そこまで違和感のない話だと思います。…たぶん。


単純に、一番読みやすいし、単純に、あらすじが一番おもしろいんじゃないかと思います。


これは、島木健作の「らい」という短編小説があって、

それの冒頭、戦前の左翼活動のために拘束された主人公が、牢獄にたたずむ、その描写を読んで、想いついたものです。


原稿用紙換算、180枚くらいです。

行変え多用スタイルに変わっているので、読みやすいと思います。



《永遠、死、自由》Ⅳ・Ⅴ…時間の果てで、燃え尽きる。

穢死丸の物語、その続編です。


最終的には、宇宙が出てきます。

人類が滅びた後の、《新種生命》も出てきます。

そして、《小島教授》の家庭に、いきなり話しが戻ります。


この展開は、最初から考えていたものでした。

時の果てまで行って、いきなり小さな日常に回帰する、のです。


二つあわせて、原稿用紙30枚ちょっと、だと思います。





* *



全体的に、この連作が、間違いなく一番読みやすいです。

狙ったわけではありませんが、そうなってしまったのです。


そして、基本的なテーマは《愛する》ということ、それ自体です。

SF的な意匠や、暴力的な描写も出てきますが、すべては、ただ、《愛》のために。《愛》を考え、あえて《愛》に驚き、むしろ《愛》におののき、にもかかわらず、《愛し》続けるためだけに。



op.5《アルフレート・シュニトケ、その色彩》


破壊する、と彼女は言った。


この作品は、最初、公表するのをやめておこうと想っていたものでした。

理由は単純で、暴力的な描写や、反社会的あるいは反道徳的な描写が、いくらなんでも多すぎる気がしたから、です。

しかも、途中で中断してしまっていたのでした。

ところが、不意に、これは二部構成の小説の第一部、どちらかと言うと、導入部の役割を果たすべき第一部に過ぎないのだな、と言うのに気付いて、書き継いだのでした。

第一部の導入部で、破壊的な風景が広がって、いわば、その廃墟の中から、主部たる第二部が生起してくる、そう言うものだな、と想ったのです。

もっとも、まだ、その第二部の方は、書き出してもいません。

頭の中には在るのですが、もちろん、そんなもの、実際に書き出して見なければ、結局は当てにならないものにすぎません。いずれにしても、その第二部で倫理と言うか、何と言うか、そう言うものが、構築されていくはずなのです。


と言うことで、ここに今現在アップされているのは、その破壊的な第一部の方です。


【ブログ版】のまとめは、こちらです。

インターネット用の修正がされています。

全体は、結構な規模になってしまいました。


 序章:《その色彩》


第一章:《シュニトケ、その色彩 上》


 インテルメッツォ(間奏曲1):《盗賊》


第二章 第一節:《シュニトケ、その色彩 中 一帖》


 インテルメッツォ(間奏曲2):《brown sugar》


第二章 第二節:《シュニトケ、その色彩 中 二帖》


 インテルメッツォ(間奏曲3):《龍声》


第二章 第三節:《シュニトケ、その色彩 中 三帖》


第三章:《シュニトケ、その色彩 下》


 終章:《アルフレート・シュニトケ、その色彩》


読んでいただければ、とてもうれしいです。


以下は、インターネット用の修正等のない【完全版】の一覧です。

《その色彩》…墓標と、序章

これは、いたって短い序章です。

ここでは、《上》の後のごくごく日常的な風景が、描写されます。

ベトナム在住の日本人と、その、幼い未婚の恋人、実質上は結婚生活を送っているベトナム人の少女との、彼女の両親の墓へのお墓参りの物語です。


物語としては、特に大きな動きをするわけではありません。

どこか私小説的な、ありふれた日常の中の、こまかな描写から、何かが漂ってくる、…そんな掌編小説を目指したのです。


もっとも、ベトナムの少年盗賊団が出てくるので、全く何も起こらない、というわけではありませんが。

同じような掌編小説の終章と、対をなすパートになっています。



《シュニトケ、その色彩》…破壊する、と彼女は言う。

この作品から主部に入ります。

内容は、かなり破壊的です。


ベトナム中部の観光都市、ダナン市在住の日本人の《私》はTrang チャン という少女と、実質結婚生活を送っている。

この《私》が見た一家惨殺事件の顛末、そして、日本の首相官邸の爆破を狙う、

ある中国人が資本元になっている日本在住の外国人主体の右翼集団の暗躍を描く、という内容です。


もともとは、この中篇と《下》だけで一つの作品になるはずのものでしたが、

書いている途中で、話しが膨らんで、結局は現状の規模のものになってしまったのでした。

この作品では一家惨殺事件の内面的な詳細は明かされません。

《下》で、すべての風景が鮮明に明かされることになります。



《盗賊》…彼女は静かに、涙を流す。

加奈子、という、《上》以降に出てくる自分と、《私》の、そして《私》の恋愛の記憶が集積した、小さな物語です。

個人的には、結構好きな短編だったりはします。

内容らしい内容もなくて、瞬間の痛みと言うか、《物語》を形成する以前の、

繊細で鮮明な感覚だけで、一つの言語作品を作ってみたいという、ずっと抱えている欲望を、そのまま起動させたものです。


実際、書きたいのはそういう、何と言えばいいのでしょう?

いわゆる《私小説》的な…たんに、自分の人生だの何だのだらだら書いてあるというのではなくて、

そういう物語を形成しない断片的な言葉の群れの集積としての作品なのです。

僕にとっては、そう言うほうがリアルなんですね。


例えば、この《作品集》も、そんなものです。

…成功しているでしょうか?


いずれにしても、《盗賊》は、短く、退廃的で、未来の希望も何もなく、救いようもなく、そして、美しくさえないから、結局は《美しい》という言葉を、なすすべもなくつぶやくほかない、そんな風景を、描こうとしたのです。



《シュニトケ、その色彩 中 一帖》…木漏れ日の中の、君を見る。

前半の、ゆっくりした、基本的には海辺をバイクで走っていくだけのシークエンスというのは、実はこれから書かれるべき第二部にそのままつながるはずの部分です。

物語は外国人だらけの右翼部隊の内部の物語を中心に進行していきます。

最期のほう、お茶会の部分は、私としては、個人的にもっとも好きなシークエンスです。



《brown sugar》…君に、無限の幸福を。

この小説は、ベトナムの少年窃盗団の物語です。

《シュニトケ、その色彩 上》と、《その色彩》に出てくるThanh、タン、という名の少年と、

フィルリピン人、と、人種的には区分されるに違いない(つまり、お父さんとお母さんがフィリピン人だから)二本生まれに本育ちのマリア、という少女との、破滅的な恋物語、のようなものです。

犯罪小説というのと、恋愛小説というのを、混ぜたような、というか。


実は、唐突にこれを書いてしまったおかげで、その後いろいろな構想に支障をきたしてしまったもの、でもあります。


第二部のほうで、このThanhタン少年のその後を、再び追っかけてみたくなったのです。



《シュニトケ、その色彩 中 二帖》…共犯者たち。

《桜桃会》という、右翼部隊の物語です。

外国人ばかりで形成された右翼部隊。彼らが固守する《日本美学》、というのが、もともとのアイデアです。

要するに、《日本的なもの》というのをばらばらに解体してみたかったのです。

私自身はいかなる意味でもいわゆる《右翼》ではありません。

興味があるのは、《右翼》的なものが、美学として、その重さや形態はともかくとして、はびこって仕舞うこと自体です。

日々、《右翼》的な言説が、生産されてやまない現状と言うのには、非常に興味があります。



《龍声》…花と、龍と、そして雨。

インテルメッツォ。

いわゆる《昭和文学》的な文体のパスティーシュ、でもあります。

いかにも《文学的な文体》と、今の私たちが感じてしまうところの比較的新しく構築されたに過ぎないが、

いまやだれも使いはしない類の、ああいう文体を模倣したもの、…ですね。

くだんの《右翼部隊》の内部の物語です。


《皇紀》という男装の麗人と、あるベトナム人右翼青年の物語。

内容はなかなか要約しがたいというか、要約してしまえば、たぶんおもしろくも何ともないのですが。

ぜひ、読んでいただければ、嬉しいです。

たぶん、おもしろく読んでいただけるか、アホか、の一言で終るか、二つに一つの短い小説です。



《シュニトケ、その色彩 中 三帖》…地の果てで、君と。

《桜桃会》という外国人だらけの右翼部隊と《私》がついに国会議事堂を制圧する。

ようするに本当にクーデターを起こしてしまう。

さらには総理大臣とか国会議員とかみんな殺されてしまう。

未来が見えると言う少女が銃発砲。

日本国というのは国家実体として崩壊する。自衛隊が《私》たちを射殺する。

および、その《桜桃会》の爆破演習の最中に巻き添えを喰らった《チャン》の死の顛末も想起される、…という、

要約してしまえば無茶な話しなのですが。


簡単に言ってしまうと、外国人資本の外国人だらけの構成員による純和風右翼部隊によって、

その日本そのものが解体される、と言うことなのですが、

これは昨今の移民問題に伴う外国人排斥的な言動に寄り添ったものではありません。

むしろ逆で、国家という旧世紀の概念など解体してしまえ、という感性による、国家解体の試みその1、…です。


ちなみに、ここで出てくる《未来が見える少女》というのは、やがて、《イ短調のプレリュード、ニ短調》という小説で、拡大展開されています。《長編小説》のページで、読んでいただけます。

こっちのほうはすでに、なんか、むちゃくちゃ長くなってしまいました。

この《シュニトケ》もそうですが、こっちのほうも、読んでいただいて’、おもしろいと想っていただけるか、アホかの一言で終るか二つに一つ、の小説です。


いずれにしても《中 三帖》は結局、《再生の物語》になるはずの第二部を導き出す物語でもあります。



《シュニトケ、その色彩 下》…オイディプス王

《アルフレート・シュニトケ、その色彩》…最期の風景。